第二話 雨に踊る赤

 私は雨が好きだ。

 校舎の窓から五月雨にけぶる緑を眺めながら、その灰色の中に懐かしい風景を思い浮かべていた。

 すべては、あの日から――。

 そうして過去に想いを馳せている間にも、壁掛け時計の針がカチリと動く。

 あと三〇分もすれば、長針と短針がそれぞれ真逆の方向を向き、文字盤を縦に真っ二つに分ける。


 ***


 あの日、生徒会長としての仕事を終えた私は、誰もいないテニス部の部室にいた。

 時々、試合の助っ人に駆り出されるだけの私には関係ない話だが、その日は体育館でPTAの行事が行われていたため、運動部の活動はすべて休みとなっていたらしい。

 雨が降っていたこともあり、部員は早々に帰宅してしまったけれど、私は雨が止むまで掃除用具入れの整理でもしようかと、一人でここに来た。

 ある程度、片づけの目途がついたところで、日頃おざなりになりがちな道具の点検もしておこうと思い立ち、ボールに空気を入れたり、コートブラシの手入れをする。

 それは軽い気持ちで始めた作業だったが、想像以上に調整が必要な道具が多く、思いのほか時間がかかってしまった。

 薄暗い部室に取りつけられた窓から、いつまでも止みそうにない空を見上げて、ため息をつく。

 梅雨入りをしているというのに傘を忘れるなんて、いつもの私では考えられない失態だ。しかし、忘れてきたものは仕方ない。

 雨にけぶる窓から見える眺めは灰色で、なんとなく気分が沈んでくる。帰宅部の生徒もみんな帰ったようで、校門までの短い坂道には人影も見当たらない。

 私は黙々と手を動かす。ボールの汚れを確認し、乾いたタオルで土や埃を拭き取る。やることをすべて終わると、再び窓の外に視線を移した。未だ雨が止む気配はない。

 高台にあるこの学校からは、天気がよければ街が見渡せるのだが、今日は灰色一色だ。

『濡れて帰ろうかしら』

 誰にともなく独り言ちて、立ち上がろうとした私の視界に、不意に鮮やかな赤が映り込んだ。私はもう一度、窓の外に目を向ける。

 八角形の赤はくるくると回り、上へ下へと忙しく動き回る。傘の持ち主は、私に見られていることにも気づかず、傘を揺らしながら踊るように歩いていたのだ。

 灰色の風景の中でひと際目立つ、赤。垣間見える服装は夏用のセーラー服。恐らく、この学校の生徒なのだろう。

 ステップでも踏んでいるかのような足元では雨水が跳ねて、彼女の白いハイソックスを濡らしているようだ。

 それでも彼女は足を止めず、楽しげに歩いていく。

 濡れ羽色の長い黒髪も踊っている。追いかけたいと、そんな衝動に駆られる。

 けれど、この部室を出て昇降口に回り、外に出た頃には、彼女を見失っていることだろう。私は目を離せないまま、ずっとその赤い傘を見つめ続けていた。

 校門をくぐる間際、彼女が一度だけこちらを振り向いた。中肉中背、なだらかな肩、丸い顔、大きな瞳。その可愛らしい面差しを網膜に焼きつけた。

 それから数日後、委員会同士の定例会議の時間。生徒会長である私が遅刻するわけにはいかないと、生徒会役員と連れ立って、特別会議室へ足を運んだ。

 私たちが定位置に着いてから程なくして、ぞろぞろと他委員会の生徒も姿を現す。

『天野会長。どうぞ、お茶です』

 そのとき、今日の会議で必要な資料をチェックしていた私の耳に、聞き慣れない声が入ってきた。

 声の主である女子生徒は、湯呑みを載せたトレイを手に、生徒たちにお茶を配っている様子だった。私は隣席に座る副会長に尋ねかける。

『あの子は?』

『あれ? アヴリルってば、弥生ちゃんを知らないの? 最近、風紀委員会に入ったばかりの一年生だよ』

『へえ』

『何? まさかとは思うけど、あの子のことが気になるの? 新しい扉を開いちゃった?』

『そういうわけではないけれど』

 実際は、気になるどころではなかった。

 彼女はあの日、雨の中を踊り歩いていた赤い傘の少女だったのだ。

 そして、それこそが私と彼女の出会いだった。

 それから半年と少し。私は秘めた想いを胸に抱えたまま、ついぞ彼女に話しかけることさえできずに、中学を卒業した。


 ***


「弥生、聞いているの?」

「え、なんですか? 今、追い込み中で……」

 風紀委員会室の机に広げた書類とファイルを見比べて、うんうん言いながら資料を作成している彼女は覚えているだろうか。あの雨の日のことを。

「まさか、聞いていなかったの?」

「天野先輩、お願いします。少しだけ待ってください。十八時までには仕上げないといけないんです」

 恋人となった私たちは二人で過ごすために、毎週金曜日の十八時に校門前で待ち合わせをしている。

 なぜなら、下校時間が十八時だからだ。そのため、彼女はどうしても時間をオーバーするわけにはいかないのだ。

 毎週待ち合わせに遅れてくる彼女を窘めてきたが、一向に改善する気配がない。

 そして今、なぜ生徒会長である私が風紀委員会室にいるのかと言えば、「お手数ですが、風紀委員会室まで来てください」というメールを弥生から貰ったからだ。

 十八時までに資料を作成し、同時に私との約束も守るという腹積もりなのだろう。

 ひとこと、待ち合わせの時間と場所を変えないかと提案してくれたら、私には受け入れる気持ちがある。なんなら、十八時以降に外でも構わない。しかも、私は本当に怒っているわけではない。

 けれど、私の言動一つで一生懸命になったり、頬を膨らませたり、笑ったり。彼女のそんな姿を見ていることが、何よりも幸せなのだ。

 あの頃、もしも勇気を出していたら見られたのかもしれない彼女の無邪気な姿を、今からでも。

 どう形容すればいいのかはわからないが、何事にも一生懸命なこの姿が愛しくて、ただただ見ていたいのだ。

 だから、私は自分から約束の時間と場所を変えないかとは言わない。

 私の説教が始まると、彼女はなんだかんだと無駄な言い訳を始めるが、往生際の悪い唇は塞いでしまえばいい。正直なところ、それは私の密かな楽しみでもある。

 時計の針は、真逆の手前まで来ていた。

「できた。完成しました。はい、終わり! 間に合いましたよ、天野先輩!」

 高らかに宣言する彼女の顔は、仕事をやり遂げた達成感に満ち溢れ、晴れやかな笑みすら浮かんでいる。

 その姿を内心微笑ましく思いながら、私は彼女の目の前に携帯電話を差し出す。

「私との待ち合わせは一分過ぎているわ」

「資料作成は五十九分に終わりましたよ?」

 彼女は首を傾げて、携帯電話に表示されている時計を眺める。

 しかし、風紀委員会室にいる以上、今の彼女は風紀委員。即ち、仕事モードである。本来、私との待ち合わせ場所は校門前なのだから、間に合ったとは言えないだろう。

 そう説明すると、彼女は不満そうに眉をひそめる。

「そんな。たった一分じゃないですか」

「一分でも遅刻は遅刻でしょう」

「いくら生徒会長だからって、横暴です!」

「生徒会長として言っているのではないわ。十八時を過ぎれば、私はあなたの恋人なのよ」

「そんな細かいことばかり言ってると、ストレスで早死にしちゃいますよ」

「……あなたは、いつも狙っているのかしら?」

 言いながら、顔を近づける。

「しょ、職権乱よ――」

 最後まで言わせない。

 私は彼女の生意気な言葉を呑み込み、程なくして唇を離す。すると、彼女はやっぱり不満げな、そしてどこか寂しげな表情を浮かべていた。

「天野先輩、私……」

「どうかしたの?」

「キスが嫌なんじゃないですよ?」

「は?」

「でも、こういうのって。天野先輩は、本当に私のことを……」

 彼女は俯き、言葉尻を濁らせる。だが、私には彼女が何を言いたいのかがわからない。

 黙って続きを促せば、彼女は意を決したように顔を上げる。その瞳にはうっすらと涙が滲んでおり、私は思わず息を呑んだ。

「天野先輩は、本当に私のことを好きなのかなって」

「なんですって?」

「だって、いつも、なんて言いますか……。キスがお仕置きみたいで、その……」

 その言葉を聞いた瞬間、私の頬がゆっくりと緩んでいく。

 ようやく彼女の言わんとすることを理解した私は、耳まで赤らめて俯く彼女をそっと抱き寄せた。突然のことに驚く彼女の頬に手を添えて、その大きな瞳を覗き込む。

「では、お仕置きじゃなくて、恋人としてのキスをしましょう」

 こちらを見上げる潤んだ瞳に唇を押しつけてから、薄桃色の小さなそれを塞いだ。

 唇を離して、再び至近距離から見つめると、耳まで真っ赤に染めた彼女も私の双眸を覗き込んでくる。

「あの雨の日から、ずっと」

「え……?」

「さっきの話を聞いていなかった、あなたが悪いわ」

「え? え?」

「一体、何度言えばわかってくれるのかしらね」

 すでに無人と化している風紀委員会室で、私は弥生をきつく抱きしめながら、もう一度、三年分の想いを込めてキスをした。

 私が雨を好きになったのは、あの日からだ。

 そして、扉の脇にある傘立てに一本差されたそれは、今日も赤い色をしていた。



©️一ノ瀬友香2024.

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