カタツムリの休日
名は体を表す、とはよく言うが、あれは真っ赤な嘘だ。
僕が十七年近く付き合ってきた
両親は恋の矢って、キューピッドって感じで可愛いじゃん。というノリで名付けたらしい。
「へぇ、恋のキューピッドだねぇ」
僕の名前を聞いた人間のほとんども大概はそんな反応をする。これはもう、僕の人生における様式美のようなものだ。
では、名が体を表すのなら、僕は人と人との恋路を繋ぐ仲人というわけなのであろうか。
答えは否。断じて否である。
僕は人と人とを繋げるどころか、僕自身の友達の数がごく小数だ。本人が繋がれていないのに、他人と他人を繋ぐとか片腹痛い。まずは自分と人とを繋いでから出直してこいや。といった感じである。
それに、そもそもの話。
恋矢でインターネット検索すると出てくるのは、恋の天使などではなく、「カタツムリが交尾する際に相手に突き刺す槍状の器官」だ。まあ、そっちの場合の読み方は
なんにせよカタツムリだ。カタツムリの交尾の器官だ。それが僕の名前だ。子どもの頃調べて深く深く絶望した。全然恋のキューピットじゃねぇ。しかもこの器官をぶっ刺された相手は寿命が縮むらしい。物騒が過ぎるだろ。僕がこの名前でどれだけいじられてきたことか。
だから、名は体を表すというのは完全に嘘っぱちなんだ。いや、嘘でなくてはならない。
だって僕はカタツムリの交尾野郎じゃないもん……
――――――――――――――――――――
顔を洗った後、ちょい遅めの朝食を摂ることにした。
サラダをもしゃもしゃしてごっくんする。ドレッシングはシーザーだ。うむ、安定の美味さである。
そろそろかな、と思い、キッチンへ向かう。ちょうどケトルが仕事を終えた合図を発したので、あらかじめ用意しておいたマグカップにお湯を注ぐ。インスタントコーヒーの粒が溶け、実に優雅な香りが室内に漂う。
「んー、お上品ザマスねぇ。おほほほ」
ブルジョワがシャム猫撫でてる気分で笑ってみる。
インスタント程度で何を言ってんだって感じだが、コーヒーの善し悪しの何一つも分からない僕にとってはインスタントでも十二分にお上品な香りだ。
コーヒー、詳しくないけど、でも好きなんだ。この気持ちは嘘じゃないんだ。自室とかコーヒーの匂いで満たしたいくらいなんだ。一昔前、部屋のカーペットにコーヒーをぶちまけるか、霧吹きでコーヒーを部屋中に散布するか本気で検討した程度には好きなんだ。もちろん、実行はしなかったけどさ。
砂糖を加えたコーヒーをあちあち言いながらちょびちょび啜る。非常に飲みづらい。飲みづらいけど、こんな瞬間が好き。なんだか、ちょっとイジワルなアナタみたい。気まぐれでほろ苦いわ。これが恋ってやつなのかしら?
そんな益体もないことを考えながらぼんやりコーヒーを嗜んでいると、妹がダイニングに入ってきた。
「あ、起きてる」
「おー、おはよ」
「んー」
妹は目を合わせず、挨拶も返してくれない。最近はだいたいこんな感じだ。思春期なのかしら? まあ、中二だし、紛れもなく思春期だし反抗期なんだけども。
でも、反抗期な割に、反抗しているのは兄に対してだけな気がするのは僕の気のせい? 気のせいだよね? ははは、そんなまさかぁ。
「……」
兄のことが嫌いとかじゃないはず。ないはずだ。頼む……!
「……お湯、まだあるけどお前もコーヒー飲む? お兄ちゃん、淹れたげるよ?」
嫌われているのでは、という疑念を払拭するため、なるだけ優しい声でそう提案する。が、妹の態度はすげない。
「別にいらない」
「……そっか」
「お兄ちゃんが淹れたコーヒーとかなんかキモイし」
流石に酷くない??
「不味いとかならともかくキモイはおかしいだろ。それに、別にキモくないし」
「いや、大丈夫。お兄ちゃんはちゃんとキモイから」
「何が大丈夫なんだよ……大丈夫って言葉の意味、ちゃんと分かってる? 大丈夫??」
全力で皮肉ってみるも、妹は取り合わない。面白くなさそうな表情は少しも揺らがなかった。
「自信もっていいと思うよ」
「何に? キモさに……?」
「キモさに」
キモさへの自信とか死ぬほどいらねーわ。チキショウ、この小娘め。
心中で小生意気ガールへ批判の意を表明しつつ、コーヒーを舐めるように啜る。
妹にキモイとか言われてちょっと傷ついたけど、今の会話にも収穫はあった。僕は嫌われているわけではないということが判明した。ただ単にキモがられているだけのようだ。あー、よかった、嫌われてなくて。よかったよかった泣
妹は僕の横を無遠慮に通り過ぎると、冷蔵庫から麦茶を取り出してマグカップに注ぐ。それから、グイグイと一気に飲み干した。
「ふいー……あれ? サラダでも食べたの?」
流し台の空の器を見て妹が呟く。たしかに、さっきまで僕がサラダをもしゃっていた皿だ。
「ん? ああ、そうだけど、なぜ分かったし」
「お兄ちゃん、だいたいサラダだのなんだの野菜ばっか食べてんじゃん。分かるに決まってるよ」
「……別にいいだろ。野菜、美味いんだから」
スープのクタクタになった野菜とか、サラダとか、漬物とか、美味いじゃん。美味い上に健康的じゃん。野菜、最高じゃんね。
そう言ってみると妹は、
「いや、別に健康的ではないでしょ」
と、鼻で笑った。
「お兄ちゃんは野菜が好きだから食べてるだけじゃん。その時点で食生活偏ってるし。しかも運動とかも全然しないでしょ。ダメダメだよ」
「……正論すぎてぐうの音もでねぇ」
「野菜大好きだなんて、やっぱ名は体を表すよね。やーい、カタツムリ」
「……やめろ。カタツムリは雑食で、けっこう色々食べるんだよ。野菜好きってだけでカタツムリ扱いはおかしい」
「へー、そうなんだ。例えば他に何食べるの」
「コンクリートとか食べるらしい」
「マジ?」
「マジマジ。だから、僕がコンクリートとか食べだしたら、その時はカタツムリ扱いしてもいいよ。そこまで行ったら流石に受け入れる所存」
「ほーん、じゃあ早く食べられるようになってね」
「そんなに兄をカタツムリ呼ばわりしたいの??」
この妹、兄を一体なんだと思っているのか。もしかしてカタツムリ? だったらその妹のお前はナメクジってことにするぞ。
「ていうかさ、さっき部屋で何バタバタしてたの。うるさかったんだけど」
ふいに、妹が疑問を口にする。
小癪な小娘に対してナメクジくらえという念を飛ばすのは一時中断して、僕は答える。
「あー、魔王がね」
「魔王? 何言ってんの」
「魔王という名の母さんが急に部屋に突撃してきて、僕の安眠を妨害してきたんだよ。酷いよね」
「いつまでもグダグダ寝てる方が悪いんじゃん。百パーカタツムリが悪い」
「ちょっと? まだコンクリート食べてませんよ?」
そんな僕のツッコミを気にも留めず、妹がジロジロとこっちを睨みつけるようにする。
「いくら休みだからって気ぃ抜きすぎでしょ。お母さん困らせんのやめなよ」
「い、一応、こうして起きたわけだし……いいじゃん……」
「起こされる前に起きろって言ってんの――って、あれ? じゃあお母さんは? 見当たらないけどどこいるの」
「僕のベッドを占拠して寝てる」
「はあ? なんで?」
「そんなんこっちが知りたい」
ホントになんだったんだよあの略奪行為は。
妹が眉をひそめる。が、すぐに元に戻る。あの母だからそういうこともあるか。ということで納得したらしい。僕もそういうことでとりあえずは納得した。あの母だからな。我が家ではこの一言で大体の事象は納得できるシステムになっている。
「……まあ、お母さんは色々大変だし、いいでしょ」
「兄も兄なりに大変だったりするんですよ? 慮ってくれていいのよ?」
「未だに部屋着でダラダラしている人間に大変なことなんてない」
「見た目で人を判断しちゃいけないって教わらなかった?」
「お兄ちゃんの場合、中身も考慮したら、本格的に目も当てられないよ」
そうバッサリ斬り捨てて、妹は窓際に寄り、カーテンを少し開けて、太陽の光を浴びるようにする。
部屋着の僕に対して、妹はいつでも外に出られそうな服装だ。出掛ける予定があるのかは知らないけど、よく家でそんなちゃんとしていられるものだといつもながらに感心する。
「はーあ、こんなだらしないのが兄だなんて残念すぎるね」妹がため息を零す。
「うーん、こんなちゃんとしたのが妹だなんて誇らしいね」僕は笑顔で返す。
「そっちもちゃんとしろっての――まあ、いいや。お兄ちゃんがこんなんなの今に始まったことじゃないし。期待するだけムダ……って、アレ?」
突然、妹が訝しげな声を上げる。
「どした」
「……まだいる」
「まだいる?」
妹は窓の外を眺めている。
まだいるってなんだ? もしかして、外に何かがいるのだろうか。
気になって、僕も窓際、妹の隣へ移動する。
妹は、カーテンに身を隠すように張り付いていて、僕もそれに倣う。
「ほら、あの人だよ、あの人」
「あの人?」
「ほら、電柱のとこ」
「電柱……」
妹が指さす方向、我が家と向かいの家との間に敷かれた道路の方に目を向ける。そこには何十年も見慣れた電柱ある。僕が生まれる以前から存在していて、近所の子供による落書きも多い。だいぶ古びてきているその電柱の横に、これまたなんだか見慣れた人物が、見慣れない服装でいる……ように見えた。
白のゆったりとしたブラウスに紺色のスカート。その涼やかな風体は遠目に見ても可憐そのもの。頭には、彼女のトレードマークとも言える赤の髪飾りが煌めいている。
見れば見るほど見覚えがある。ありすぎる人物だ。
「あの人、何時間か前に見た時もあそこにいたんだよねぇ……ちょっとこわ。不審者?」
「……」
僕の同級生であり、そしてつい先日お付き合いを始めたばかりの彼女でもある、
「……月見里さん」
月見里さんその人だった。
……なんでいるの?
クソ雑魚ヤンデレ月見里さん なかな春望 @nakanakananaka
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