珈琲と蜘蛛

珈琲と蜘蛛

 雨が降り続くある日、彼は何かに誘われるようにその喫茶店に足を踏み入れた。外の世界とは異なる、どこか懐かしくも不思議な雰囲気が漂うその場所。店内には柔らかな照明が灯り、古いレコードが静かに流れていた。ショパンの「雨だれ」が、雨音とともに心地よく耳に届く。その旋律は、まるで過去の記憶を呼び覚ますかのように彼の心に染み渡った。


 彼が席に着くと、ふと目に留まったのは一人の女給だった。彼女は微笑みを浮かべながら、丁寧に珈琲を淹れていた。彼女の動きにはどこか儚さがあり、まるで夢の中の出来事のように感じられた。珈琲の香ばしい香りが店内に広がり、彼の心を落ち着かせた。


「いらっしゃいませ」と彼女が声をかける。その声は雨音に溶け込むように静かで、しかし確かに彼の心に響いた。彼は注文を告げ、彼女が珈琲を持ってくるのを待った。彼女が運んできた珈琲は、深い焙煎の香りとともに、ほんのりとした甘さと酸味が口の中に広がる。まるで彼女の微笑みがそのまま味わいになったかのようだった。


 その珈琲の味が忘れられず、彼は何度もその喫茶店を訪れるようになった。彼女との会話は少しずつ増え、彼の心は次第に彼女に惹かれていった。しかし、彼女との関係は長くは続かなかった。

 

 ある日、彼はいつものようにその喫茶店を訪れた。

 しかし彼はそこに彼女の姿を見出すことはなかった。

 店主に彼女の事を訊くと、彼女は故郷ふるさとに帰ったよ、と言われた。


 彼女がいなくなった後も店内の雰囲気は変わっていない。

 ショパンの「雨だれ」が店内に静かに流れている。彼は珈琲を注文し、彼女との思い出に浸りながら、カップを手に取った。

 彼はふと、彼女がいつも微笑みながら珈琲を淹れていた姿を思い出した。その微笑みの裏に隠された寂しさを感じ取っていたが、彼女の本当の気持ちを知ることはできなかった。彼はそのことを少し後悔しながらも、彼女との出会いが自分にとってどれほど大切だったかを改めて感じた。


 彼は喫茶店の窓から外を眺め、雨が降り続く景色を見つめた。雨音とともに、彼の心には静かな安らぎ広がった。彼は心の中で彼女に感謝の気持ちを伝えた。


 彼はどこかで聞いたことのある言葉を考えた。

 蜘蛛は珈琲に酔うらしい。

 私も知らないうちに蜘蛛のように彼女の入れる珈琲に酔いしれていたのだ。

 彼はその言葉を心の中で反芻しながら、静かに喫茶店を後にした。雨はまだ降り続いていたが、彼の心には一筋の光が差し込んでいた。彼女との出会いと別れは、彼にとって大切な思い出となり、彼の心に深く刻まれた。


 彼女との儚い恋は、まるで雨のように静かに彼の心に降り続けた。そして彼は、あの不思議な喫茶店での思い出を胸に、再び日常へと戻っていった。

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珈琲と蜘蛛 @kaede915

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