第178話

 有無を言わさない迫力に、床に手をついた元夫は歯ぎしり、実力差を悟ったのか低い声で明かした。

「……じいさんが、訪ねてきたんだよ」

 かすかに、ロジェが目を見開く。



「身寄りのない男だ。だが著名なイギリスのファンタジー作家とかで。一人で行動することを好む変わり者で、医者の同行も断ってフランスの郊外に持病の治療にやってきて、ひどい嵐に遭ってしまったところを、妻に助けられたんだと。それであの女を、遺産相続人にしたいと言ってるんだ。夫のオレが話をつけると言っても、当人と話をしたいと譲らない、頑固なじじいでよ。離縁したことが知れた途端、ずらかっちまっいやがった」



 醜く歪んだ口はなおもほざく。冗談じゃねえと。

「一方的に離縁されて、当然得るはずだった報酬をふいにしてたまるもんかよ」

 ロジェは感情のこもらない目をすがめた。

 予想はしていたが、それでもすこぶる気分が悪い。

 あまりにわかりやすすぎる動機に、くっと皮肉な笑いが漏れ出る。

 どこまでも醜悪な本性だ。



「だから、プレヌに戻ってほしいって?」

 口からついて出た声は、胸中に反してどこまでも平坦で。

「感情のはけ口にさんざん虐げておいて」

 一分の抑揚もなく。

「ばかじゃねーの」

 凍るように冷ややかだった。

 氷山の先でつくような言葉を受けてもなお、元夫は食い下がる。



「不敬な。お前どこの家の出だ。二度とパリの社交界に出入りできなくしてやるぞ」

 立ち上がろうとする肩を一突きで再び床に落とし込み、視線を合わせ、ロジェは告げた。

「どうぞご自由に。今問題にしているのは、うすっぺらな体裁などではないので」



 肩に込めていく力は増すばかり。

 元夫の口から漏れる呻き声にも、その力が弱まることはなかった。

「彼女があなたから受けた暴行から比べれたらものの数ではない。腕一本折らずに済ますだけでもありがたいと思っていただきたい」

 痛みに気を失い泡を吹く元夫から手を離すと、ロジェはその一瞥をプレヌのかつての家族に向ける。



「ついでに、多くの人々をおもちゃに変えてきたあなた方の腕も、剥奪したいところだが」

 その琥珀の目にはじめて、切実な色が――感情と呼べるものがうごめいた。

「プレヌには二度と近づかない。今後力を乱用しないと約束するんだ」

 再び腕を締め上げると、父親がぎりぎりと歯ぎしりする。

「あなた」

「お父様」

 母親と妹が寄越す眼差しに、頭の片隅で思う。

 体面を重んじる者同士、哀れむ気持ちは残っているのか。

 どうでもいいことだが。



「わかった。わかった、から……。もう二度とあの娘には介入せん。約束しよう」

 了承の意志を確認したあと、プレヌの父親を解放する。

 頽れ威厳をなくした一家の視線を背に浴び、ロジェは歩き出す。

 もうここに用はない。

 背後に群がる一族を一顧だにせず、彼は呪われた館をあとにした。

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