第2話 ため息の彼方に

「はぁー」


 ため息を長く長く吐くと、嵐はアメを一つ、口に放り込んだ。

 大江戸嵐は警察官である。


 刑事ドラマに、あこがれれて念願の刑事になることが出来た。

 いきなりの刑事デビューで活躍もした。

 しかし、転属先は特別調査係。霊和警察署、陸の孤島。人材の墓場。


 それからの一か月、馴染んだミルク味の飴の消費量は最高記録を迎えている。くすぶっていたとある時期よりも倍以上。こうして気の抜けた顔で椅子に深く体をしずめても叱りつけてくれる人も、此処ここにはいない。


「ため息をつくと、幸せが逃げていく。そう言われていますが、君はずいぶんとたくさん逃がしているようですね」


 そう苦言を漏らすのは上司である吉良左京きら さきょう。だが、その彼も新聞を片手に時折、思いついたようにチェス盤を動かすだけだ。一目見てわかる通り、彼も暇人である。


「そういう吉良警部きら けいぶはお暇そうですが。何でため息一つつかないんですかね」

 こんなところでじっとしていて何も感じないのか、と皮肉って見る。


 だが、暖簾のれんか柳か、この男の顔が変化する様子を一度も見ていない。いつも、何とも表情の読めない顔で椅子に座っている。嵐にはそれが腹立たしく思えた。


「確かに、暇は暇ですが。それとため息を吐くというのには何の理屈も繋がりませんねえ。僕の場合は、こうして暇は暇なりに楽しんでいるのですが」


「世間一般では、今は勤務時間で、俺達は警察官のはずですが」


「ええ。確かにそうですが、世間の警察官全てがせわしなく動いているわけでもなく、交番勤務の方などは地元の方と、たわいない話をすることも、また仕事です」


「つまり?」


「暇なら暇らしく、何か建設的なことを行っては如何か、といっているのですよ、僕は」


 左京はそう言い、盤上の駒を一つ動かした。チェックメイト、との呟き。だが、嵐はチェスのルールに明るくないため、どういう手だったのかもわからなかった。


 彼のいうことは確かに尤もだ。不承不承ながら、嵐の理性もそう考える。


 だが、左京が先に出した例はあくまでも警察官としての業務だ。そして、左京の今行っているチェスは断じて警察官の仕事ではない。


 では、この場所でできる警察官の仕事とはなんだろうか。

 いや、そもそも特別調査係の『特別』とは何なのだろうか。


「なんもないな」


 特別調査係に捜査権限はない。仕事もなく、未来もない。

 事実、これまでに特別調査係へ飛ばされた八人の内、七人は警察から去ったという。気持ちはわかる。こんなところに飛ばされて飼い殺しにされると思うと、あきらめて別の道を探すのが建設的だ。


 それでも内1人は八年以上もここにいたというのだから、さぞかし鋼の精神をしていたのだろう。修験者か何かのたぐいだ。それでなければ悟りを開いたか、生き神様か。

 幾らでも苦言は出てくるが、一人でチェスに勤しむ左京に言い返す気力もなく、もう一つ飴玉を放り込む。

 ふと雑誌でも読んでしまおうか、と隣人がおいていったそれに手を伸ばす。しかし、その週刊誌の一面記事に「裏金議員」の文字を認めると、すぐに放り出した。

 再び、大きく、ため息。嵐は、またもや幸せが口から逃げていくのをじっくりと感じ取っていた。

 そんなことをしていると、


「暇か?」と無駄に陽気な声がする。


 そんなことを言いながら、こんな薄暗い部屋に入ってくる人物は一人しかいない。隣接する組対課の丸山課長だ。

 嵐にはあずかり知らぬところだが、彼は暇人である左京をある意味尊重しているようで、『警部殿』なんて呼んでいる。その割には仕事を手伝ってほしいとも言ってこないのだが。


「まあ、仕事しないでいいって言われてるんだから、贅沢言わないこったな。世間じゃ休みたいって言っても休みはもらえないんだから。給料もらって、一日のんびりなんて羨ましいことこの上ないって」


 わははは。と悠々とコーヒーを煎れ始めた丸山に、またもため息が。これくらい図太く生きれたら楽かもしれないとも思う。

 刑事前の自分なら、もっとのんびりとしていたかもしれない。けれど、今は、エンジンに火がついたままの状態。薄暗い車庫で黙っていることもできない。車は走るために存在するし、刑事は市民の安全を守るためにあるのだ。

 といっても、「捜査権限無いから、刑事じゃないんだよな」と嵐は独り言を呟いていた。


 丸山の入れたコーヒーの香りが部屋にあふれていく中、嵐は再びため息をついた。


「ほら、またため息が」


「警部どのは細かいねー。悩める若者になんかアドバイスはないの?」


「僕にとっては、こうしてのんびりすることが日常ですから」


「だわなー」

 小うるさい二人は無視することにした。


「あ、もうなくなった……」

 最後の一個となったひとやすミルク。いつになれば休みは終わるのだろうか。嵐は最後の一つを放り込むとがりがりとかみ砕いた。

 よほどの不満がありそうな嵐の様子に丸山は少し考える。


 生来なんだかんだと面倒見の良い丸山である。若者がそうやって腐っているのをみると、放っておくのは良心が咎める。それに、彼の姿を見ていると、ぐれてしまった愛娘の姿が脳裏をかすめた。


「じゃあ、ほんっとに小さいことだけど、やってみるか?」

 丸山はコーヒーをすすりながら小さくつぶやくのだった




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