17「世界の裂け目」

 それは世界の裂け目、としか言いようがないほどに広大で深遠な亀裂だった。底はあまりにも果てしなく深く、闇に塗りつぶされていた。海にも匹敵するかと思われるほどの巨大な裂け目である。その向こうに何があるのかもわからない。

 どうやってもそこから先へ進めそうにはなかった。飛行魔法などではとても向こうまでは飛べないだろう。風が恐ろしく強いため、他の飛行手段があったとしてもそう上手くいきそうにない。陸伝いに行くとして、一度この谷を降りてしまったら、もう二度と登れないのではないか。そう感じさせるほどの深さであった。

 手詰まりである。

 ユウには、まるでこの場所が世界の果てのように思われた。冒険の果てのように思われた。

 残りの時間を考えると、ここで進むのは打ち切りにして緑針樹の森へ戻ることを考えた方が良いのかもしれない。海を除けば、転移魔法で点と点を結んでいけば比較的すぐに戻ることが出来る。海ではもう一度あの化け物と対峙しなければならないが。

 結論を下したユウは、ここで終わってしまうことに気が重かったが、二人に告げた。


「ここから先へは進めない。旅はこれまでだ」

「そっか」


 エスタはどこまでも続く裂け目を見渡して、しみじみと言った。彼も彼なりに納得していた。


「結局人里は見つからなかったけど、楽しかったね」

「うん。たのしかった」


 アーシャが笑顔で頷いた。ユウは二人の頭に手を乗せて言った。


「帰ろう。君たちの故郷に。緑針樹の森に」

「「おー!」」


 とそこで、エスタがふと良いことを思い付いた。彼は提案する。


「あ、でもさ。帰る前に何か冒険の証みたいなもの、残しときたいな。おれたちここまで来たんだよって」

「アーシャも、それいい思う」

「それもそうだね」


 証と言っても気休めにしかならないが、ユウは二人の願いを聞き届けることにした。

 旅の途中で道を塞いでいたので、「心の世界」に入れて取り除いたままにしてある巨大な鉱石の柱があった。こいつに名前を彫って、旗代わりに打ち立ててやろうとユウは考えた。鉱石の柱は実に数百メートルものサイズがある。これならば、しばらくは雪に埋もれることもないだろう。

 ユウは「心の世界」から石柱を取り出した。そこに魔法で、「ユウ」「エスタ」「アーシャ」と大きく名前を刻み込む。

 再度男に変身したユウは、石柱を気合で持ち上げた。


「じゃあいくよ」


 わくわくした面持ちで見つめる二人に視線を投げ返して、ユウは《パストライヴ》で空高く飛び上がった。石柱を垂直に突き立て、重力加速度を付けて一気に投げ下ろす。

 ズドン、という衝撃と共に、雪山の表面にそれは深々と突き刺さった。


 その瞬間。急に地面がぐらぐらと揺れ始めた。


「わっとっと!」「あううー!」

「わっ! なんだ!?」


 揺れはどんどん大きくなり、あちこちで雪が滑り落ち始めた。危ないと思ったユウは女に変身し、二人を飛行魔法で掬い上げる。

 空中から様子を観察していると、なんと山がみるみるうちに変形していくではないか。周辺のあらゆる大地という大地が蠢き、ずり落ちた雪の下から現れたのは、金色に輝く地面であった。地面は高く盛り上がりながら、翼のように長く伸びていき。いや、何かの翼としか思えなかった。

 目を丸くしている三人の心に、謎の声が語り掛ける。


『……誰だ。我を起こしたのは……』

「「山が、しゃべったあー!」」


 エスタとアーシャが、口を揃えて叫ぶ。ユウもびっくりして声を失ってしまった。


『……山ではない。我は世界を眺める者なり』


 ゴゴゴ、と大きな音を立てて、さらに雪が剥がれていく。露わになったのは、鱗に覆われた首だった。そして三人を視界に捉えたのは、巨大なドラゴンの頭である。

 ユウは理解した。自分たちがこれまで大きな雪山だと思って登ってきたものが、実は山などでなく、山のように大きな黄金のドラゴンであったのだと。眠っていたところを刺激してしまったというわけだ。

 それまでは完全に生命反応が消えていたので、ユウもわからなかった。しかし今ははっきりとわかる。絶大な生命力の充実を。間違いなく、この世界でこれまで出会ったどの生物よりも強大であると確信出来た。


『えーと。ごめんなさい。まさか生きているとは思わなくて』


 ユウも心の力を使い、ドラゴンに語り掛ける。親密度の高いエスタとアーシャにもちゃんと聞こえている。

 

『よい。よもやかような起こし方をされるとは思わなんだがな。少々痛んだぞ』

『すみません!』

『よい。その小さき身で我を傷付けるとは大したものだ。強き者よ』


 羽をバサバサと広げると、それだけで耳をつんざくような凄まじい音と猛風が巻き起こった。ユウは風のバリアを展開し、エスタもアーシャも飛ばされないようにユウにしがみついているのが精一杯だった。

 完全に立ち上がったドラゴンは、その圧倒的な威容をまざまざと白日の下に見せつけた。彼に比べれば、三人などノミよりもずっとずっと小さな塵のようなものに過ぎない。


「そうだ! 乗せてってもらえないかな!」


 恐れ知らずにも、エスタがそう息巻いた。


「穴、越える! かしこい!」


 アーシャが目を輝かせて追随する。

 そうなのだ。この二人は、知らないものと出会ったとき、恐れよりも好奇心が勝る。何にでも興味を示して、心を開く。そんな子素直で可愛い子たちなのだ。

 ユウは意を決して、ドラゴンに頼んだ。


『あの。私たち、ここの裂け目を越えたいんです。お目覚めのところ、いきなりこんなこと頼むのもあれですけど……』

『……夢を見ていた』

『え?』

『我は見た。我と対話の出来る者がじきに現れる、とな』


 ドラゴンは、ふんと鼻息を鳴らした。どこか嬉しそうに。


『久々の運動というのも、良いだろう。今の世界を眺めてみるというのもな』


 ドラゴンは低く喉を鳴らして、穏やかに言った。


『ついでだ。乗るがいい』

『ありがとうございます!』

「やったー!」「わーい!」


 三人を乗せた黄金のドラゴンは、世界の裂け目を軽々と越えていく。あれほど渡るのが不可能と思われた大穴が、みるみるうちに攻略されていく。山のような巨体は、荒れ狂う風を全くものともしなかった。


 やがて、裂け目の向こうに見えたものは。三人が辿り着いた先は――

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