15「黒嵐の海」
船での旅は二か月ほども続いていた。始めのうちは船に進めさせておいて三人は陸で過ごす時間も取れたのだが、じきに転移魔法で飛べる範囲の外に出てしまった。
最初は毎日楽しそうにしていたエスタとアーシャも、この頃になると変わり映えのしない景色に退屈な表情を見せることが増えてきた。海鳥が自由に空を飛んでいるのをぼーっと眺めたり、釣りをするのが楽しみになっていた。
ユウの教育が、二人には一番楽しみな時間だった。アーシャは毎日新しい言葉や常識を教わり、エスタは実践的な生活の知恵を授けられた。ユウ自身もまた、日々鍛錬を欠かさず積み、着実に実力は向上し続けていた。
海は魔物とよく言われるが、この二ヶ月はまこと穏やかなもので、嵐になった日もほとんどなかった。
ところが、そんなある日のことである。
「んー」
アーシャは目を凝らして青色ばかりの穏やかな地平を観察している。彼女は、マストの上で見張り遊びをしていた。ここは爽やかな潮風を一杯に浴びられるので、彼女のお気に入りの場所だった。
「いじょーなし!」
下で彼女を見上げているユウに向かって、大きく手を振る。ユウは手を振り返した。
エスタは、船の縁に腰かけて釣竿を垂らしている。これまでの釣果は小魚が二匹というところだった。今日こそは大物を釣り上げようと、やる気を燃やしている。
ぽちゃりと、アーシャの鼻の頭に水が当たった。
「あめ?」
彼女は何かと思って見上げてみるが、空は青々としたままであった。
不思議に思ったのもつかの間。ほとんど何の前触れもなく、辺りが突然暗くなってきた。空には黒々とした嵐雲が一気に押し寄せてきて、ひしめき合うような模様となっている。
アーシャの顔に緊張が走った。すぐに下へ呼びかける。
「ユウ! エスタ! あらし、くる!」
「わかった! 危ないからはやく下りてこい!」
「うん!」
ユウの声に応じて、エスタも慌てて釣竿を回収し始める。
すると、激しい雷鳴が轟いた。アーシャが悲鳴を上げる。
「わー!」
土砂降りの雨が降り出す。猛風が船を叩き付け、船体を大きく揺らす。穏やかだった波も、今は船を沈めてしまおうというほどの勢いで荒れ狂っている。
アーシャは急な雷雨にびっくりして、急いで下に降りようとした。ところが風があまりに強いため、降りることが出来ない。小さな体を飛ばされないように、ふちにしがみついているのが精一杯だった。
「おりれないー!」
「アーシャ! 今待ってろ!」
ユウは女に変身した。飛行魔法を使って、アーシャを救出に向かう。
そのときだった。暗黒の海面を割って、何かとてつもなく巨大なものが飛び出してきた。
「なに……!?」
それは足だった。吸盤のたくさんついたイカやタコのような、黒く図太い足。
2、4、6、10……。船体を取り囲むように次々と足は飛び出してくる。一体いくつあるというのだろう。それぞれの足の大きさですら、船体のサイズを遥かに超えている。本体は水中にいるのか、姿は確認出来ない。これほどまでに巨大な生物に、未だかつてユウは出会ったことがなかった。
「うわあああああああ!」
エスタがびびって叫ぶが、その叫び声も激しい雷雨にかき消されてしまう。
足の一本が、巨大さに似合わぬ恐るべき速さでマストに伸びていく。それはマストに根元から絡み付き、いとも簡単にへし折ってしまった。
「きゃあーーーーー!」
「「アーシャーッ!」」
ユウもエスタも叫んだ。
マストを爪楊枝のように持ち上げた黒足は、満足したようにずるずると引っ込み始めた。このまま奴のテリトリーである海に引きずり込まれてしまえば、彼女が助かる見込みはない。
ユウは空中で男に変身した。気剣を作り出し、「心の世界」の力をプラスして込める。気剣は基本の白から青白へと変わる。
《センクレイズ》
ユウは飛ぶ斬撃を放った。マストを握り締めていた足に命中し、斬り飛ばす。
さらに足による拘束から自由になったマスト目掛けて、ショートワープを使用する。
「手を伸ばせ!」
アーシャはマストに掴まりながら、必死になって片方の手を伸ばした。彼女の指先がユウの指先に触れた。ユウは再度ショートワープを発動する。
次の瞬間、甲板の床にへばりつくエスタの横に、ユウはアーシャを連れて着地していた。
間一髪のところであったが、ふうと一息吐く暇もない。一本の足を捥がれた化け物は、どうやらユウたちを敵とみなしたようである。次々と足が襲い掛かってきた。
この状況で、頼りになるのはユウだけである。ユウは男のまま気剣を構えて応戦を始めた。
四方八方より、足がうねりながら迫ってくる。たった一本でも攻撃を許せば、船は跡形もなく海の藻屑である。
あまりに巨大過ぎる足は、この世界で使える弱々しい魔法ではとても撃ち落とせそうになかった。しかも直接剣が届く間合いの範囲外である。柔軟な足には《気断掌》などの衝撃系の技が通じにくく、消耗の激しい《センクレイズ》を多用する他はなかった。しかし必殺の剣技をもってしても、散在しつつ頻繁に位置を変える足は、一度に一本から数本を斬るのが限界だった。さらに海から顔を出している部分など、ほんの一端に過ぎないのだ。
既に数えるのも面倒になるほど足を斬り飛ばしていたが、一向に攻撃の手は緩まることはなかった。さらに次々と足が飛び出し、予測の付かない動きで迫ってくる。
極度の緊張の中動き続けたことで、ユウの息も上がってきていた。この状況を打破するためには。動きながら懸命に考えを巡らせていたとき。
突然、真下から船が持ち上がった。ユウにとって手の回らない直下から攻めてきたのである。迎撃が間に合わないと判断したユウは、咄嗟に二人に向かって飛び込み、強く抱き締めていた。
《ディートレス》
三人を透明青色の膜が包む。単純物理攻撃完全無効のバリアが展開された。リルナのオリジナルと違って任意発動のため、使うタイミングが重要であるが、それでも強力な技であることに変わりはない。
吸盤の付いた黒足が、船を下から粉々に叩き割る。
バリア越しでも、足が激突する衝撃までを殺すことは出来ない。びりびりと突き抜けるような衝撃が、ユウたちを襲う。そのまま、三人は猛烈な勢いで空中に打ち上げられた。
もはや拠り所とする足場は存在しない。ユウは飛行魔法を使用して姿勢を確保し、ふわりと浮かび上がった。エスタとアーシャは、怯えた顔でユウの両側にしがみついている。
空から見た眼下の光景は、ぞっとするようなものだった。おびただしい数の黒足が、死へ手招きするようにうねうねとうねっている。何かのお祭りのようだ、とユウは思った。あんなところへ引きずり込まれた後の末路など、想像したくはなかった。
とそこへ、間髪入れず再び大量の足が襲いかかる。飛行魔法ではややスピードに欠ける。空中で素早い動きをするためには、《パストライヴ》を使う他はない。
忙しいなと思いながら、ユウは男に身体を切り替えてワープし、攻撃をかわした。すると、今度は宙に浮かべない。再度女に変身する。
男と女の身体を巧みに使い分けて、ユウは追撃から必死にのがれ続けた。蝿叩きに追われている蝿のような気分である。エスタとアーシャがしがみついている状況では、まともに戦うことが出来ない。そして、まともに戦ってあの化け物を倒す必要もなかった。今求められているのは、とにかくこの場を上手く逃げ切ることである。
雷雲に落雷の予兆が見えた。しめたと、ユウは思った。
《デルバルト》
雷撃の上位魔法を放つ。超上位魔法が使えるほど魔力許容性はない。しかし、それは必要ではなかった。
ユウは雷雲が持つ大自然の力を利用した。雷魔法によって、本物の雷の軌道を誘導したのである。
絶大な威力の雷が、黒足の化け物の足に向かって落ちる。
本体が見えないので詳しいことはわからないが、多少の効果はあったようだ。黒い足の動きがやや鈍った。そこでユウは、ようやく敵に後方を向けて飛ぶことが出来た。
雷を食らったことで正体不明の敵は諦めるかと思われたが、むしろ追撃の手は一層激しくなった。躍起になって、巨大な足を突き刺すように伸ばしてくる。
ユウは懸命に攻撃を避けながら、落雷に合わせて何度も《デルバルト》を打ち込み、雷によるダメージを追加していく。
そこから、死の追いかけっこが始まった。化け物の移動に引きずられるように、雷雲も移動しているようだった。
凄まじい悪天候の中、激しい風と雨が、徐々に三人の体力を奪っていく。
実際の時間にすれば、一日もないほどだったのかもしれない。しかし幾昼幾夜とも思えるほどの逃避行は続いた。何度も死にそうな目に遭いながら、徐々に化け物から距離を取っていった。
一瞬でも気を抜けば、即死が待っている。雷雲の海域を抜けるまで、ユウは警戒飛行を怠ることが出来なかった。
ついに、幸運にも新たなる陸地が見えたとき、もはや足の化け物は追ってきてはいなかった。
ユウはほっとして、自分にしがみつく二人を見やった。
これなら二人とも助かる。
「よかった……」
ふらふらと高度が下がり始めた。魔力切れである。ユウの様子が明らかにおかしいので、アーシャが心配して声をかける。
「ユウ、つかれた? ユウ?」
とっくに限界を超えていたユウは、気を失ってエスタとアーシャごと海に墜落した。大きな水しぶきを立てて、三人が水中へ沈む。
最初にぷはっと浮かび上がったのは、エスタだった。続いて、アーシャも顔を出す。
しかし、ユウが沈んだまま浮かび上がって来ない。エスタの顔がみるみるうちに青くなった。
「大変だ! アーシャ、ユウを助けるよ!」
「ユウ、あぶない!」
「「せーの!」」
二人は大きく息を吸い込んで、一緒に潜水した。沈みゆくユウを見つけて、仲良く二人で支えて海面へ引きずり上げる。
うんしょ、うんしょ、と協力して一生懸命ユウを引っ張っていく。教えてもらった泳ぎが、今ユウを救うのに役に立っていた。
「がんばれ! もうちょっとだ!」
「ユウ、しなないで」
やっとのことで、砂浜へと引き上げる。ユウは息をしていなかった。
「たいへん! いき、してない!」
「えーと! こんなときには」
エスタが教えてもらったばかりの蘇生法を試みる。心臓マッサージを行う。
「嫌だよ……死んじゃうなんて、嫌だよ!」
必死に押し込むと、祈りが通じたのだろうか。ユウが口から苦しそうに水を吐き出した。
「ここは……」
ユウが目を覚ますと、目の前にはほっとしたエスタとアーシャの顔が映った。二人とも、瞳を潤ませて泣きそうな顔になっている。
「アーシャ、ユウ、すき。すき!」
アーシャがユウの胸に顔を埋めて、もう何も言えなくて、わんわん泣き始めた。彼女が泣いたのは、これが初めてのことだった。
「ほんとに、死んじゃうかと思ったよ~!」
年長で気を張っていたエスタも、ユウにしがみついて、大泣きし始める。
「……ごめんね。心配かけちゃったね」
ユウは、二人を優しく抱き寄せた。
その日の夜。三人はいつもよりべったりと寄り添って眠った。
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