7「赤岩土の山 1」

 いつまでも続くかと思われた深い深い森も、ついに果てに達した。そこでは、あれほど盛んに覆い茂っていた緑針樹がまるで逃げるようにして、木々がいっぺんに失せていった。

 アーシャが救出された翌日。深緑の大森林を昼過ぎに抜けた三人に待ち受けていたのは、濃い赤土と赤岩に覆われた見通しの良い山岳地帯であった。

 エスタは、最低限生活に必要な言葉と、危険な緑針樹以外のものの名前をあまり教えてはもらえなかったので、この赤岩の名前を知らない。もちろんよそ者のユウも無垢なアーシャも知らない。この先は三人にとって、完全なる未知の世界である。

今三人は、山の斜面をゆったりとした足取りで登っていた。ふもとの勾配はまだ緩やかで、足場が厳しいところもさほど多くはない。

 ユウの付きっきりの看病の成果もあって、アーシャはもうすっかり元気になっていた。ユウとエスタの顔の方を向いて、後ろ向きで斜面を器用に歩いているのが、ユウもいつか転ばないかと冷や冷やするくらいだった。そこはさすがの野生児なのか、全く転ぶ気配は見えない。森の中でも、軽い身のこなしと足運びであった。時々「四足歩行」をし始めるので、手は土汚れが酷くなっている。


「あーた!」


 にこにこと自らを指差して、アーシャは自分の名前を言った。今度はユウを指差して、


「ゆー!」


 と言った。この少女は、健気にも早速人の名前を覚えようとしているのだ。ユウも笑顔で応えると、それに満足した彼女は、


「えった!」


 最後にエスタへ指を向け変えて、にかっと笑った。

 そしてまた「あーた!」から始まる。先ほどからこれを楽しそうに何回も何回も飽きずに繰り返しているのであった。


「いいなあ。ユウだけちゃんと名前言ってもらえて」


 不満なエスタが、ぷくーっと頬を膨らませる。ユウは仕方なく笑った。


「発音しやすいからね」

「アーシャ。おれはエスタだよ。え・す・た!」

「えった!」


 アーシャは、エスタを指差してきゃっきゃと笑っている。無駄のようだ。エスタはがくっと肩を落とした。


「後ろ向きに歩いたら危ないよ」


 エスタが心配して注意する。それまで二人のときはユウにべったり甘え切りだったのが、彼女が加わったことで、お兄ちゃんとしてしっかりしなければという自覚が生まれてきたようだった。良い傾向だと、ユウは温かく見守っている。


「あー?」


 しかし注意された本人はこんな調子である。ユウもエスタも、本当に危ない時だけはやめさせようということにして、彼女の好きにさせていた。それが結局、彼女が一番はつらつとして輝くのであった。天使のような振る舞いに、何度心癒されたかわからない。


 すると突然、アーシャの顔から笑顔が消えた。何事かとエスタは訝しむ。ユウもほぼ同時に存在には気付いていたが、理由がそれだと認識するよりも、彼女が動き出すのが早かった。

 アーシャは気配を殺して音もなく走り、近場の岩陰にさっと身を隠した。ユウもエスタを掴んで追いかける。《パストライヴ》で彼女の横へ飛び移った。無論音はない。

 アーシャは、足元からやや尖った大きめの石を選んで拾い取った。

 向こうには、小型の狼のような獣が見えている。茶色の毛並みと、ピンと立った耳が特徴的だった。そいつは呑気にも三人に気付かず、石と石の隙間に生えた草花を黙々と食している。

 アーシャの目が、キッと細められる。狩人の目だった。

 狙いを見定めて、彼女は石を思い切り投げつけた。それは完璧なコントロールで狙った軌道を描いて飛んでいき、見事に命中。獣の頭蓋を揺らした。

 動きの鈍ったところを、すかさずアーシャが四つん這いになって、猛然と飛び掛かる。

 静から動へ。切り替えはあまりにスムーズで一瞬だった。

 エスタがあっと思ったときには、彼女は既に獣に組み付いて、喉笛を歯で食いちぎっていた。

 正直、あまり見たくはない映像だった。彼女の動きをしっかり捉えていたユウも、流れるような素晴らしい動きについ止めるタイミングが見つからず、ここまでの行動を黙って許してしまった。

 ユウは、あちゃあと額に手を当てた。エスタの方はというと、そういうのに抵抗がないのか、素直に感心している。


「おう……」

「うわ。すげー」


 プシュー、と獣の首から血が溢れ出す。アーシャは血がかからないように顔を反らすと、もごもごして、ぺっと唾を吐き捨てた。濡れた毛や血肉の混じった唾液が、地面にぽとりと落ちる。

 ほとんど同時に、獣が地面に倒れた。力なく二三回足をもがいて、動かなくなった。

 アーシャは一つぺろりと舌舐めずりして、ユウとエスタの方へ振り向いた。もう元のあどけない表情に戻っていた。

 鮮やかな狩りの手口。

 ユウは、彼女がなぜ今まで野生で生きてこられたかを理解した。運が良かったのではない。生きるべくして生きてきたのだと理解した。

 その動きは、まさに天性のものだった。ただし、あまり人間らしいやり方とは言えない。ほとんど獣のやり方に近いものがあった。さすがにこのままにはしておきたくないなと、人間のユウがどうしても思ってしまうのも無理はないだろう。


「あー! あー!」


 アーシャは誇らしげな笑顔で、ユウとエスタに手を振りながら、自分の仕留めた獲物を盛んに指差している。


『頼んだ通訳』


 ユウが「私」に心の翻訳を呼びかけると。


『狩った。一緒に食べようって言ってるみたいだよ』

『やっぱり見たままか』


 別に通訳する必要もなかった。つまり彼女は、二人のために頑張ってくれたわけだった。

 アーシャはぴょんとやってきて、何かを待つような潤んだ目でユウを見上げる。


「よしよし。ありがとう」

「あー」


 ユウが頭をなでなですると、アーシャは嬉しそうに喉を鳴らした。まるで主人と飼い犬のようだな、とユウは思わなくもなかった。

 この状態はやっぱりまずい。直していかなければならない。

 アーシャを教育しよう。人間に育てよう。ユウはこのとき決意した。


 一方で、エスタに芽生えていたのは、また別の気持ちだった。

 ユウが強いのは認めていた。自分より身体も大きいし、力もある。よくわからないけど、何だか凄いことも出来る。彼はユウを尊敬していた。

 でもまさか、自分と同じくらいの子が、こんなに凄いことが出来るなんて。

 彼は素直に彼女を認めつつも、自分が頼りなく、ちょっと悔しく思えてきた。

 木の実を拾い集め、草っぱを引き抜いて辛うじて生きていた自分が、急に情けなくなってきたのである。ユウやアーシャに少しでも追いつきたいと思った。


「そうだな。そろそろお腹もすいたし、日も落ちて来たし。この辺りでご飯にしようか」

「さんせーい!」

「あー!」


 エスタもアーシャも、諸手を上げて賛成した。

 女の子になったユウは、肉を切り分けて、魔法で血を絞り出す。念のため、毒がないか軽く成分解析もしてみたが、アーシャの見立てに間違いはなかった。三人分には一度には量が多いので、余った分は心の世界に保存した。

 作る分を魔法で出した鉄板に乗せて、じっくり焼き上げていく。

 自然の中だと、どうしても焼き肉が一番のご馳走になってしまうのが密かな悩みだったが、エスタもアーシャもそんなことは全然気にしていないようだった。

 アーシャは最初、不思議そうに首を傾げていた。どうしてすぐに分け合って食べないのかと。しかし、ユウが調理を始めて美味しそうな匂いが漂ってきてからは、すぐにそんな疑問も吹き飛んでしまった。

 二人とも、ふわっとやってくる匂いを嗅いでいるだけでたまらず、じゅるじゅると涎を垂らしている。特にアーシャはだらしなく口を開けて、せっかくのワンピースがべとべとになるくらいだらだらにしていた。


「まだかなー。まだかなー」

「あううー!」


 用意されたテーブルに仲良くちょこんと座って、揃って落ち着かない様子で足をぱたぱたさせている様は、まるで兄妹のようである。微笑ましくて、ユウは料理中ずっとにまにましていた。


「あついからね。気を付けて」

「いただきまーす!」

「あー!」


 ユウと数週間を過ごしたエスタは、多少のマナーも覚え、少し行儀が良くなっていた。ナイフとフォークを手に取り、肉をちゃんと切り分けて食べようとしている。アーシャにも一応食器は置いたのだが、やはりあつあつのまま口を持っていて食べようとしたので、すぐにユウが止めた。


「ほら。あーん」

「あー」


 口を開けたユウの見よう見まねで、アーシャも大きく口を開ける。そこへ、ふうふうして冷ました肉の一欠片を放り込んで上げた。

 もぐもぐして、ごくんと呑み込んだアーシャは。初めての味に、数秒もの間我を失ってしまったかのように放心していた。


「あー!」


 幸せそうに頬を緩めて、高めの声を上げる。いたく感動したらしい。彼女はもう一度口を大きく開けて、ユウに横目で催促した。ユウも素直な反応が嬉しかった。


「おいしかったんだね」

「あー」


 言葉の意味はよくわからないなりに、彼女は口を開けたまま頷く。ユウはにこにこして、二口目を食べさせてあげた。


「ずるいー。おれもあーんする!」


 そんな様子を見ていたエスタも対抗して、口を大きく開け出した。アーシャと一緒になってユウに顔を寄せ、口の開き具合を張り合っている。

 彼女にばかり構ってないで、自分にも構って欲しいということだろう。ユウにも気持ちはよくわかった。


「はいはい。しょうがないなあ」


 ユウはまた自分の食べる分も忘れて、アーシャとエスタに交互に食べさせてあげた。二人がお腹を膨れさせる頃には、日もすっかり沈んでいた。

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