6「緑針樹の森 5」

「すごい顔色してるよ」


 エスタがぞっとした顔で指摘する。彼はおじさんが亡くなる直前の顔を思い出していた。あれと同じなのだ。

 少女は青ざめて、身体はぐったりしている。懸命に生きようとしていた。目を瞑ったまま、酷くうなされている。

 エスタは急いでユウの背中から降りて、必死に頼んだ。


「助けてあげて!」

「言われなくても!」

 

 ユウは少女の隣に屈み込んで、傷を観察した。手遅れでなければいいがと願いながら。

 少女の腹には、深い爪の跡がありありと刻まれていた。獣にでも引っかかれたのだろうか。だとしたらよく逃げられたものだと、ユウは思う。

 何も着ていないから診断は容易かった。外の方は、大きな傷はお腹の一カ所のみで、後は小さな擦り傷や切り傷があちこちにあるだけだった。

 問題は内部の方だ。ユウは傷口を刺激しない位置で少女の腹に手を当てて、気を用いて体内の様子を探った。エコーのような要領である。

 調べてみて、ユウは少し安心した。幸運にも、内臓はほとんど傷付いていなかった。

 よかった。これなら傷を塞げば治る。


「治せそう?」


 横から心配になって覗き込んできたエスタに、ユウは答えた。

 

「ああ。大丈夫だ。助かる」

「ほんと!?」


 少年の顔がぱっと明るくなる。


「今から治療に取り掛かるよ。ちょっと時間かかるけど、待っててな」

「うん!」


 ユウは手を腹部にかざして、少女の傷を塞ぎにかかった。彼は自分の生命エネルギーを注ぎ込むことによって、他人の傷を癒すことが出来る。

 ぼんやりと温かいオーラが、ユウの手を通して少女のみすぼらしい身体に流れ込んでいく。

 エスタは落ち着かない様子で、食い入るように患部を見つめていた。

 次第に爪痕が塞がり始めた。あまりいたずらに治療のペースを速めると、細胞分裂を起こし過ぎてかえって壊死の危険がある。少女の負担にならない速度で、治療を継続する。

 やがて少女の顔から苦しさが消え、穏やかな寝息を立てるようになった。傷も綺麗に塞がった。

 

「ふう。とりあえず傷は塞がったな。身体はまだ弱ってるけど」

「ああよかった」


 二人とも、ほっと胸を撫で下ろす。

 辺りの不穏な空気が漂っているのに気が付いて、ユウが言った。


「少し移動しよう。血の匂いが獣を呼び寄せる」

「りょーかい」


 今の自分なら大抵の獣は問題なく追い返せるだろうとユウは考えてはいたが、弱っている人間を抱えている状態で出来るだけ余計なリスクは負いたくなかった。

 ユウは少女を静かに背負い込んだ。怪我こそ治しはしたものの、やはり相当弱っているのが頼りない感触からもわかる。栄養状態も芳しくないのか、肉付きも悪い身体はひどく軽く感じた。ついでにかなり土汚れていて、薄い桜のようなピンク色の髪は、素材は良さそうなのにぼさぼさに伸び放題である。後で綺麗にしてあげようと彼は思った。

 

「これで三人目だね」


 移動中、ユウの横をぴったりと付いて歩くエスタが嬉しそうに言った。


「そうだね」


 まだ三人目だけど。それも自分を含めて。呑気に考えるエスタと、ユウは対照的だった。

 もう数週間が経っている。ユウはあまりに人の気配の感じられないこの星に対し、言い知れない不安を覚えていた。

 ともあれ、この新しい出会いを大変喜ばしくも思っていた。


 その日は安全と思われる場所まで移動したところで、日が落ちる前に行動を打ち切り、彼女を横にして休ませることに専念した。

 珍しく平らになっている場所があったので、ユウはそこにふかふかのベッドを魔法で作り出して設置した。

 それから、少女の汚れ切った身体をやや熱めのタオルで綺麗に拭き取ってやる。

 胸の先端がちょこんと丸みを帯びて、膨らみかけているのが目に留まった。愛くるしい人形のような顔つきも全身も、まだいかにも幼い印象ではあるが、よくよく見れば徐々に女になろうとしている。発育具合から、エスタに近い年頃だろうと見当が付いた。

 サイズの合う下着と、白のワンピースも作って着せてあげた。これで見た目は大分人間らしくなった。

 ユウは一晩中彼女の横に付き添って、看病しながら気力を当てた。自分のエネルギーを分け与えることで、少しでも回復が早まればと思ってのことだった。

 エスタも一緒になってじーっと看病に付き合っていたが、疲れたのか、いつの間にかぐっすりと眠ってしまっていた。ユウは彼にそっと布団をかけて、一人で夜明けまで看病を続けた。


 翌日。

 少女は、パチッと目を覚ました。

 彼女の目にまず映ったものは、自分のことを真上から覗き込んでいる二人の知らない人間だった。

 二人とも笑顔だ。嬉しそうにしている。


「あっ。起きた」

「おはよう。気分は大丈夫?」


 すると、少女は


「あー」


 まともな言葉ではない。少女の口から出てきたのは、間の抜けたような一音のみだった。


「あれ?」


 エスタが首を捻る。ユウも、ん? と首を傾げて


「頭とか打ってないよな」


 何となく、ユウが少女の額に手を当てる。その温かさに触れたとき、少女は理解した。

 そうだ。自分はこのぬくもりを覚えている。

 ひどい怪我を負っていた自分を助けてくれたのは、この人たちなのだ。

 事実を察した少女は、何かを答える代わりに、にぱあっと屈託のない笑顔を見せたのだった。


「あー! あー!」


 か細い手をパタパタさせて、身振り手振りで一生懸命に嬉しい気持ちを伝える。終始混じり気のない、天使のような笑顔で。

 とても可愛いらしいので、ユウもエスタも心が癒されるような気分を覚え、思わず頬を緩めていた。

 ニュアンスはとてもよく伝わったが、しかし肝心の言葉が伝わらない。ユウは苦笑いを浮かべた。


「うーん。まいったな。どうやら言葉を喋れないみたいだ」

「大変だ。どうやって話したらいいかな?」


 ここまで完全な野生児というのは、さすがにユウも出会ったことがなかった。この歳までずっと文明というものを知らずに生きてきたのだろうか。危なかったとは言え、今までよく無事に生きて来られたものだと感心する。


「あっ。ってことは、名前もないんだよね。どうしよう」


 悩ましい台詞とは裏腹にのんびりとした調子で言ったエスタに、ユウは少しの間顎に手を添えて思案し、そして言った。


「よし。こっちで名前を付けてあげよう」

「おれたちが付けるの?」

「それしかないだろう。お前って呼ぶわけにもいかないし。なんか良い名前ある?」

「うーん」


 エスタは頑張って考えてみた。頭の中で色んな言葉がぐるぐると渦巻いて、目を回しそうになる。彼はものを考えるのが苦手だった。


「ユウ。任せた!」

「オーケー」


 何となくそうなる予感がしていたので、ユウは一応彼にも振りながら、もう本命の名前を考え込んでいた。名付け親というものにはなるのは初めてである。責任は重大だと思ってしまうと、中々決まらなかった。

 それに、名付けたところで名前と認識してもらえるかどうか。それが不安だった。

 どうやったら上手く伝わるだろうか。


『こっちに繋げてみたら?』


 ユウの中にいるもう一つの人格、「私」が提案する。

 確かに「心の世界」を介すれば、感情をある程度は直接伝えることが出来る。それでわかってもらえるかもしれない。


『それはいい考えだな』


 まあダメでも損はしない。ものは試しだ。やってみよう。ユウは心に決めた。


《マインドリンカー》


 ユウは、他者の心を自らの「心の世界」に接続して、心を繋げることが出来る力を持っている。これは、使う相手が彼に心を開いていればいるほど効果的なのであるが、果たしてどうなるか。


「まさかここまで上手くいくとはね」


 少女は、心の世界の内側にまで完全に招き入れられていた。この現象は、よほど親和していないと起こらない。リルナに続いて、二人目であった。

 ユウ自身も驚きの結果だった。この少女は、もうそこまで自分に対して心を開いてくれたのか。

 すぐにいや、と考え直した。少し違う。自分だからではない。

 彼女は自分を助けてもらったという好意だけで、疑いのない全面の親愛を寄せている。つまりは容易く心が繋げてしまうほど、彼女が純粋無垢な人間であるということに他ならない。

 中では、女の肉体に入った「私」が二人を待っていた。「私」は少女に屈み込んで、にこりと笑顔を作って手を差し出す。この世界にユウ以外の人間が入って来ることはほとんどないから、久々に違う人間と直に話せて嬉しい気持ちが強かった。


「はじめまして」

「あー!」


 少女は「私」の手を握り返し、にかっと笑って、ぶんぶんと振り回した。

 少女は、宇宙空間のような真っ暗な周りを、キラキラした目で見回した。そしていきなり、好き勝手に走り回り始めた。何を楽しいと思ったのか、きゃっきゃと笑ってはしゃいでいる。


「あらまあ」

「危ない記憶は遠ざけておこう」


 ユウが念ずると、今は闇に溶け込んで顕現していない記憶の欠片が、少女からそっと遠ざかる。万が一醜い感情に触れれば、彼女が汚されてしまう危険があると思っての措置だった。


「あー! あー!」

「あー、しか言えないのね。あの子。ふふ。かわいいなあ」

「本当にかわいいなあ」


 無邪気にはしゃいでいる姿を見ているだけで何だか幸せだった。助けられて本当に良かったと、二人とも思う。


「アーシャ」


 ふと、ユウはその名が浮かんで、口にしていた。


「アーシャ、か」

「はじめはあの子が言いやすいように。後ろはあえてちょっと言いにくいように。言葉を覚えてくれればって思ってさ」

「まあいい名前じゃない?」


「私」も同意する。ユウは頷くと、ぴょんぴょん飛び跳ねている少女に歩み寄っていって、ぽんと頭に手を乗せた。少女の目をしっかりと見つめて、名を告げる。


「アーシャ。君の名前はアーシャだ」

「あー、た?」


 アーシャと名付けられた少女は、ちょこんと首を傾げた。曇りのない綺麗な瞳が、ユウを真っ直ぐに覗き込んでいる。

 心の世界では、念じるだけで直接想いを届けることが出来る。これならば、たとえ言葉の意味がわからなくとも、言いたいことは伝わる。きっと伝わっているはずだ。ユウは固唾を飲んで少女を見守る。

 少女は、自分の胸を見下ろした。


「あー、た……」


 ぽつんと、その言葉を呟いて。ユウをじっと見る。自分の胸を指差して、もう一度確かめるように呟いた。


「あーた」


 少女は、とびっきりの笑顔になった。


「あーた! あーた!」


 しきりに自分のことを指差して、嬉しそうにはしゃいでいる。

 どうやら気に入ってくれたみたいだ。ユウはほっとした。


「よろしくね。アーシャ」


 少女の手を引いて、「私」に見送られながら一緒に現実世界へと戻った。


「どうしたの? ちょっとぼーっとしてたみたいだけど」


 エスタが、少し心配そうにユウと少女を見比べている。ユウはかぶりを振って、答えた。


「この子の名前が決まったよ。アーシャだ」

「へえ! アーシャかあ。かわいい名前だね」


 笑い合うユウとエスタを、少女の純粋な瞳が見つめていた。


「あーた!」


 ベッドから身体を起こしたアーシャは、ぴょこんとユウとエスタに飛びついていった。

 可愛いらしい旅の仲間が増えた。

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