3「緑針樹の森 2」
この辺りの森に最も多く群生する緑針樹は、その名の通り針のような葉を茂らせている。地球には針葉樹というものが幾種類も存在するが、あの葉をさらにずっと鋭く尖らせた感じのものであった。その鋭さは伊達ではなく、大抵の動物の表皮を容易く貫いてしまう。種もまた針状であり、葉ほど固くはないがやはり刺さる。
昼の葉は落ち着いた濃緑色であるが、夜は白みがかった月の光に照らされて、鮮やかな淡緑色に輝く。
この美しい輝きを生み出すものは、葉の表面から分泌される透明な液である。葉の綺麗な見た目に反して、分泌液には即効性の神経毒がある。葉で傷付けた生物の傷口から侵入し、最悪の場合は死に至らしめる。
魅惑的な光を用いて羽虫や動物を誘き寄せ、毒をもって仕留める。殺した生物を養分とすることで、樹はさらに枝葉を伸ばしていく。そうしてこの森は、長い長い時をかけて出来あがった。
また適当な石に座っているエスタは、すっかり調子の良くなった足の先を曲げたり伸ばしたりしてにこにこしている。刺さった針をユウに抜いてもらい、ついでに気力で治療してもらったのだ。
心の中では、ちょっぴり反省もしていた。
緑針樹にだけは気を付けなくてはいけないと、そうおじさんにきつく言われてはいたのだが。彼の暮らしていた集落は緑針樹の生えていない一帯を見定めて作られたため、物心付いたときから集落の周りだけで過ごしてきた彼には、どれほど危険であるかという実感がなかったのである。その用心のなさが、痛い怪我に繋がってしまった。種には毒がなくてよかったとほっとする。
「じゃあ行こうか」
「えいおー」
無邪気な返事で起き上がったエスタは、ユウの前で大はしゃぎだった。
ずっと孤独を覚悟していたのに、こんなに早くも旅の仲間が出来て嬉しくて仕方がないのだ。
ぴょんぴょんと足元に張る木の根を飛び越えながら手招きする彼に、ユウは生温かい眼差しを向けて、さりげなく歩幅を合わせた。
そうしてしばらく歩き続け。ぼちぼち日も暮れようというところで。
ユウが、ふと足を止める。まだまだ元気に先を行こうとするエスタを引き止めた。
「ちょっと待っててね。今いる場所に目印を付けるから」
「そんなことして意味があるの?」
エスタは素直に首を傾げる。広大かつ不規則な森に多少目印を付けたところで、何かの役に立つとは思えなかった。
「俺のは特別なやつだから大丈夫」
そう言って、ユウはエスタの顔を見つめて考える素振りを見せた。迷いも少しのことで、意を決して頷く。
そして、彼は自らが持つフェバルとしての能力を使った。最も慣れ親しんだ使い方で。
細身でがっしりした身体つきが丸みを帯びて、背が幾分縮む。
さらさらの黒髪は、滑らかに肩の辺りまでふわりと伸びた。
やや勝ち気な目つきと幾分かの精悍さに合わせて、元々あまり男らしからぬ可愛らしさを含んだ顔つきは、面影を色濃く残しつつ、より可愛らしさを際立たせるように変化する。目元がより柔らかくぱっちりとして、唇もぷっくりと艶を増して。ほんのりと健康的な色気を纏う。
緩みかけたズボンを、ボリュームを増した安産型のお尻が受け止める。
汗で蒸れていた男女兼用の赤シャツが胸元で大きく盛り上がって、先端の形がわかるほどぴったりと張り付いた。
男から女へ。ユウはほんの一瞬で変化を遂げたのだった。
さすがに目の毒かと思って、自然な仕草でシャツを仰いで隙間を作っていると。
「ユウ、なんか変わった?」
「その反応は初めてのパターンだよ」
一切驚くこともせず、きょとんと彼女を見つめるだけという新鮮な反応に、いつものような大袈裟な反応を想定していたユウは肩すかしを食らってしまった。
エスタは、心配するような目を彼女に向ける。
「おっぱい、すごく腫れてるよ。大丈夫?」
「へ?」
いきなりそんな言葉が出てきてユウは少し戸惑ってしまったが、はたと合点がいった。
「ああそっか。もしかして、女の子を見たことがないの?」
「おんなのこって?」
曇りなき目で首を傾げる少年に、ユウは困ってしまって苦笑いを浮かべた。
さて、どう説明したものか。
「えーと。人間には二種類いてね。君みたいな」
ユウは、その場でもう一度変身してみせた。ぱっと一瞬で姿が切り替わる。
しなやかな女性の肉体から、逞しさを備えた男性の肉体へ。
「男の子と」
エスタと自分のことを軽く指差してから、また変身して丸みを帯びた女性の肉体に戻る。
「私みたいな女の子」
「ふーん。何が違うの?」
「色々と違うよ。身体つきとか、違うでしょ?」
「そうだねー」
そこは一目でわかるところであるから、エスタもすぐに納得したのだった。と同時に、たくさん疑問が湧いてきたのだけど。
「もちろん同じ人間だから、同じところもたくさんあるけどね」
「ねえ。おっぱいが腫れてるのはどうして?」
ユウはがくっとなった。
エスタはじーっと目を反らさず、ユウのことを見つめている。
無知ゆえの純粋さ。つぶらな瞳で真剣かつ興味津々に尋ねられると、ユウは自分が汚れてしまった気がしてどことなく気恥ずかしさが込み上げてくるのだった。
やや顔を赤らめて、ユウは自分の胸を下から持ち上げて強調した。
「これはね。腫れてるんじゃなくて。女の子は大きくなるにつれて膨らむものなの」
「なんで膨らむの?」
「それは……まあいつか子供を育てられるように、かな」
「こどもって?」
今度は頭が痛くなってきて、ユウは額を押さえた。どうやら目の前の子は本当に何も知らないようだと悟って。
ユウは、自分の下腹部を優しくさすってみせた。保健体育の授業でもしているみたいだなとどこかで思いながら。
「人はね。誰でも女の人のここで大切に育まれて生まれてくるものなの。子供としてね」
「へえ。卵から勝手に生まれるんじゃないのかー」
エスタは、生き物が生まれてくるということ自体は知っていた。ただ、卵から出て来るところしか見たことがなかったので、ユウの話は目から鱗が落ちるようだった。
「生まれてきた子供は、始めはとても小さくて弱くて。放っておくと死んじゃうから、誰かが親というのになって育ててあげるんだよ」
「おれにとってはおじさんが親ってことか」
「そうね」
少年の詳しい事情はわからないが、とりあえずユウは頷いた。
「エスタみたいなこともあるけど、普通はね。子供を産んだ女の人と、子供が出来るお手伝いをした男の人が協力してなるんだよ。最初のうちは自分で物を食べることも出来ないから、女の人はここから栄養のあるお乳を出して、飲ませてあげるの」
乳首を指先でちょんと弾いて、ユウは言った。
「そうなんだ。ユウは出るの?」
「ふぇっ?」
思わず変な声が出てしまったユウは、しかし何も知らない子供が尋ねているのだと思い直し、努めて落ち着いた調子で続けた。
「今は出ないよ。私には子供がいないからね」
さすがにこの流れ者の身で無責任に子供まで作ることはしないだろうな(しかも産む側で)と思いながら、ユウは答えた。
「じゃあさじゃあさ! こどもって、どうしたらできるの?」
「うーん。それはね。男の人と女の人が深く愛し合うと出来るの。エスタも、そうやって生まれてきたはずだよ」
「へえ!」
エスタはすっかり感心して、ユウのお腹をじーっと見つめた。
誰かのそこから自分が生まれてきて。自分みたいな男の人と今のユウみたいな女の人が愛し合って、自分が出来たのか。
と、そこでさらなる疑問が生まれた。
「愛し合うってなに?」
「んー。エスタには、まだちょっと難しいかな」
ユウは誤魔化すように笑った。それから、感傷的な気分で視線を遠くへ反らす。
「えー。おしえてよー」
縋りつくエスタに、ユウはにこりと微笑んでしーっと指を立てた。
「これはね。教えられてわかるものじゃないの。いつか自然とわかるようになるよ。きっとね」
そんな日が本当に自然とやって来られるように。彼を独りぼっちのままにしてはおけないなと、ユウは改めて思った。
他の人間が暮らす場所を見つけて、送り届けてやらないといけないだろう。
しかし、少年にとっての新たな生活の地がどこにあるのか。果たして本当にあるのか、ユウにはわからなかった。
とりあえずユウは、日が沈んで視界が悪くなる前に出来ることはしておくことにした。
魔力で目印を付けてから、飛行魔法を使って浮かび上がる。遠くまで見通せる上空から何か見つかればと考えて、彼女は日に一度は空からの探索を試すようにしていた。
飛行魔法は常時浮くために魔力消費が激しく、今いる世界の許容性の低さによってはあまり多用することは出来ないが、その欠点さえ心得てピンポイントで使用すれば、非常に有用な魔法だった。
「なにそれ!?」
今度ばかりは、さすがの常識知らずのエスタも心底びっくりしていた。理想的な反応に、ユウもちょっと得意な気分を胸の内に抑えたまま、すました顔で説明をする。
「空を飛ぶ魔法だよ」
「うわあ! すごいや! 人間って、空飛べたんだね!」
魔法という知らない言葉が彼の中で勝手に抜け落ちて、何だか別のベクトルに勘違いしているっぽい、とユウは判断してすぐに断りを入れようとしたが。
「あ、いや。普通はね」
「すっげー! すっげーなあ!」
エスタはもう全く聞く耳を持たなかった。感動とわくわくばかりで、きらきらと目を輝かせている。
別に夢を壊してやることもないかと思って、ユウは黙って愛想笑いを浮かべることにした。
少しの間、エスタの側を離れて浮かび上がっていく。
緑針樹の葉に触れないように(初日にかすってしまって大変な目に遭ったので)、ユウは飛行魔法で途中までは慎重に上がっていった。
葉がたくさん茂る高度の手前に達したところで、男に変身する。
飛行魔法の効果が切れて自由落下へと移行してしまうが、そのまま構わず別の技を使った。
一つ前の異世界エルンティアで彼が覚えたショートワープ技、《パストライヴ》。
これにより、一気に葉の覆い茂る高度帯を飛び抜けた。
《パストライヴ》は、この技のオリジナルの使用者であるリルナと最も深く心が繋がっている状態――すなわち男の状態であれば、そのときに限り、代償なしに使用することが出来る。
ユウはエルンティアにいる間、彼女が使用していた機能から学び取った技をいくつか試して、この事実に辿り着いた。
彼女と通常の親愛を通わせている女の状態でも全く使えないわけではないのだが、ノーリスクで使える男のときと比べると、心身にかかる負担は相当に大きい。
元来時空系の技は、現実世界を超越した効果をもたらすものであるためか、同じく現実世界を超越した「心の世界」なるものに能力の本質を根差すユウにとっては、相性が最悪の部類であった。
技の使用時に、現実を超越した部分において何らかの形で共鳴を起こしてしまっているのもしれないと、ユウは自己分析している。「心の世界」の意図せぬ活性化作用が著しく大きくなってしまう傾向があるのだ。
それはすなわち、使用時に心身にかかる負担が著しく大きいということだけではなく、常に能力がコントロール下を離れて暴走する危険が伴ってしまうということでもある。ゆえに、ユウはその使用に慎重にならざるを得ない。
ユウ自身がこれまで身に受けたことでラーニングし、原理上は使用出来る時空系の技には、ウィルの使用した《
「何もない、か」
《パストライヴ》の後、再び女に変身してさらに飛び上がり。木々を遥かに見下ろす高度から周囲を見渡したが、結果は残念なものだった。
どこまでいっても、森、森、森。
溜め息が出るほどの緑尽くし。
彼女がこの世界にやってきてから、ずっとこんな調子だった。
エスタと出会えたのは本当に素晴らしい幸運だったのかもしれないと、彼女は思った。森にいる限り、とても他の人間は期待出来そうにない。
あまり長く空にいて魔力切れになってはまずいので、また進展なしの確認を済ませてから、ユウはエスタの元へ戻った。
日が沈んでいく。エスタと話し合って、今日はその場で休むことにユウは決めた。
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