2「緑針樹の森 1」

 見渡す限り、果てしなく。

 人にとっての目印など到底何一つ存在しない大森林は、どこまでも続いている。

 岩肌のごとくごつごつした木々の表面には、青々とした緑色の蔦と毒々しい紫色の蔦が競い合うように絡み付いている。

 上の方では、天井に蓋をするかのように、深々と緑の先細い葉が茂り、白い光に包まれた空を覆い隠す。

 わずかな隙間、木漏れ日に照らされて、赤い食物花が大きな口を開いている。間抜けな動物が迂闊に近寄れば、途端にそれは動き出し、丸ごと存在を呑み込まれてしまうであろう。


 少年エスタが一人旅に出てから、かれこれ一週間が過ぎようとしていた。

 少年は、今日も逞しく生き延びていた。おじさんから学んだ森の知識を活用して。

 森は食物に溢れた恵みの地である。食べられるものとそうでないものを見分ける目さえあれば、そうそう飢えに困ることはない。

 ただ一つ、水の確保だけが少々難点であったが、それも水分をたっぷり含んだ果実を丸かじりすれば、ある程度は補給することが出来た。

 澄み渡る空気を胸一杯に吸い込んで。耳を澄ませば、時折小鳥や羽虫の鳴き声が静かに聞こえてくる。

 たった一人ではあるけれど、思っていたよりも彼は孤独を感じることはなかった。これが荒れ果てた荒野なら話は別だったかもしれないが、森はどこも生命の鼓動に満ちている。

 ただ、少年の鼓動は少々弱っているようだ。膝はあちこちを擦り剥いて、見た目もひどく傷だらけだった。足には小さな緑色の棘がいくつも痛々しく刺さっている。この森に最も多く群生する緑針樹の種をうっかり踏みつけてしまったのである。

 やがて歩き疲れた少年は、手頃にあった苔のむしている小岩を見つけて、そこに腰を下ろした。


 数十分ほど休んだだろうか。そろそろ重い腰を上げていこうとしたところで。

 少年は、ぎょっとして身をこわばらせた。

 向こうから、赤、青、黄の入り混じった鮮やかな三色まだら模様の毛皮を持つ四本足の巨大な猛獣が、ゆったりとした足取りで近付いてくるのが見えたのだ。

 犬のような愛嬌のある耳と、それに似合わぬ虎のように鋭い目と牙を持ち。その四肢はサイのように頑丈で。虹色の尾には羽毛が付いてぴんと立っている。

 おじさんが言っていた。名前とかはないけど、絶対に出会っちゃいけないやつ。

 少年は、早くも旅の終わりを予感した。

 運悪くも、ここは“彼”の縄張りだったのである。


「やあ。こ、こんにちは……」


 グルルルルル、と唸り声を上げている。かなり血走った目を見るに、お腹を空かせているらしい。

 柔らかい人間の子供という極上の獲物を見つけた猛獣は、ご機嫌になって舌舐めずりした。


「見逃して、くれないよね?」


 ガル、と一言だけ猛獣が頷いて、会話が成立したような気がした。


「うわああああああーーーーっ!」


 少年は叫び声を上げ、一目散に駆け出した。小柄な体を活かして、木々の間を縫うように駆けて行く。

 決して逃がさじと、四本足の巨躯が草枝を力強く踏み分けて悠然と追っていく。

 いくら小回りが効こうとも、追いつかれるのは時間の問題だった。


 少年は振り向いて、布袋から固い木の実を取り出しては必死にぶつけていく。少しでも怯めばと思ったが、そんなもので森の強者が足を止めることはあり得ない。

 猛獣の牙が迫る。

 もうダメだ! 少年はとうとう死を覚悟して、目を瞑った。


「よっと」


 誰かの声がしたと、少年が思ったときには。

 一人の青年が、彼と猛獣の間に割り込んで。左手だけで、猛獣の額を押さえつけていた。

 人よりも遥かに巨大なはずの猛獣は、たったそれだけで、いくらもがいても壁に阻まれたように前に進むことが出来なくなっていた。


「大丈夫か」


 黒髪の穏やかな雰囲気の青年は、男にしてはやや高めの声で少年に呼びかける。それから、また猛獣の方を向いて。


「そら。向こう行け」


 柔らかく促すも、猛獣は聞かなかった。なおも久々に見つけた極上の獲物に喰らい付こうと、強引に口をこじ開けようとする。


「行けよ。な」


 仕方ないと、青年が威圧を込めて気を高め、物静かな口調で猛獣を諭した。額がぐいと押し込まれ、猛獣の頭全体が強引に地に伏せられていく。

 本能で、絶対に敵わないと悟ったのだろう。猛獣は子うさぎのように震え上がって、大人しくなってしまった。青年が腕の力を緩めてやると、そのまま虹色の尻尾をくるんと巻いて逃げ出してしまった。

 猛獣が向こうへ逃げて行ったのを事もなげに見届けて、青年はふうと一息を吐いた。青年とは言ったが、どちらかと言えばその言葉から連想される男らしさや逞しさよりは、中性的な雰囲気の体格と顔つきである。

 へたり込んだまま尻をついている少年にしゃがみ込んで目線を合わせ、青年は語りかけた。


「危ないところだったね」

「い、い……」


 少年は、どことなく不思議な雰囲気を湛える青年を目を点にして見つめたまま、固まりついていた。

 無理もない。まさかこんなに早く他の人間が見つかってしまうとは思わなかったのだ。


「どうした。怖かったか?」

「いたあーーーーーーーーーーっ!」


 次の瞬間、これ以上ないほど嬉しそうに顔をくしゃくしゃにして少年は飛び上がり。そのまま、青年はタックルを食らった。いや、それほどの勢いで飛びつかれていた。

 少年は、青年の胸に思い切り顔を埋める。もう離さないとばかりに、ぎゅっと強く背中に手を回して。

 何が何やら事情がわからない青年は、とりあえず様子が落ち着くまで少年の頭を優しく撫でてあげることにした。


 やがて、落ち着いた少年がきょとんと青年の顔を見上げた。青年はぽんと少年の頭に手を乗せて、今度はやや中腰になって目線を合わせる。


「俺はユウ。君の名前は?」

「おれ、エスタ」

「エスタ。こんなところで何をしていたの?」


 すると、エスタはもじもじして。だが、しっかりとユウの目を見つめて言った。


「えーと。あのね。おれとずっと一緒に、暮らしてよ」

「え?」


 いきなり思わぬことを言われたので、ユウはぽかんとしてしまった。エスタは続ける。


「もう誰もいないんだ。おれ、ずっと一人ぼっちで。他の人を探して、旅してて……」


 エスタは自らの事情を語った。ユウはその話を聞いて、いたく同情した。

 ユウとしても、裏付けが取れた。この世界にやってきたときから、周囲に全く人の気配がしないことをよく承知していたのである。

 彼がエスタを発見出来たのも、偶然引っかかった彼の人間の気を辿ってやって来たからであった。

 ユウは、懐から銀色の時計のようなものを取り出す。

 世界計。異世界を渡り歩くフェバルに、その世界における活動可能時間を大まかに教えてくれる代物である。

 残り時間を確認したユウは、小さく溜め息を吐いた。

 約一年。

 それが今回のユウに与えられたタイムリミットだった。わずかというほど短くもないが、ずっと一緒に暮らすというには、やはりあまりにも短い時間である。


「ごめんね。俺は、ずっとは一緒に居られない」

「え。どうして?」


 ショックを受けて、少年が顔を暗くする。ユウは彼の目をしっかり見つめて、誠実な想いを込めて言った。


「そのうちね。また遠くへ行かなくちゃならないんだ。ここを離れて、ずーっと遠い所にね」

「だったら、おれもついてくよ!」


 意気込むエスタに、ユウは残念そうに首を横に振った。


「どうしても無理なんだ。君にはとても行けないような、とっても遠い所だから」

「そっかあ……」


 エスタは、心底落胆していた。

 ずっと一緒には居られない。せっかく見つけた生き残りだと思っていたのに。仲間だと思っていたのに。

 彼の知っている唯一の人間。おじさんとはあまりに感じが違う。その不思議な格好とどこか自分と離れた雰囲気が、元々さして疑う心を持たない彼に、ユウの話を信じさせたのであった。

 がっかりする彼に、ユウは穏やかに微笑みかけた。


「でもね。出来る限りの間だけど。君の旅に付き合ってあげるよ」

「ほんと!?」


 ぱっと目を輝かせた少年に、ユウはしっかりと頷いた。


「うん。またさっきのような目に遭わないとも限らないだろうしね」


 ユウは、密かに感じていた。

 もしかしたら、この旅はかなり長いものになるかもしれないと。

 エスタを除き、半径数百キロメートル以内に明らかな人の気配なし。

 数多くの人間がいれば、もっと離れていてもわかるはずだった。

 この大自然溢れる世界には。人間の数自体が相当に少ないことが予想された。もしかしたら、ほとんどいないのかもしれない。

 ユウもまた、この世界に来てから十日は孤独な夜を過ごしていたのである。

 それでさえ少し寂しい思いをしたのだから。ましていたいけな少年エスタを孤独のまま放っておくという選択肢は考えられなかった。

 これもまた巡り合いだろう。このあどけない子供の旅に付き添っていくことが、果たしてどんな未来に繋がっているのか。


「えへへ! ありがと! ユウ! よろしくね!」


 一人旅が、二人旅になって。

 エスタはユウの手を取り、意気揚々と歩き始めた。

 森は未だ深く。始まったばかりの二人の旅も、先は見えない。

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