第7話 小夜香の両親の若きし頃の過去    そして、真沙美の想い





 小夜香の父、菊川佳孝よしたかがスクリーンの中で熱く情熱をほとばらせるほどに夢中となって、ピアノの鍵盤を叩いている。

 もう既に曲も三曲目となり、ステージでは佳境かきょうに入ったのか、プレイヤーたちの演奏にも更に熱が込められているようだ。スクリーンの中での聴いているオーディエンスたちの反応にいたっても、その場にいて内から感じるグルーブ感がそれぞれのリアクションとして見て取れる。或る者はテーブルをピアノのキーを叩くような仕草の者や、手拍子に手を高々と挙げその場の空気と一体感となって、より一層の強いビートを求めているようだ。

 二曲三曲と聴き慣れない、佳孝たちのグループのオリジナル曲なのだろう。三曲目の曲はプレーヤーたちの個々のインスピレーションのままにすき好きにフレーズの掛け合いで、その場はさらにたち聴衆たも負けじと掛け合いの応酬でヴォルテージは最高潮といったところのようだ。そして佳孝は、このステージを盛り上げるだけ盛り上げ、彼は仲間たちの顔をうかがいブレイク気味に、その場の空気を切り裂くかのようにバッシっと最後をキメた。

 一瞬にして、置いてきぼりを喰らったその場のグルービーたちは、もっと熱いビートをくれとせがみ騒いだ。しかし、熱く未だまだ冷めないままその場のビート・ジャンキと化したオーディエンスたちの耳に聴き慣れた、佳孝の弾くピアノのイントロが流れて来て、場内の空気はまた更に熱をあおり立てた。曲は、ジャズの中でもスタンダード中のその中でも、もっともポピュラーなデイブ・ブルーベックの”テイク・ファイブ”というナンバーだ。

 彼は、ピアノの鍵盤を唯ひたすらに変拍子の旋律を刻み、仲間たちがその旋律に息を合わせ乗ってきた。佳孝の顔は、もう無心なのか思考は熱気となった想いの中を彷徨するかのようにインプロビセンス、即興のままにキーを叩く。

 その傍では、若き具志堅と仲間たちがその時、その瞬間でしかあり得ない音を情熱とともに奏でながら、その思いを胸の中へと刻み込んでいる。

 父が奏でる音は、スクリーンの中の彼の表情を見ても分かる。彼の、その時の思いはすべてが充実していたのだろう。彼の叩く、ピアノの音が一音一音、小夜香の耳には煌びやかで、夢中で演奏をする父の顔には大粒の汗と、ほとばしる汗がキラキラと小夜香の目には眩しい。その父が、想いを届けるのは母の志緒梨への心なのだろう。その彼の想いのすべてを志緒梨は、受け止め満面の笑顔で彼に反している。

 これ程に、幸せそうな恋人たちの表情を小夜香は見たことがなかったし、まして若かりし頃の両親のその笑顔は、小さい頃に自分に向けられていた顔とはまったくの別のものだった。

 小夜香も夢中になって、スクリーンの両親の顔を目で追っていたが、四曲演奏して父の佳孝を残し、他のメンバーはステージを降りて仕舞った。

 その独り残された佳孝に、カメラのアングルは顔をアップして彼の照れた表情をとらえた。その顔は、志緒梨の方へと眼差しをやり。父は、何かを言っているのか、口がパクパクと動き、母に語り掛けている。

 「これから、ぃちゃんの好きな曲を贈るね。すべてを志緒梨に…… ぃちゃんの好きな曲、オール・オブ・ミー……」

 父の声は、マイクには入らなかったが、はにかみながら言った父の声は、小夜香の心の中にもハッキリと確かに聞こえ、届いた。

 カメラマンが、気を利かせてカメラをパンして、志緒梨の顔をクローズアップして映し出した。その彼女も父の声無き声を聴いたのか、『ありがとう……』と口を動かせ、彼に返事をした。

 そして、コードをポローンとゆったりと余韻を残すように響かせ、オール・オブ・ミーがスローテンポでメロディーが奏でられた。

 その時、若い小夜香の両親のふたり、恋人たちの想いはひとつ、永遠に覚めることのない夢の中にいて、誰の干渉も出来ない世界にいる。その想いをスクリーンの中に刻み込んでいたのだろう。

 小夜香の見る。両親の仲は、眩しすぎて、熱く、見ている彼女の目と胸を焼き、想いを焦がした。

 そんな想いで見ていた小夜香は、今は亡き母の微笑む顔を追っていたが、それと同時に父の活き生きとしている顔を見るほどに、自分の胸をさいなむほどに痛い……いつしか小夜香は、手にハンカチを持ち溢れる涙を拭っていた。

 小夜香は、この時を止めていつまでも、いつまでも見ていたい。嫌、私もお母さんの傍で、見たことのなかったお父さんの夢中となって、その時の自分の存在を謳歌している姿を観ていたい……しかし、その傍らで、小夜香の胸のうちにあったそのものに、彼女は『今まで、この私は何か取り返しの尽かないものに囚われていていたのでは?』という自責の念を感じていた。

 そして、映像はその曲の始まりと同じように、ポローンゆっくりとコードを流すように奏で、その旋律の余韻を残したままに終った。

 スクリーンは真っ暗なものとなったが、それを合図にこの店内にいたお客たちからの惜しげのないアプローズが、小夜香が眺め回すとスタンディング・オベーションさながらに、立って拍手を送っていたのだが、観ていた此処のオディエンスたちは幻想のような錯覚を覚えながもら、映像にあったはずのステージはなく。しかし、舞台があった筈のその側の席には、服は違うがスクリーンにいた女性、小夜香にアプローズの雨を降らせていた。

「さあ、小夜香ちゃん、立って……立って、ご両親の代りにご挨拶をしてあげなさい。私からも、お願いだ……さあ、私も一緒に挨拶をするよ。善いね」

 そう言いながら、具志堅は小夜香の手をやさしくとって、彼女を立たせ、大きく片手を挙げ一礼と供に手を胸元に持って来た。小夜香もなすがままに、彼の傍で深く一礼をした。

 その後、二人は席に着き。座るなり、具志堅が満足そうに小夜香に声を掛けた。

「いやー、爽快だね……最高に好い気分だ。拍手を受けるのがこんなにも、刺激的だったとは……もう、数十年も忘れていたよ。しかし、ね。しかし、いつもこんな風に沢山のアプローズを受けていたのは、小夜香ちゃんのお父さんの佳孝君ばっかりだったよ。悔しいねえ。おじさんは悔しいけど、しかし君のお父さんと一緒にプレイ出来たのが、今の私にとっての誇りだよ。それに、彼はこのビデオ映像を撮ったステージを最後に、ピアニストへの夢を終らせて仕舞ったんだよ。これが如何いうことか、小夜香ちゃん、君には分かるかな」

 小夜香は、何も思い浮かばず具志堅の目を見据みすえたが、やはり彼の眼を見ても思い当たるものはなく、彼女は仕方なく目を伏せたまま俯き、首を数回横に振った。

「嫌々、小夜香ちゃん、私は、何も君を責めるために質問をした訳じゃあないよ。唯、君に如何しても知っていて措いて欲しいことがあってなんだけど……」

 彼は、やはり言い辛いことなのか、口篭くちごもって誠に歯切れが悪い。それは、大人たる由縁の眼の前にいる小夜香を思いやってのことなのだろう。

「小夜香ちゃん、君とは、今日初めて……アッ、嫌、君が未だ生まれたての頃に私は君を抱いているから初めてではいね。アッ、これもどうでもいいことなんだっけ……しかし、ね。しかし、私は彼の、佳孝君が背中に背負っているモノを幾分かでも軽くしてあげたいんだよ。嗚呼、何から話そう……アッ、そうだった。彼が何故、自分の夢を諦めたのかだったね。そう、それはね。それは、君のお母さん、志緒梨さんのお父さんがね。君のご両親の仲を善く思っていなくて、それは彼が二十五にもなって職にも就いていないっていうことだったけど……しかし、今から考えてもそうじゃあなかった。それは、君のお祖父さんは、若くして奥さん、そう君のお祖母さんを亡くしてそれ以来、娘の志緒梨さんを溺愛できあいするほどに可愛がっていてね。それで、娘が他所の男なんかに奪われるのが辛かったんだろうね。そこで、お祖父さんは彼、佳孝君に次々と無理難問を吹っ掛けてきて、それでも彼は歯を喰いしばってそれまでやって来たんだよ。君には、何ひとつ辛そうな顔は見せなかっただろうね? そういうヤツさ、彼はそういう風な男さ。とても、私には真似できないよ。でもね。彼が、最後のステージに立つその前の晩に、バンドメンバーの仲間たちで飲んだんだよ。そこに集まったのは、私たちだけではなかったよ。彼が、音楽を辞めるっていうことを聞いた人たちがこの店に集まってね。それはもう、大変だったよ。口々に”どうして『辞めるの?』って、彼も理由を言うのにその日は大変だった。それで、彼はピアノを一晩中弾いて、弾き捲くってみんなの口を閉ざしたが、多分もうピアノを弾くのが後僅かなのを惜しんで、彼の夢への決別の意味を込めて弾いていたんだろうね……ク・ク・ク……」

 具志堅は、その時の思いを回想のままに自分の膝を強くにぎりしめていた。

「アッ、ごめんね。あの日のことを思い出して仕舞って、とても辛かっただろうね。彼の心中を思えば、涙抜きには語れないよ。それで、閉店して、此処に集まった人たちは未だいたい、って駄々をねて帰すのに往生したが、その後、彼とバンドメンバーでゆっくりとした時間を今観たラスト・ステージの始まるまでの半日の時を過ごしたよ。その時だった。私が、何故そうしてまでして志緒梨さんの親父の意見を聞くんだって、彼に聞いたんだ。そしたら、彼は、『そうしてまでしても彼女、志緒梨の傍にいたいのさ……なんせ、彼女に親元から離れ、俺と逃げて一緒になろう、っていうのは、絶対彼女にとって善いことではなからな……』だってさ。キメる時はキメるヤツさ彼は、佳孝君ってヤツは……それからね。彼が、言ったんだよ『俺は、ピアノの夢を諦めたけど、でもこれから志緒梨と一緒に見る夢が彼女のお腹の中に今あって、それを俺は志緒梨といつまでも見て行くんだ』ってね。そうだよ。君、小夜香ちゃん、その時はもう君は志緒梨さんのお腹の中にいたんだよ。生まれる子の名前はもう決めてあるって……それは、志緒梨さんの家系の女の人たちはみな短命で、志緒梨さんの母、君のお祖母さんだって若くして亡くなっていたから、それで彼が命名した名が、小夜香という名だった。その名の由来は、僅かな時も傍で存在を感じさせてくれる、ということらしいけど、判る? ウン、そうなんだ。私もその時、分からなかったので聞いてみたんだ。それで、分かったんだよ。とても、とてもいい名だって私も思ったよ。それはね。小さな夜っていうのが僅かな時間で、存在感が香りで、その時ある時間を微かでもいい、いつも傍で存在としての香りを志緒梨さんと自分に感じさせて欲しいと言っていた。しかしね。それからが……それからが、彼にとって、とても辛い人生の始まりだったんだよ……」

具志堅は膝においてあった手をさらに強くにぎりしめていて、涙を堪えているようであった。そして、声をすこし振るわせながらまた話し始めた。

「君のお祖父さんは、彼を自分が経営していた食品会社に入れ、その当時志緒梨さんの弟は未だ大学に入りたてで若いからと、彼に自分の代わりに地方への出向をさせてね。それで、彼は殆んど夢に描いていた志緒梨さんと小夜香ちゃん、三人のマイ・スィート・ホームにはいられない日々が続き……ウ・ウ・ウ……その上、そんな中に志緒梨さんまで彼は失ってしまって……ウ・ウ・ウ……グジュッ」

 涙は堪えたが、かわりに鼻水がだたようだ。

「アッ、ごめんね…彼は、未だに愚痴る様に言うんだ『善かったのかな? 本当は、あの日此処で朝までピアノを弾いて夜を明かした時に、貴方(具志堅)に話したことが善かったのか? それとも志緒梨を、彼女の家から奪ってでも行っていたのなら、少しでも多くの時間を志緒梨さんと小夜香ちゃんと過ごせたのでは』っと彼は決して取り返すことの出来ない胸の内を酔う度に言うんだよ。

 今の彼は、五年程前に前社長、君のお祖父さんが亡くなって、その後を継いだ志緒梨さんの弟さんは佳孝君にこの会社を担って欲しいと言っていた。それは、その会社の全社員の願いだったから……しかし、佳孝君は『それは、おかしい』っと、それを突っぱねて今の専務という肩書きに甘んじている。彼はそんな奥ゆかしい、そんな男だ。アッ! そうそう、これも言わなければ、小夜香ちゃん、君の義理の母の真沙美まさみさんのことなんだけど……この際だから、言っても善いかな? 君が八歳頃に、志緒梨さんが亡くなられて、それから佳孝君は君の傍にいられたけど、しかしお祖父さんは未だ彼を許せなかったのか、小夜香ちゃんのために早く再婚をしろ、っと言って、その頃、会社の方も業績が思わしくなく資金繰りに彼も飛び廻っていた。そこに、高柳家の次女の真沙美さんが昔佳孝君のピアノのファンだったというのをお祖父さんが聞き付け、勝手に縁談を進めて仕舞って……佳孝君は、その時この店に来て大いに荒れて余り飲めない酒を飲み続けて、初めて彼は君のお祖父さんに悪態を吐いた『何だと思っているんだ。あのジジイは、俺は人間だ。ちゃんとした小夜香の父だ』ってね……でも、彼は、最終的には会社、社員たちのことを考えて真沙美さんとの結婚を結んだんだ。しかし、今更ながら尽々ことごとく、私は真沙美さんで善かった、と思う。それはね……彼女は、彼の、佳孝君の気持ちを知っていてね。彼には無理な接し方はしない。それは、小夜香ちゃん、君もそれは分かっているだろう? そうなんだ。あのふたり、見ている方が苛々いらいらするくらいに他人よりよそよそしいく見得るだろう。君が、傍にいるからそうなんじゃないんだ。それは、佳孝君の心には未だ志緒梨さんが大きくあって、真沙美さんはそれを無理に引きがそうとはしないし、その上そんな風に亡き志緒梨さんの面影を大切にしている彼を彼女はリスペクトっていうか、そんなモノも含めての彼、佳孝君だから、と私に言ってくれたことがあったんだよ。小夜香ちゃん、君は、もう一人の素晴らしい女性を母に持っと思う」

具志堅は、ポケットからタバコをとりだし、小夜香に吸ってもてもいいか尋ね、火をつけ深くすいこみ、そして大きく吐き出した。それから、また話し始めた。

「真沙美さん、彼女も君のことで心を痛めているよ。それは、自分が菊川家に入り込んだことに由って、あるべき父と娘の親子関係を壊してはいないかとね。それで、ね……如何かなあ、君のお父さんの佳孝君と未だ君の中では義理の母の真沙美さんを許してはくれないかなあ? 私は、無理には小夜香ちゃんには押し付けする気はないよ。それは、君自身が決めることであって、そういうことは小夜香ちゃんの気持ちが供わないといけないことだからね」

 小夜香は、彼、具志堅の話を聞いている途中から昨夜、夢の世界に行って夢のじいが入れてくれた濃いめのミルクティーを飲んだ時に、彼女の小さかった頃の記憶を今の大人になった自分が見た両親の思い出は、やはり違っていた。あの頃の自分は何も知らず、唯々両親の顔色だけをうかがっていた。唯、両親が微笑んでいてやさしくしていてくれる。唯、それだけだったが、今の彼女はもう一般的なモノの考えなどは勿論、小夜香には元々あったモノか、彼女が幼い頃より大切に母から教えられたモノか、それは相手を思いるという感受性、いつくしみの心で見た両親の表情というモノだった。

 父親の顔は、疲れたという感情と、それをごめんなさいという感情を押し殺して父に寄り添う母親の表情だったが、それでも両親は小夜香を本当の天使のように自分たちの大切なモノだという慈しみの眼で見ている。そんな感じだったが、具志堅の話を聞いて彼女はやっと、昨夜の両親の見たことのなかった表情の意味が分かったのだった。

 しかし、具志堅の話を聞き、それで父を許してやってくれないか、と言われても、これまでの彼女が取っていた母、志緒梨が亡くなってからの父への接し方を改めるということは、簡単には行かない。それは、彼女の感情があってのモノだからだ。

 それでも、彼女はもう知ってしまったのだ。これまで父に取っていた感情は間違っていたことを……その感情を作って仕舞ったのは、幼い頃の小夜香自身であって、幼いからこそ間違ったモノ、感情を作り続けていたのだった。その間違った感情の切っ掛けは、ただ他のお友達の家庭のようにお父さんがいてくれたら、という思いから、あえば父はやさしく小さかった彼女を抱き締めてくれたが、いて欲しかった父は傍にはいいくれず、偶に来るお祖父ちゃんがその父の悪口を言って帰る。だからと言って、小さかった彼女でも鵜呑みにはしなかった。それは、父の悪口を聞いている度に母の表情が曇るのを見ていたから、しかしそれでも彼女は知らず知らずに幼い思いの片隅に刻んで仕舞ったのだろうか。

 そして、彼女にクリティカルに刻ませたのが、母の死で、父は母の最期の呼びかける声さえも聴くことはなかった。その上、父は自分のためだと、これからはこのひとがお前のお母さんだ、と知らないひとをいきなり連れて来た。それが、真沙美というひとだった。

 新しい母、真沙美は小夜香に取ってもやさしかった。勿論、その頃の小夜香は、決して新しい母の手を焼かすことなどは一切しなかった。それは、忘れることのない亡き母の教えを唯ひたすらに守っていたからだった。それでも真沙美という母は父のもの、自分のものではないと勝手に思い込み、そのままに地元の高校を出て、大学をわざわざ離れ、東京という都会の大学を志望して家を出た。

 今いったことは、小夜香自身の胸の内にある思いなのだが、しかし具志堅はそれを知ってか知らずか、更に話は続いていたが、彼の話す話の言葉は、目の前にいる小夜香のことを思いやって、そのせいで矢鱈と歯切れが悪く、ナイスグレー、グレーというには余りも髪の毛が少ない……だから、ナイスリルビット・グレー、彼の話は饒舌じょうぜつなわりに話が長い。そこで、彼が言っている内容を端的にいうと、次の通りだった。

 小夜香の父、佳孝は志緒梨の父の会社に入ってすぐ、仕事を早く覚えるようにと地方への出張が多く、小夜香が生まれる出産にさえ立ち会うのを許して貰えなかった。小夜香が物心つくようになる頃には佳孝は、会社の中での人望も厚く、地方への数々の出向していたお蔭で各支社の社員たちからの彼への信頼と共に要望は大きく、会社内から湧き上がる佳孝への期待は古い社長のワンマン経営からの脱却を望む声だった。その声に、彼は応えたく、更に個々の社員たちへの彼自身の使命感に固められて仕舞い、彼の時間は常に彼の望んだ淡い志緒梨と小夜香の三人のマイ・スィート・ホームという夢から遠く離れていて、しかし彼は諦めていた訳ではなく、この会社のこの今の基盤を揺ぎないものとしたのなら、その時は彼も本社に戻って、彼の夢の我が家からの出勤、愛する妻の志緒梨に娘の小夜香の『いってらしゃい』と言われ出勤する毎朝の光景を、彼の夢はいつの間にかそこに希望を繋いでいたのだった。

 しかし、彼の身を犠牲にしての奮闘の甲斐あって会社は、彼の望む通り基盤のようなものが出来たかに思えた矢先、小夜香には伯父に当る志緒梨の弟がその当時別の会社を興していて、その仕事は株のトレーディングが主体の業務で、若い新しい会社の社長の彼は日々親父から受けるプレッシャーの中、功を焦るがために大きな賭けとなる売買に手を出してしまい、大きな負債を会社全体に与えて仕舞った。

 常に世の中は、こういうものか、と思わせるのは、順風に流れていた風もいつの間にか吹き溜まりに入り込んだかのように、悪いことは度重なるものであるかの如く、地方の子会社の地元の食品をメインに製造販売していたその中の全国へと流通していた商品で食中毒事件を起こしてしまい、佳孝は会社を代表してマスコミの矢面に出ての釈明と、被害者への謝罪にと眠れない日々を重ねていたが、その最中妻の志緒梨が体調を崩し病院へ行くと、その原因は乳癌だったが、彼女はそれを夫には知らせなかった。それは、自分の父のせいでこんなにも辛い思いをしているのに、更に自分のことで彼に心労を負わせるのを善しとしなかったからだった。

 会社の食中毒事件の方は、一年と半年を掛けて佳孝の地道ではあるが、忍耐をその身にしながらの謝意の姿がマスコミ及び被害者の人々に通じ落ち着きを見せたのだが、その渦中の中で彼はかけがえのない最愛の妻を、志緒梨を失ったのである。

 志緒梨、彼女の病状は、若い体のせいで彼女が気付くより早く癌という病魔は侵攻していて、それと何故か彼女には息を引取る間際まで痛みはなかったように感じさせる程に穏やかな最後だったが、そのこともあって周りは最悪の思いになるということは誰ひとりとしての思いは至らなかった。

 その時、志緒梨は入院して一年という速さに、彼女が好きだった桜の花もやがて咲くという手前に二十八歳という若すぎる人生を終えた。

 志緒梨が、目の前から消えたという喪心そうしんの彼の胸の内とはお構いなしに、会社のこと、社員たちのことから彼は逃げることは許されず、真に彼は自我を殺し目の前のことを坦々とこなしていったのだが、しかしどうしても義理の弟の作った大きな負債が、食中毒事件の被害者への賠償金と大きく信用を失った会社には簡単にはやりこなすだけの余力がなく、その頃の佳孝は資金繰りに奔走ほんそうを来たしていて、その彼を救いたいと手を差し伸べてくれたのが、真沙美の父であった。

 真沙美の父は、高柳たかやなぎ純一じゅんいちといい。高柳家というのはかなり世に知られる程の財閥なのだが、その男が佳孝の会社の窮地きゅうちの一部始終を各種メディアを通して見ていて、同じ会社経営者として佳孝に同情と尊敬にも似た男気を感じたのではあるが、高柳の次女の真沙美は大学生の頃に友達に、その頃伝説となっていた佳孝たちのバンドの話とCDを借りて以来、彼女はその噂と彼の奏でる音楽を重ね合わせ聴き、それがやがて憧れに近い想いを引きるように持ったままにいて、父の純一に彼のことを聞き、彼女は何度も佳孝と話をすることが出来、その度に想いは現実のものを夢見ることになって行った。

 佳孝を身近に視、その話し方、接し方に彼がどんなにやさしいひとなのかを真沙美は感じるほどに、どんな境遇が自分にあろうとそのひとの傍にいたいと願うようになり、そのことを恐るおそる父の純一に話すと、父は彼女の思いとは違う喜びの言葉を返した。その言葉とは、『そうか、真沙美、菊川君のことは私も好きだ。彼は、稀有けうという言葉を使いたいくらいにじんの人だ。彼は、それほどに人を区別することなくやさしいひとだ』と父は彼女に言い、出来るのなら真沙美に彼と一緒になれるのを応援するとさえ言ってくれた。

 しかし、彼にそのことを、父を通じて佳孝の会社の方への根回しを存分にして伝えたのだが、彼からの返事はないままに、やがてそのことを聞いた志緒梨の父の社長は佳孝に、先方からの申し出は誠に在り難いことだと言い、まして母を亡くした小夜香のこれからのことも考えると、男手だけではよくないことだ。それに、高柳家からの資金の援助もあるということだから、と半強制的に彼に言い、勝手に縁談話を進めて行き婚姻を結んだのであった。

 小夜香が、もう十歳になろうかとする秋の日に、父は新しい母を招いてレストランで三人で食事を取った。彼女は、その人が、まさか自分の母になる人だとは思いもないままに、亡き母の教えのままにお行儀善く、良い子のままに食事をした。

 真沙美の方も、婚約を規する前日、父とふたり食事を取った。父が言ったことは、彼女へのお願いごとだった。父の願いとは、『菊川君は、余りにも私欲がなく、唯周りの人たち、特に地方の彼の社員たちに至っても心を砕いて居るほどに心安まることがないようだ』と言い。真沙美の父の高柳純一は、佳孝との仲は三年近くになるのだが、その中で時に純一が仕事の合間にふっと彼の顔が浮び、電話をしてその日に酒を飲みに行くような仲にまでになっていた。

 そして、その父が言う。『だから、真沙美、彼に迷いもなく仕事に打ち込めるように、真沙美が菊川君の家庭をみてやってくれないか』と言い。また更に、『彼には、真沙美も知っているだろう。彼は、志緒梨さんという自分の夢さえ捨てても構わない程、とても大切なひとを失った。今は、小夜香ちゃんという彼にはもう失いたくない、この世でもっとも大切な彼の娘さんだ。それほどに、彼はその子を愛している。だから、真沙美、お願いだ。彼は、家で待っているその子が、一人前の女性になる頃には、仕事もおそらくはひとつの安泰を尽いているだろう。そうなれば、真沙美も心にあるだろう彼の夢、ピアノを弾く姿を……私も、彼の演奏する姿を観てみたいが、もしかもすると、その頃にはこの私はもうこの世にはいないかもしれないが、しかしどうか彼にもう一度夢を見させてくれないか……』と彼女はいわれたのだった。

 真沙美、前の名を高柳真沙美といい。高柳家は阿須地桃山時代以前からの銘家で、高柳城の主を祖先に持つ、その者たちは、代々自慢の醸造酒を通して会社を大きくして行き、また異業種の会社も多々にあって、今ではこの日本に留まらず海外にまで知れ渡っている程のもので、彼女は姉と兄、それと下に弟、妹の兄弟の真ん中の高柳家の次女で、人の見る眼が利くと周りから言われている父の純一が、一番私に似た子が真沙美で、一番かわいいと純一に可愛がられていたひとだった。

 彼女は、佳孝より十二才違いで、志緒梨とは八つも年下である。その彼女が、菊川家に顔を出し始めたのはレストランで食事をした土曜日から二日後の月曜日からで、学校から帰宅していた小夜香に、彼女は突然買い物袋沢山抱えて来て、夕食作りの許しを小夜香に伺い、作り始めて父の佳孝が帰って来る頃には食卓には、小夜香の知らなかったものが並んでいて三人で食べた。その間、仮の家族は寡黙かもくなほどに静な食事を取っていたのを、小夜香の記憶にはポツリとある。

 それから半年を掛けて、真沙美は毎日通って、志緒梨の命日に結婚式を挙げた。それは、彼女が自分の結婚式は佳孝さんの記憶にはなくても善い。それより、志緒梨さんの命日を一番大事にして欲しいし、もし私のことを思い始めてくれるのなら佳孝さんは志緒梨さんのことも大事にして欲しいからだ、とのことだった。その時、花嫁の歳は未だ二十二だった。

 それから八年間、小夜香は真沙美と父の三人で暮らしたが、三人が三人それぞれの思いで互いに相手を気遣いながらのままに無駄に時を費やして仕舞った。その思いは、小夜香が具志堅の話を聞いて涙を流したのだが、その涙の一粒にその思いは、父と真沙美に対して、これまでの自分が取って来た取り返しの尽かないことへの懺悔ざんげという想いが凝縮してあった。

 菊川家、三人暮らしの中での小夜香は、父は新しい母に対して私いるから、私のことを思って余り夫婦のような接し方を見せないのだろうと思い。私が、この家を早く出てさえ行けば、このふたりはやっと誰の眼も気にしないで愛し合えるのだろう、と思い、心の内を義理の母ではあるが、真沙美に隠したまま、父の佳孝にでさえその思いはひた隠しにし、東京の大学に入るからと家を出てしまったのである。その想いに至る小夜香の中には、父にはもう亡き母への想いはなく。もしかもすれば、この私のことでさえ、失くしてしまったのだろうということからだった。

 今にして思う、彼女が独り暮らしをするからと旅立つ駅で、父は何も言わず唯黙って、見送ったのだが、小夜香は動き出した電車の窓の外の父の顔を見た。確かに父の目には涙があって、彼女の耳には聴こえない筈の父の声を聴いた。その声は、『志緒梨、すまない』と言う言葉だった。

 父は、いつもそうだった。いつも、家では話を小夜香はしたことが、なかった。しかし、彼女はやっと今分かった。それは、いつも彼女の方が拒否をしていて、佳孝からの誘いの言葉を無碍むげこばんでいたのだった。そう彼女は、父が何を言っても、『知らない。今はいい。分からない』の言葉で知らず知らずにあしらっていたのだった。その時の父の顔は、いつも……どうせ、今日も『知らない。今はいい。分からない』の言葉が返って来るのだろうという顔なのか、作り笑顔の奥の目にかげりを彼女はいつも感じていて、それならば声を掛けなければいいのにと勝手な我儘わがままに思っていた。

「それでね……それで、小夜香ちゃん、聞いてる?」

 小夜香の前で、具志堅が不思議そうな眼で彼女を見ている。

「エッ? 聞いています。聞いていましたけど、な、何でしたっけ? 今、話されていた話は」

「アッ、あのね。来月の十五日に、またこの店に来てくれないかということなんだけど……どうなんだろうね? 三月のその日は、志緒梨さんの命日でお父さんの佳孝君も真沙美さんも来るんだよ。それでね。それで、小夜香ちゃん、君はふたりに会わなくていいから……唯、君はそのふたりから隠れていてもいいから視ていて欲しいんだ。それはね。三月の十五日は、その日は決まって二人で志緒梨さんのお墓参りに行って来て、そして志緒梨さんの思い出の詰まったこの店で、彼女をしのんでお酒を飲むんだよ。だから、小夜香ちゃんにどうしても視て欲しいんだ。そのふたりの仲を……未だに、ふたりは志緒梨さんを心に大切に残していることを小夜香ちゃんに、是非視て欲しいんだ」

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