第6話 父の友人、具志堅氏登場・・・明かされる両親の過去




 小夜香は、その日も気持ち好く午前中の仕事をこなし、ランチタイムとなり彼女はお弁当を持ち、有希に逢える筈だと思い展望フロアーへと行ってみたが、彼の姿はそこにはなかった。

 彼を捜すのは止め、いつも腰掛けてお弁当を食べている長い椅子に腰を下ろした時に、カーデガンの中に着ていた制服のチョッキのポケットの中でサーカス・ファンファーレが、バイブと共に鳴り響いた。

 有希からのメールを開き読むと、内容は彼の新しく始まったプロジェクトの仕事が忙しくなり、今はそこに来ることはできないから帰りにその展望フロアーで逢おうというものであった。

 彼女は、仕方なくお弁当箱の蓋を開け食べ始めたが、今までは独りで食べていて慣れていた筈なのに、その場で過ごすこのランチタイムが無性に今は寂しさを覚えることに戸惑いを感じていた。

 この想いは、桐生京平を追い求めていた頃のものとは違うことは彼女自身判っているが、彼女が有希に対してのこの想いとはなんなのかが解からず戸惑うものであったから、彼女なりに自身の診断を量ってみた。

 彼女にとって、有希は年下でちょうど十才も離れているし、その上彼は自分の目には異性というより中性的で、何故か恋愛の対象にはならないという思いがあるが、ではその彼に対するこの想いはなんだろうと考えると、思いは迷いの森の中をグルグルと彷徨ってしまう。彼女は、ふっとした思いが胸をかすめ『クスッ』と笑いが漏れた。それは、有希に初めて逢った日に、彼に『君は何でも物事を深く考えてしまう』という言葉だった。


 そして夕方の五時となり、小夜香の仕事も粗方終ったので、彼女はそそくさと帰り支度をし、ロッカールームへと駆けていた。そんな彼女を見送り同僚の夏樹たちは、目配せをして互いにうんうんと頷いて見せた。

「間違いないわね。ここ数日、小夜香先輩の様子が変わったのは……やっぱり? ムフフ」

 夏樹が不敵な笑いを見せた。

「小夜香先輩、この感じだと、今日は絶対にデートだと思う。だから、加奈子に喜美恵、いい? 今夜のアチキたちのミッションは、分かっているよな。そう、これからあの小夜香先輩を尾行して、どういう風にしたら最近突然あの小夜香先輩が明るく綺麗になったのか、謎を解き明かすぜ。これは、アチキたちにとって、よりよい未来へと繋がる貴重な一ページなんだ。ここはしくじれない大事な、これはアチキたちの使命なのだからな」

 夏樹の熱のこもった言葉に、加奈子と喜美恵は鼓舞されたのか、真剣な眼差しで固唾をのみまた頷いた。そして、その後ろで恵梨が呟くようにポツリと言葉をなげ掛けた。恵梨は、昨年入社してこの課に配属されてきた一番下の後輩だ。

「そうなの? 私も小夜香先輩の後を追えば、私も、わたしも綺麗に近付くの? あの小夜香先輩のように、私も綺麗な女性に……」

 その顔は、あたかも『この私も小夜香先輩のようになれるの?』っといった眼差しで、彼女の思考は夢の中にいるようだ。その恵梨の顔を、三人は凝視し深く頷いた。

何故に彼女たちは、こんなにも小夜香のことに執着しゅうちゃくしているのかといえば、それは夏樹たちが昼間、社員食堂でランチをとっていた時のこと、若い男子社員が数名彼女たちを取り囲んできてのことだった。

その中の一人が代表して言ったことが、昨日の朝、花束を持った小夜香を見て、そこにいた男たちの気をいて仕舞ったとのことだった。それはそうだろう。小夜香、彼女は会社の入口前の長い階段を息せき切って駆け上がり、その顔は階段を登り切ったために上気し日頃化粧気がない白い頬にほんのりチークを差したかのようにつやが出、誰もが始めは花束を抱える女のひとが走っていると視線を集め、彼女の長い髪が走るたびに風にたなびいて見ている者の気を幻想へといざなって行く。その花束を抱える小夜香のその顔を見て、そこにいた男たちの心を奪って仕舞ったのだった。それも、彼女がその後、携帯のメールを眺め、有希に逢えるものだと思い、見ていた周りの人たちは微笑をおもてに駆けていた女神のような顔が、急に影を差し俯いてしまった。そこで、その一様を見ていた者たちは勝手な思いに駆られ『誰だ。誰が、俺の女神をそんな風に悲しませるのだ』と思い強く持ってしまった……それを、夏樹たちが同じ部署なのだからと小夜香のことを聞きに来たのだった。

 その頃、小夜香はというと、着替えをしロッカールームから出て、展望フロアーへ行くためにエレベーターを待っていた。その時、小夜香のバッグの中でメールの着信音、サーカス・ファンファーレが鳴り出した。

 メールを開いて、彼女は複雑な顔をした。その顔には、『又なの? また私は……何だか、彼に振り回されて……しかし、仕方のないこと』と諦めの色とを織り交ぜたものだった。その有希のメールの内容はというと、新プロジェクトの仕事の進捗状況が思うように進めていなくて遅くなりそうだから、この前行ったサザン・ビート・アイランドへ先に行っていてくれないかとのことだった。サザン・ビート・アイランドとは、有希が勝手にカウンターに入ってカクテルを作ったあのお店だ。

 小夜香は、やっと上がって着て開いたエレベーターをやり過ごし、また下降のボタンを押した。

 そして、彼女が待つ二機ある内のもう片方のエレベーターが、チーンと静かなこのフロアーに鳴り響かせ、到着を知らせた。そのエレベーターに小夜香が乗ると、ドヤドヤと騒がしく四人の女の子たちが駆けて来て、乗り込んだ。

「アラ? 夏樹ちゃんに加奈子ちゃん、喜美恵ちゃん。それに恵梨ちゃんも、どうしたの? 何か、四人そろって急いで行くところでもあるの?」

 夏樹が、答えに困りながらも小夜香に返事をした。

「ウーン、そう今日は親父にお袋が家にいないから、腹を空かした可愛い弟の真樹のヤツのために早く帰ってメシを作ってやらないといけないから……」

「アッ! もう夏樹ちゃん、駄目よ。そんな男の人が使うような言葉を使っちゃあ……」

「アッ! ごめんなさい……つい」

 夏樹は、舌を出しながら小夜香に謝った。その彼女の後ろで、三人の女の子たちは口々に。

「そうそう、夏樹(先輩)みたいに男の人が使う言葉を、私たちみたいなレディが使っちゃぁ……ダメダメ、っと……」

 そう呟きながら熱心にメモを取っていた。

「アラッ、加奈子ちゃんたち、それは何か、お勉強? 何をお勉強しているの」

「アッ、これは……あのう……アッ、嫌、なんでもないです……はい」

「フーン、そうなの? 私も前は結構そんな風にメモを取っていたわ。小さい時から文字を書くのが好きで、つい何でも思いつくままその時感じたことを忘れないようにメモっていたわ。そして、独りの時間に思い返して詩に書き留めるの……すごく幸せな時間を過ごしている、って感じでいいわよ。それって、自分磨き、ってことだと思うわ」

「フーン、詩を書き留める……自分磨き……すごく幸せっと……アッ、そうそう、文字を書くのが好きっと」

 小夜香が、夏樹たち四人が熱心にメモる様子をいぶかしがって見ていると、四人の女の子たちはそれに気付いて。

「アッ、嫌え、こ、これは、私たちも文字を書くのが大好きでつい……ついなんですよ。は、もうほんと、字を書くのが好きで」

 と目の前で手を振り、彼女たちらしからずな返事で否定のジェスチャーをした。小夜香が『フーン、そうなの?』っと呆れたようにエレベーターの扉の方を向き階数を示すパネルに目を移すと、空かさず喜美恵が小夜香の肩口に顔を近付けクンクンと犬のように匂いを嗅いだ。

 それに、小夜香は気付き、後ろを振り向き何かを言おうとした時に、一階に着いたことを知らせるチャイムがチーンと鳴った。そのチャイムの音に四人の女の子たちは一斉に、『どうぞ、どうぞ』と両手で小夜香に笑顔で送る仕草をした。小夜香は、何がなんだか掴めないままに一階出口の方へと向かって行った。その後姿を見送りながら、目を喜美恵に集め言葉を待った。

「フウー、ヤベーヤベー、危なかった・・・小夜香先輩、やっぱり怒ってるかなあ?」

 喜美恵のその言葉に、夏樹が痺れを切らして。

「そうじゃあないだろう……喜美恵、お前が小夜香先輩は何か男を惹き付けるために特別な香水か化粧品、それじゃあなかったら黒魔術で魔法を、って言うから……だから、何か小夜香先輩は付けていたのかよう」

「アッ、そうだった! イイヤ、何も……なにも付けていない。いつもの小夜香先輩のやさしい匂いがした。唯、それだけ……」

「フーン、そうかぁ……だとすると、後は黒魔術ってことかぁ? だとしたら、それは結構暴くのがキツイぜ……あんたら。アッ! そうだった……それは、おキツイことですわ。貴女たち、オ・ホ・ホ・ホ……」

「なにそれ……変なヤツ」

 夏樹の言葉に、三人は声を揃えて言った。


 何処までも続く白い砂浜、ひいては反す波は真夏のような太陽は眩しくその光さえもキラキラとかえす。そんな映像を大型のスクリーンにプロジェクターが映し出している。

 そこはサザン・ビート・アイランド。小夜香は、そのお店のこの前来て腰掛けた時と同じ席、一階のカウンター奥の側のテーブルにいて、今日はテーブルの手元にはベリーズ&カシスのソーダがあった。

 今日は、金曜日ともあってこの店はもう活気に沸いているようだ。しかし、入り口に向き小夜香の腰掛ける右目線端の奥の席に、四人の此処には不似合いなサングラスにスカーフを頭から顎に結んだ昭和の頃の映画によくある女スパイを思わせる井手達の夏樹たちが、今かいまかと小夜香の待ち焦がれている筈の男の現れるのを待っていた。

 その小夜香は、有希が早く来てくれないかと、腕時計を見たり、携帯を眺めてはため息を吐くそんな仕草がより夏樹たちには、いよいよもう彼氏登場間近と感じさせたていた。

 そんな小夜香が、手持ち無沙汰に眺めるカウンター奥に置かれた様々なお酒のボトルが、色とりどりにそれぞれが煌びやかな輝きを彼女に投げ返していた。この前来た時の小夜香は未だ失意の中にいて、その輝きたちを迎え入れることは出来ないでいた。しかし、今の彼女は素直な気持ちでその煌びやかなものたちを綺麗だと思った。そして、手元のグラスに口を付け、ひとくち味わうごとに美味しいと思えた。

 何故か、彼女はこのお店のこの場所、この席がとても心を癒す……不思議と彼女は前にもこの場所で……といようなデ・ジャ・ヴュに近い懐かしいような感覚の中にいて心地好かった。

 此処のお店の中に掛かる音楽のナンバーも、小夜香には聞いたことなどないのに、何故か懐かしい想いに浸れ心安らぐ思いになる。

 今、店内に流れていた渋いジャズのスタンダード・ナンバーが余韻を残し終わり、次にかかった曲は興を一気に変え、古いポップス・ナンバーだった。その曲は小夜香の耳に聴いたことのある曲で、彼女は、曲のタイトルなど知らないが、流れているのはナンシー・シナトラの歌う”イチゴの片思い”という曲だった。

 それは、母がキッチンに立ち夕食を作る時によくハミングしたり口ずさんでいた歌だった。その懐かしい歌に、小夜香は知らずしらずに首を軽く振り曲のリズムに合わせていた。彼女の、そのさまを入り口の方のキャッシャーズ・カウンターにいた、歳は六十頃だろう黒の蝶ネクタイに黒のスーツを着た男の人が、遠く離れたところから不思議そうな眼差しで小夜香を見て、その眼差しのままに小夜香の許に近付いて来た。

 それに気付かず、小夜香は母の想いに浸ったままに、何故か口にしたことのない英語の歌詞を口ずさんでいた。その声を、蝶ネクタイの男は聴き、思わず小夜香に「し、志緒梨さん……」と声を掛けた。

 小夜香は、呼ばれた声の方に顔を向け、その男の人に何も言えず、ただ見つめた。

「……エッ? アッ! 失礼を致しました。私の勘違いでした。ご無礼をお許し・・・…」

 その男は、年甲斐もなく身を震わせていた。特別な思いがあるのか、びの言葉をべている途中から意を変えた。

「……お客様、貴女はもしかして……失礼なことを、重ねがさね言うご無礼をお許し下さい。あ、貴女はもしかして……もしや、菊川、菊川小夜香さんというお名前では……」

 小夜香の方も、何故か放心状態でわれ訊かれたことには応えられず、彼女の口から出た言葉は。

「あ、貴方はなぜ……何故、私の母の名を知っているのですか」

 蝶ネクタイの男は、待っていた答えではなかったが、その返って来た言葉に安堵の笑みを面に出し、小夜香の顔をやさしい眼差しで眺めた。

「お嬢さん、貴女はやはり佳孝よしたか君の……佳孝君と志緒梨さんの娘さんの……」

「ええ、私は、私の名前は菊川小夜香です。如何して、それを……貴方は私の父と母をご存知なんですか」

「はい……私は、貴女のご両親の菊川佳孝君、志緒梨さんをよく知っております。貴女のご両親は、よくこの店で時を過ごしていました。っと言うよりも、小夜香さん……申し訳ありませんが、この私に貴女を『小夜香ちゃん』と呼ばせて貰っても善いですか。私は、貴女が産まれたての頃、貴女のご両親の許、貴女、小夜香ちゃんを抱いたことがあるんですよ。もうその日が、ついこの前のことのように私は覚えています……でも、驚きました。あの、私の腕の中では泣いてばかりいたあの小夜香ちゃんが、こんなにお綺麗になられて……アッ! 私が驚いたのは、そのお綺麗なお顔だけではなく。小夜香ちゃんのお顔が、お亡くなりになったお母様の志緒梨さんのお顔そのままに生き写しで、声なども……それに、先程掛かっていた苺の片思いを口ずさんでリズムをとる仕草などは……本当に、驚きました。私は、まさか志緒梨さんが未だご存命で此処に来られたのかと思いました。アッ! 申し遅れました。私の名前は、具志堅ぐしけん、具志堅重雄しげおといいます。佳孝君、嫌え、小夜香ちゃんのお父さんより少しだけ年上ですが、貴女のお父さんを心の中では尊敬する、よく言えば親友だと私は思っている者です」

「アッ! でしたら……もし、そういうことでしたら、私の母のことを……若かった頃の母のことを貴方はご存知なんですか」

「ええ、それは、勿論です。小夜香ちゃんのお母さん、志緒梨さんは、いつも決まって今貴女が座っておられるその椅子に腰掛けて、このテーブルの隣にあったステージで若かったお父さんはその当時天才ピアニストと持てはやされていて、その演奏する彼を志緒梨さんはその椅子で見ておりましたよ。アッ! その時、私はベースをしておりましたよ……ベースを弾きながら、志緒梨さんが見つめる佳孝君を羨ましく見ておりました」

「エッ! 父がピアノを? アッ! そうだ、私が小さい頃、お父さんは殆ど単身赴任で家には居なくて、私の誕生日の日だけは家に居て、私にプレゼントと小さかった私が好きだったディズニィー映画の曲なんかを、うちあったピアノで弾いていた。私は、その時だけ……その時間だけ、お父さんに甘えることが出来た……」

「うんうん、分かっていますよ……そのことは、私もお父さんに聞いて知っていますから……お父さんは、今も月に一度はこの店に来るんですよ。それはそうと、もう少し小夜香ちゃんとお話がしていたので、この椅子に座っても善いかな? うん、ありがとう。アッ! そうだ、小夜香ちゃん……貴女もお母さんが好きだったカクテルを飲んでみたいでしょう? うん、それじゃあ、おじさんがその当時を思い出して作って来るから待っていてね」

 そう言い、このお店のオーナーの具志堅は席を立ちカウンターへ離れて行き、途中で従業員に何やら耳打ちたのちカクテル作りに入った。

 一方、その小夜香と具志堅のやり取りを見ていた夏樹たちは驚きの表情をして、二人の声や会話は聴こえないが明かにふたりの仲を疑っていた。

 「オイ、どうする。嫌なもの見てしまったなぁ。まさか、あんなじっちゃんと……小夜香先輩は、何を考えているんだ」

 「……ウーン、そうじゃあないと思うな。小夜香先輩って、見た目は純真無垢って感じでいるけど、考えてみてご覧? 仕事に措いて、なに一つ卒がなく何でも顔色ひとつ変えずにやりこなす……ってことは? 何でもあの先輩は、目の先のことだけはなく。その先の先までも打算的に物事を踏まえての行動なんだと思う。どうかな? 一同、この私の考えは……」

 加奈子が、ヒソヒソ話す中、自慢の胸を大きく張って言ったが、それには不満だと恵梨が反論した。

「加奈子先輩……アッ! ごめんなさい。I・K、んーと、ミス・レッドローズでしたっけ? 私は、小夜香先輩はそんなひとではないと思います。何故なら、私が入社したての頃、私がお財布を家に忘れてきてお昼も食べれないと困っていたのを、小夜香先輩は気付いて声を掛けてくれて、私にこれで足りるかしらって千円札を貸してくれて……そうしたら、ウ・ウ・ウ……後は、喜美恵先輩に……アッ! ごめんなさい。K・K、えーと、ミス・H、Hでよかったですよね……ええ、そのH先輩に聞いて下さい」

 この暗号めいたコード名称は、この店に入る前に夏樹が決めたことで、加奈子がI・Kで、それは色っぽいの頭文字のIと名前のKで、その後のミス・ローズは私に似合う花だからと決め。喜美恵が、感のいい喜美恵、K・Kにコードネームが貴方のお傍にさり気無く慎ましくいる雛罌粟ひなげしの花だった。そして恵梨は、新米のSと名のRを採ってS・Rに、可哀そうなのが存在感がまったくないからとカスミソウと夏樹が勝手に決め、ミス・Kとしたが、夏樹は加奈子と喜美恵の二人が付けてやった。そのコードネームは、A・Nで続きはミス・Sだが、その内訳はアクティヴ・ナツキに向日葵サンフラワーのSだった。

「アッ、そうそう、そうだった……私が、以前付き合っていた彼とデートの約束をして公園の前で、その彼を待っていたら、目の前を通ったのよ。雨の中、傘を差し歩いている小夜香先輩を……そして、声を掛けるとね。その小夜香先輩が言うのには、『うっかり家にお財布を忘れちゃって電車賃なかった』って……それでね、私が貸して上げましょうか、って聞くとね。『ウウーン、ありがとう。でも、もう一つ先の駅が私の家だから善いのよ』って……それを、次の日に恵梨ちゃんから聞いて泣いちゃった……ウ・ウ・ウ……だから、小夜香先輩はそんな、そんなよこそまなことなんか出来るひとじゃあないわ。ウ・ウ・ウ……」

 恵梨と同様に声を押し殺して泣くのを我慢しているのを、夏樹がその彼女の肩を叩いて。

「うんうん、喜美恵、分かったから、今は泣くな……こんなアチキだって、ウ・ウ・ウ……小夜香先輩には、数え切れないほどに世話になっていて、昨日だって……昨日だって、ウ・ウ・ウ・馬鹿野郎……この加奈子の大馬鹿野郎。なんてこと、言うんだ……アッ! ごめん。ミス・ローズだったけ?」

「なに言ってんのよ……私だって、私だって沢山、たくさん小夜香先輩には・・・ウ・ウ・ウ……小夜香先輩、ごめんなさい・・・私、私ったら心にもないことを言って仕舞ったわ。ク・ク・ク・・・ウエーン」

 加奈子は、テーブルに両手をつき顔を隠し泣いた。

 そこへ、従業員が四人の少なくなったグラスを見て「何かオーダーはありますか?」っと、声を掛けてきた。

 その声に、加奈子は顔を上げて言った。

「こんないけない私を救ってくれる何か有難い聖書を、私に……どうか、迷えるとても可愛い子羊に……」

 加奈子は、声を掛けたボーイに目をやると。

「アッ! こんないけない私を、どうか貴方の手で滅茶苦茶にして……」

「アアー、加奈子、じゃあなかった……えーと、何だけ。もうなんでもいい……ずるい。私たちだって……ねえ、お願い。迷える子羊たちに何かお救いの貴方のやさしい手を……」

「はい、分かりました。では、今の貴女たちに相応ふさわしい、当店オリジナルの”スイート・ホワイト・エンジェル”というカクテルをお持ちしましょう……ね!?」

 流石に彼の方が、一枚上手うわてのようだった。


 小夜香の父の親友だという具志堅と名のる男の人が、小夜香のテーブルに戻って来た。

「はい、これが貴女のお母さんの志緒梨さんがとても好きだったカクテルの”キュート・マドンナ”というヤツだよ。これはね、私が初めて志緒梨さんの口から好きと言わしめたヤツで、私の一番の自慢のヤツさ」

 具志堅は、冗談交じりにそう言うと、笑っていた顔を何処か遠くを見る目で、まさに今心にあるものを言うまいか、と思案の表情が浮かぶ。彼は、小夜香の心配そうに見つめる視線に気付き。

「アッ! 小夜香ちゃん、ごめんね。これから私が、常にある心の中のことを小夜香ちゃん、貴女には是非とも聞いて欲しいんだけれど、善いかな? 

うん、ありがとう。先ずは、私の自慢のこのカクテルを飲んでくれないかな」

 小夜香は頷き、グラスを口元に運んで香りと苺のフレーバーを強く感じさせる味を楽しむように飲んで、彼女は言うともなしに思わず口から「美味しい」と言葉が吐いて出た。

「小夜香ちゃん、お口に合ったようだね。善かった……その上、小夜香ちゃんは何からなにまでお母さんの志緒梨さんに生き写しだね。その美味しいと言う感じや仕草まで、本当によく似ている」

 小夜香の目の前の具志堅は、今はにこやかな表情で彼女を見ている。

「具志堅さん、私のお母さんはこのカクテルが好きだったんですね。私も、このお酒の味がとても気に入りました。ありがとうございます。私に、大好きだったお母さんのお気に入りを教えて頂き、ありがとうございました」

「うんうん、やっぱり小夜香ちゃんはお母さんが大好きなんだね。ところで、貴女のお父さん、佳孝君のことは如何なんだね。やはり……」

 具志堅は、言葉の途中から口ごもり、何やら言い辛そうだった。それは、彼の心の中に常にあることと関連してのことなのだろう。そんな彼の気持ちを察してなのか、小夜香の方もうつむいてしまった。

「小夜香ちゃん……小夜香ちゃんは、余り話したくはないだろう、そのお父さんのことなのだけれど……唯、これだけは小夜香ちゃん、知っていて欲しいことがあるんだ。アッ! そうそう、私としたことが……忘れていたよ。貴女のために、小夜香ちゃんに是非見て貰いたいものがあって、今準備をしていたんだった」

 具志堅は、ライターに火を点し胸元の方で軽く円を何度か描き、カウンターの中の者が見ているのを確認して、更に片手を挙げて指をパチンと鳴らした。

「小夜香ちゃん、これから流れる映像を見て欲しいんだけど、先程の話の続きはその映像を見てからにしようね」

 具志堅が、彼女にそのことを言い終わらない内に店内の大型スクリーンは、若干劣化した映像を映し出した。

 その映像は、この店で撮られたものだろう。この店はその当時と変わらない壁を背景に、唯その場所は小夜香が今居るテーブルの側のテーブルが幾つかなく、そこにちょっとしたスペースを作り若いカルヶットのジャズ演奏者が、楽器の演奏前の準備をしている風景が流れていたが、ピアノの方に目を向けた小夜香が思わず具志堅に目を向けると、彼は笑ってただうんうんと頷いて、更に指でスクリーンに目を向けさせた。

 彼の指は、若いピアニストの方に向いていたが、その指はピアニストから離れ、更にステージさえも越えて行き、今小夜香たちが腰掛けるテーブルへと向いているはずだったが、そこはスクリーンからはみ出て見えなかった。

「小夜香ちゃん見てくれないだろうか、あのウッドベースを抱えているのが、若い頃の私だよ。それに……もう言わなくても分かるだろうね。そう貴女のお父さんの佳孝君だよ。これからいよいよ、やるよ……演奏の始まりだよ。それには、私たちの大事な儀式セレモニーがあるんだよ……そらそら、始まるよ」

 映像を撮っていたカメラも準備を終えたのか、最初の頃に比べピントが合って来たのか画像も鮮明に見えてきた。そして、そのカメラがズームインをして若いピアニストの顔をとらえた。その顔は、小夜香も見たこともない若き日の彼女の父の顔だった。その父の顔は、未だあどけない若さが面にあり。その顔が、ピアノのA音をなんどか叩きながら目をるところにやり続けていた。父の側にいるベースを抱えた若き具志堅も同じ処に目線を送っている。そこは、ステージ側のこのテーブルだった。

 カメラもそこにレンズを向けて行くと、そこに居たのは小夜香だ……嫌、小夜香、彼女の若き日のお母さんの志緒梨の姿だった。スクリーンに映る彼女が、右手ひとさし指でステージのプレーヤーたちに上下に振ってカウントをり、それに合わせて演奏が始まった。

 曲は、軽やかにスイングして小夜香には聴きなれた”オール・オブ・ミー”だった。

 プレイヤーたちの編成はドラムが華やかにシンバルでリズムを作り、具志堅のウッドベースがリズムに負けじとラウンド気味のリズムを刻み合わせ、それに追い被るように小夜香の未だ若き父が、コードを軽やかにバッキングして小節の隙間すきまに細かいアドリブを入れていた。それは、メインのテナーサックスをフィーチャーするためのものだが、しかし具志堅が、言っていたようにその当時天才だと持て囃されただけのものは、その一曲を聴いただけでもその片鱗はうかがい知れる。

 小夜香の見る、その若きしの父の顔はスクリーンの中で生き活きと躍動感溢れる演奏に、時折、志緒梨に見せる笑顔は特別の輝きを放ち光っていた。

 スクリーンに釘付けの小夜香同様に、同じスクリーンに目をやる八つの目があった。

 夏樹たちだが、彼女たちはその映像をまさかと食い入るように邪魔なカムフラージュ用のサングラスを鼻先にずらし見ている。夏樹が、傍に居る加奈子にスクリーンから目が離せないままにぽつりと言った。

「おいおい、見ているかぁー……あれは間違いなく小夜香先輩だよなあ。いつの間に、あんなピアノを弾けるイケメンなんかを……って、あれって、このお店だよなあ。だとしたら、今話しているのはあのイケメンの親父で、これからその彼が此処に来るのかなぁ……」

 加奈子も、スクリーンから目が離せずに返事をした。

「うんうん、そう言うことだと思う……それにしても、いいい男だよなあ。なんか……ピアノを弾く姿は繊細で、ナイーブっていうか、それだけでなくなんか男らしいって言うか、力強くて、あのスクリーンに映る小夜香先輩とはめっちゃお似合いって感じで……めっちゃ悔しい、って言うか、羨ましいって感じ……」

「うんうん、加奈子、アチキにも分かるぞ。その気持ち……嫉妬じゃあないんだよなぁ……なんて言うか、その……なんせ、あのふたりはもう誰もその隙間に入り込めない感じで、アチキたちもあんな風にあのイケメンのような彼氏に見つめられたいって感じだろう?」

「うん……そんな感じ」

「ねえねえ、ちょっと待って……いつからなの? あの晩生おくての小夜香先輩が、いつの間にあんな素敵な彼氏とあんな風に……だって、小夜香先輩はついこの間までいけ好かない玲子の野郎に彼氏を乗っ取られ傷心中だった筈なのに。ねえ、おかしいと思わない?」

 夏樹と加奈子の呟きに、喜美恵が口を挿んできた。

「うんうん、そうねえ……それもおかしいわねえ。でも、あんなダサい男の京平なんかに比べたら、こっちの方が断然私好みって感じ……」

「おいおい、加奈子、ダサい京平って、お前この前までアイツを見る度に変な色目なんか使っていたじゃあないか。それがなんで、手のひらを返したようなものの言いようになって……」

「ンッ! それはね。京平のヤツが小夜香先輩と付き合っていた頃は、アイツも好い感じだったのに、玲子の野郎と付き合い始めてもうダサダサで、見るのも嫌になっちゃった」

「嗚呼、そうだろうなあ……多分、それは玲子の野郎が下げマンってことなんだろうなぁ。このまま行くと、京平の野郎、可哀そうにウチの課長のように尻に敷かれて、もう将来も見えてきて嫌になちゃうなぁ。その点、ウチの課長の場合、それが幸せなんだろうけど……」

「エッ? 夏樹先輩、それってなんですか……その、ウチの課長の場合、それが幸せって」

「ンッ、恵梨、お前は知らないのか、ウチの課長がどMってことを……アイツ、日頃はアチキたちに、あれをしなさいとかこれをしなさいって、偉そうに言ってんだけど、偶にアイツをいじめてやると、アイツ目に涙なんか溜めてもっといじめって、って喜ぶんだぜ」

「へえ、知らなかった……そうなんですか? なんだか、私、月曜日に出社して課長の顔を見るのが恐いです」 「こらこら、夏樹、恵梨をからかうのも程々にしておかないと……アッ! でもね。恵梨ちゃん、ウチの課長は、どっではないけれど、Mなのは確かよ。だから、恵梨ちゃんも気を付けてね……これから、偶に課長と二人きりなった時、恵梨ちゃんの後ろから課長が手にロープを持ってくるから……これで、これで僕を縛ってって……なんちゃって、エヘへへ」

「アアーン、もう嫌だ……もう課長の顔も見たくない。私、もう会社にも行きたくない」

 「こらこら、加奈子、お前こそいい加減にしろよ。恵梨ちゃん、嘘だよ……嘘、うそだから、アチキたちが言っていたことはぜんぶ嘘……だから、心配しないで課長の悪いところは、いつも自分の思っていることをなんか知らんけど、声に出してアチキたちを意味の分からんことに惑わすってことぐらいかな。アッ! そう言えば、この前の朝なんか『しばられる、しばられるー』って身を震わせて出社して来たんだったっけかなあ」

「嗚呼、もう嫌だ……もう何も聞きたくない。私、もう会社なんかヤダ」

 恵梨はそう言い、テーブルに顔をうつ伏せ両腕で耳を塞ぐように頭を隠した。その傍で、夏樹が加奈子にぼそっと言った。

 「本当だよ……あの悟られ、アイツが、しばられる、しばられるー。今日は本当にしばられる……ンッ? 嫌、確か、あれは『しばれるねえ……』だったかな。ウーン、なんのこっちゃあ……まあ善いか。アハハハ……」









  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る