第4話 マイ リトル ワールド



 小夜香は、昨日の朝より一時間も早い出勤の途中にいた。

 今日も、冷たい北風が頬を撫で刺激するが、今の彼女にとっては、何かこれからの私は生まれ変わり楽しい。昨夜、有希が言ってくれたスペシャル・スイート・ライフタイム、私のばら色の人生が始まったんだ、という思いに、今朝の冷たい北風は火照った頬には、心地が好いようだ。

 なにより、彼女をその思いにさせるのは、彼女の眼に入る昨日までのモノトーンの世界は一変し、今は視慣れた街の風景は色鮮やかなものとなり、キラキラと輝き彼女の目を楽しめさせていた。

 それに彼女は、桐生京平と別れて以来、数年ぶりに朝食を取った。今朝目覚めた彼女は、今まで感じたことのない程の空腹感を覚え、久々にお昼のお弁当を作りながら、朝食にカリカリのベーコンにサニーサイドアップとインスタントのカップのポタージュ・スープを添えて、ご飯と食べた。

 今迄の彼女なら、そのスープは夕食時にそれだけで済ますものが、今朝はメインディッシュの供とした。それだけに、彼女は胃にもたれないかと心配したが、それは唯の取り越し苦労で、彼女自身の代謝が今までになく活発となり食欲を欲しているのか、そのおかげで彼女は目の前のモノをテキパキとやりこなしたいという意欲にも火が付き、会社に向かう足も軽く爽快だ。

 その中、目に留まった花屋にも立ち寄り、様々な色彩を放つ花々を愛でる余裕さえ生まれ、彼女は生きている実感というものを謳歌している。その店を出る時に、彼女の手には沢山の花束を抱えていた。

 小夜香の勤める会社の大きな玄関前にある階段はとても広く大きく、表の通りから一階建程の高さがあって、そこに繋ぐ階段が、更に目の先にある玄関を重厚な佇まいに見せ、そこへ訪れる人には多少の威圧感と、そこに勤める人には何かしらの気概を持たせる感がある。

 彼女が、その階段の前に着くと、玄関の扉の側、柱に夢野有希がいて、両手を胸元で組み足を互いにクロス気味に柱に背を預け立っていて、小夜香に気付き、右手の親指を彼女に向け”ハヴァ・ナイス・デイ”と合図を送ってきた。小夜香には、遠くの彼の声は聴こえなかったが、彼の言葉は意思として彼女の心に届いた。

 有希は、その合図と共に彼女に背を向け、玄関の扉を出勤時の人々に紛れ中へと消えて行った。

 その彼を追うように、小夜香は一気に階段を駆け登り、彼女も扉を抜けて一階の広いフロアーを眺め回し有希の姿を捜すが、その姿は結局彼女には見付けきれなかった。

 呆然とその場に立ちすくむ彼女の携帯に、メールが届いたことを知らせる着メロがバイブと共にコートのポケットの中で振動した。開くと。

 件名〔小夜香さン、オハヨー!!〕

 本文〔ごめンネ。これから新しいプロジェクトのミーティングで、君とお話しする時間がなくて。

 今日、十三時に、この前の展望室に来てネ!……待ってるヨ!?〕

 とあり。それに眼を通した小夜香は、『有希さん、お仕事か?……お仕事なら、仕方ないわね』と呟いた。


 小夜香は、彼女の職場である総務課の全部の机を、一つひとつきれいに拭き取っていた。その顔には、薄っすらと汗が浮ぶが、それにも構わず夢中となっているようだ。

 それは、彼女が小さい頃から母に『貴女は、とても良い子。だから、良い子には善いことがあって、しかし、先に善い行いをしていなければいけないのよ』これは、お母さんと小夜香ちゃんの秘密のお話だけど『良い子の周りにはいつも天使さんがついていて善いことをすれば、天国の神様にそのことを伝えて、神様はご褒美にその子の願いを叶えてくれるの! だから、小夜香ちゃんもいつも可愛く綺麗でいたいのなら、周りの人たちのために何かしてあげると、きっとたくさん善いことがある筈だからね』っということを、小夜香は耳にして育ったのである。

 みんなが顔を出す前に、小夜香は手際よく今度は、この部屋では十名の女の子と課長の田山の机があって、その机の上に給湯室から人数分の一輪挿しの花瓶を取ってきて、それぞれのに合った色の花を挿して置いた。

「これで善しっと……後は、みんなが来るまでにお湯を沸かしておかないといけないかな?」

 そんな、彼女の肩をぽんと叩く手があった。

 小夜香が、吃驚して後ろを振り返ると、そこには課長の田山がいた。

 田山は、ニコニコとしてただ立っていたが、その笑顔につられて小夜香も笑い挨拶をした。

「か、課長……びっくりしたじゃあないですかあ。もう、心臓が止まるとかと思ったじゃあないですかぁ。もう、驚かさないで下さいね……アッ! 課長、おはようございます」

「アッ、小夜香君、おはよう。ウーン、やっぱり好いねえ……小夜香君のその笑っている顔、久々に見た感じがするけど、やっぱり小夜香君の笑顔がこの社では一番だな……」

 っと、そこへ三名の女の子たちが入って来て。

「嗚呼、課長がまた小夜香先輩にセクハラ紛いなことで、何かやらしいことを考えてるぅ。小夜香先輩、課長に何を言われていたんですか?」

 「嫌え、千夏ちゃん、私はなにも課長には……なにも」

 千夏という、女の子は小夜香に近付いて来て、耳元で。

「先輩、分かっていますよ。悟られ、アッ! 嫌え、ごめんなさい。田山課長の家は、凄い恐妻家らしいですから、唯ちょっと課長をからかっただけですから。先輩は、心配しないでいいですよ」

 と、普段から上司である課長に対してあだ名である”悟られ”と言う言葉に、目で注意をした小夜香にチロッと舌を見せて、含み笑いをしてみせたが、後ろで一緒に来た女の子が驚きの声を上げた。

「嗚呼ー、ウソー、ほんとー? ねえねえ、見てー。私の机の上に花が、それも今日、テレビの占いでラッキーカラーがオレンジだって……ねえねえ、見てみてー。これって、やっぱりどう見てもオレンジだよねえ」

 他の子も、自分の机の花を見て。

「嗚呼ー、私のもある。私のは、真っ赤だわ。如何にも私のイメージって感じでグッドな感じ」

 小夜香の側にいた千夏が、自分の机に駆け寄りぼやいた。

「嗚呼ー、なんでー……何で、先輩、私のは黄色なんですかぁ。なんかー、イメージだと私も情熱の赤って感じなんだけどなあ……」

「千夏、貴女は黄色で合ってると私は思うなぁ。だって、千夏は悪戯好きでお転婆なんだから、まあ、いいように言ってアクティブなカラーって思えば善いんじゃあないのぉ」

「じゃ、じゃあ、悪く言えば何なのよう……」

「ウーン、そうねえ、アッ! そうだ。危険の危の危色かな……なんてね! ウフ!?」

「嗚呼ー、加奈子、言ったなー……言っちゃったなー。ウーン、お前なんか、オッ!? ちょっとまてよ。面白いこと、考えちゃった」

 そう言うと千夏は、自分の黄色い花を手に、一番奥の机の真っ赤な花と入れ替え、また自分の机の上の花瓶に差し入れた。周りにいた者は皆、口を揃えたかのように。

「ち、千夏ちゃん、何をしているの?。

貴女は、どうなるのか知ってやってることなの?」

 気が付けば始業時間前で、殆んどこの課の女の子たちがほぼ揃っていて、ことの成り行きをどういうものになるかを感じ取り、注意をした。その中に、課長のことなかれ主義の田山は特に心配そうに眉をしかめ、もの言いたげに口を大きく開けたまま唯”あわわ、あわわ……”と、震えている。

 田山の傍にいた小夜香が。

「千夏ちゃん、これ……まだ花は沢山あるのよ。お願いだから、千夏ちゃんの好きな花を選んで……千夏ちゃん、その花は元の席に、ね?」

 その時だった。この部屋の入口から、この場の噂のその席の持ち主が現れたようだ。

「ワッツ・ハプン? 何を、朝から騒がしいの? 何か楽しいことでも……アラ! 今日は机の上にお花が、カラフルで善いわね」

 そう言い、自分の机に目をやったが、怒りなのかワナワナとその場に立ちすくみ仁王立ちとなった。声が止まり数秒もの沈黙がこの場に流れ、誰もが固唾かたずを呑んで凍り付いたかのように、そして彼女に目を合わさないようにしながらも、その動向を見守った。

「お、お早う、愛さん……あ、あの花は、違うのよ。あの花は、違っていて……だから、この花の中から貴女の好きなものを選んで……」

 小夜香が、この場を静めようと、生島玲子に声を掛けたが、その言葉には耳をかさず、渦中の席にツカツカと真っ直ぐに向かい、その花を間近に視た。そして、部屋の奥にいる彼女は振り向きざまに声を荒げて言い放った。

「ガッデム……ガッデミ……ツ。なんなの、何が目的? これは、貴女が私への報復ってこと? よりによって、これはなんの意味? 嗚呼、そう……私は危険な女? デンジャラス? 如何にも、この私はキラービー。『お前なんか、デンジャラスだからいつも雀蜂と同じような、危険なカラーを付けとけば善いわ』って言うこと? このことは、このことは……課長、貴方も覚えてらっしゃい。このことは、ダディーに言って、社長に如何にかして貰うわ。覚えてらっしゃい、この忌々いまいましいガッデミッツな女たち……特に、小夜香、お前は許さないから。覚えとくといいわ。この能面女……フンッ!」

 生島玲子はそう言うと、出口に向かう途中の延長線の女の子、三人の肩を突付き掃いながら高いヒールの音を残し去って行った。その彼女の後姿を呆然と見送った課長の田山は、誰に言う訳でもなく漏れた言葉が。

「又だ、また専務に呼ばれる……」

 田山は、周りの沈黙と視線に気付き我に返ったのか、言葉を伝えた。周りに聞こえるようにと、今度は大きく言い放った。

 「さあ、仕事、お仕事……何があろうと、この課にはやらねばならないお仕事がいっぱい溜まっているからね。小夜香君、君は大丈夫だ。君は何も悪いことはしていないんだから。ねっ!」

 田山は、その言葉と共にこの騒ぎを起こしてしまった張本人の千夏の顔を視た。その顔には、いつもの元気な色はなく唇を噛み、手にはハンカチを揉むようにクシャクシャとして、自分の些細ささいな悪戯のせいでこんなにも大きなことに、と後悔の色を濃く出しているように見得る。

「アッ! 千夏君……君も心配しないで善いからね。何も、こんな花ひとつで、目くじらを立てるなんて、修行が足りないよ。修行が……そんなんだったら、尼寺に行け! ってんだよ。だから、千夏君、心配しないでお仕事をちゃんとしようね。みんなも心配しないで、お仕事、お仕事をちゃんとしようね……お仕事は、今日もいっぱい溜まっているんだよ。アッ! 小夜香君、昨日の今日で済まないが、今日も社長のスピーチ原稿の直し、午後一時迄にってお願いされているんだよ。本当に君には済まないが、お願い。よろしくね……ねっ!」

 田山は、小夜香に向い拝むように手を合わせて、彼女が頷くのを確認し自分の席へと戻り、仕事の仕度をし始めて、小夜香の挿してくれた白い花を視て顔が綻んだが、花を擬視してポツリとぼやきに似たため息を吐いた。

「白い花? 私に白い花って、小夜香君は私のことを色も着かない……と云うか、色気もない唯の中年のおじさんってこと? ウーン、そうだったら、おじさんは悲しい……嫌々、小夜香君に限って、彼女は違う。この課の他の女の子には、そういう風に云われても別に構わないが、内面も外面も私のマドンナ象として見得る彼女が、こんなくだらないおじさんのような私にも日頃から優しいのだから、こんな嫌味なことは……ウン! する筈がない、はずだ。ウッ! もしかして、これは・・・彼女からの密かな熱いラブ・メッセージで、私のことを『貴方の純真で真っ白な心を私が真っ赤な情熱な色に染めて上げるわ』なんて、なんて言われちゃったらどうしよう。ウーン、どうしよう……私には、妻子があって、このことを妻の佐知代さちよが知ったら……ブルブル、それは嫌憾いかん、それはいかんことだ……でも、小夜香君の紛れもない純真な想いで、この私にこの花を……くれたっと云うの為らば……ウン、私は・・・嫌、このぼ、僕は、迷いなく、小夜香、君の許に行くよ。もう愛情も無くなった佐知代とはおさらばだ。なんせ、妻の佐知代といえば、何処かの独裁国の恐怖政治の如く僕の環境をがんじがらめにおどしと暴力で支配しやがって、だから僕は、小夜香と云うこの僕を愛と言う天国へ誘ってくてる女神の許へと迷いもなく行くだろう。嫌、僕は行く……」

 そんな思考も、顔にあられもなく手振り身振りでふけっている課長の田山に、千夏が小夜香の席に近付き、小夜香の机に顔を乗せ、ニタリ顔で仕事に取り掛かっていた小夜香にアレを見るようにと親指で田山を指差し、声を押し殺して、からかってきた。

「ねえねえ、小夜香先輩、アレ見て、また始まったよ……先輩が、課長の机にも花を上げるもんだから、また課長の妄想が始まったよ。もう、一番のお気に入りの小夜香先輩からの贈りもんだから、アイツ、悟られは、アッ! ごめんなさい。 もう、何年ぶりだろうこんな幸せそうな課長の悦に入って妄想しているのを見るのは……クスクス、ウッ! やっぱ、気色悪る」

「駄目よ。千夏ちゃん、そんな風に言うのは……誰にも癖はあるわ。課長にだってちょっとした癖はあるわ。だから、ここは笑いたくなっても、堪えて、我慢をして課長を見ない振りして上げて、ねっ!」

「嗚呼、分かりました。もう、本当に小夜香先輩は誰にも優しいこの社で一番の聖母マドンナなんだから……玲子さんなんか、尼寺に行くより小夜香先輩の爪の垢でも煎じて飲めばいいのに……」

「千夏ちゃん、駄目よ。そんな、千夏ちゃんの心にもない筈の思い上がったことを言うなんて」

「ハーイ、分かりました。嗚呼、まるで此処、総務部って修道院みたい。だから、小夜香先輩ってみんなから菊川ガラシャって言われるだよ。ン!?……ごめんなさい」

 千夏は、そう言うと肩を落とし自分の席に向かった。

 その時、田山が机の上の花に夢中に妄想に耽っていたその時、花瓶の側の電話機のベル音が、田山の妄想イリュージョン・ワールドを破った。

 思わず彼は。

 「なんだ、この仕事中に電話なんか鳴りやがって。ホントに仕事中に鳴りやがって不謹慎なヤツだ。誰だ、この……」

・・・ガチャ(受話器を取った音)。

「アッ! エッ? しゃっ、社長!?……アッ、アワ・アワ・アッ・アッ・アワアワ……アッ、はい、社長、分かりました。はい、只今、直ぐ……はい、今直ぐに参ります……はい」

 電話を切って田山は、脱力感と共に椅子に肩を落とし、首をはすじりながらボソッとぼやいた。

 「も、もうかよ……もうヤツは、親に告げ口し、親はもうその足で社長に……なんだろうねえ。この理不尽なこの世界は……嗚呼、無情の渡世。嗚呼、ヤダヤダ、こんな世界……」

 田山は、項垂うなだれたまま孤独な世界を数秒悲愴な妄想に耽っていたが、我に返り。

「嫌憾、いかん・・・社長が待っておられるんだ。行かねば、社長の貴重なお時間を、私如きの者のために無駄にされては……」

 そう念仏のように唱え、呟きながら席を立ちフラフラとこの課の出口を出て行った。それを、この課の全員は日頃は馬鹿にしていながらも、田山の辛い思いを吾のことのような想いで、出て行く田山を見送った。


 午後一時になり、小夜香はエレベーターで二十階へ行くと、もう有希は展望フロアーに先に来ていて、彼女が近付くのを見て、今朝と同じポーズで声を掛けてきた。

 「ウーン、その顔だと小夜香さんは、順調に元の君に戻ってきているみたいだね。しかし、その顔には、少しの困惑? 君の周りではちょっとした困ったことが起きている。って感じかな? でもね。それでいいんだよ……その方が、人間らしくて、今を生きているって感じで……僕の好きなアーティストで、杉真理って歌手がいるんだけど。その彼の曲、”My Little World”って云うのがあって……その歌詞の中に、『ちょうど林檎をかじる様に一日を生きてごらん。少し切ないその芯を残して……』って云うフレーズがあって……小夜香さん、君は如何思う? この世って、なんか割り切れないよね? 理不尽なこともたくさんあって、それが証拠にこの世は善人だけなら此処も天国なのに、悲しいかなこの世は極少数の悪人がいて、少ないくせに堂々と闊歩かっぽしている。そんな感じ、しない? だから、ウーン、つまり僕が言いたいのは、ちょっとした不安なんてその時はすごく大事なんだろうけど、でも過ぎてしまえば何でもないことだったりして、逆にその時はハプニングだったのがサプライズになったりしてね。その上、後で思い返してみれば、なんか笑えたり、なんかほっこりしたり……なんてこと、小夜香さんはない?」

「ウーン、また有希さん、逢う度、難解なパズルめいたことを言うんだか……その度に私は、毎回その散ばった言葉達を組み合わせさせられて……ウウーン、それでもやっぱり常にそうなのかなあ? って感じになって悩むんだからねっ! でも、その内容も少しかもしれないけど、解かる感じがする。私なりに整理して言えば、こういうこと? 有希さんが云いたいことは、自分の身に起ったハプニングは落ち着いて視れば、それ程のものではないってこと?。 ウーン、つまりこの世は、善いことを大切にするために、日々つまらない日を送り……ウーン、私もなんかまとまんなくなっちゃった。エーっと、アッ! そうだ。ウチの課長が、お昼のお弁当に、中身のことで私たち、女子社員によく言うことがあるんだけど……それがね。『僕は、偶にはステーキを食べたいけど、でもね。毎日ステーキを食べていると飽きるよね。だから、私は愛する妻の作った海苔と御新香のお弁当を食べるんだよ……トホホホ』ですかね?」

「ウン、そう! そう云うこと! でも、トホホホのとこは要らないんだけど……でも、まあそう、僕が云いたいことはそう云うことかなっ! っで、どうだったの? 小夜香さんが胸に抱えていた問題は、その顔では一様は解決したけど、しかし未だ若干の後味の悪い感の、ウーン、消化不良って感じかなあ?」

「エッ! そんなことまで私の顔に出ています? やっぱり、有希さんって凄いんですね。そうなんです。今朝、私たちの課で……」

 小夜香は、朝起きた出来事を端的に彼に話して聞かせた。

「それでね。物凄く暗い顔で出て行った課長が、三十分程して戻って来た時には何故かニコニコして、それはもう上機嫌で私たちに『みんなもこれからも変らず楽しくお仕事をいていきましょうね』って言って、更に私に『小夜香君、これからもこの社の美化に協力をしてやってくれないか。今日の朝みたいに、この課のみんなに花をあげるなんて……だから私は、この課のおさとしての権限で、これからは君が今日のことのようなおこないをしてくれたことにそれなりの対価を支給して上げるからね。だから、これからは無駄に買い物をしないで、領収書をちゃんと貰ってきて、私にそれを見せなさい……善いね』って、言ってくれたんだけど……有希さん、解かる? どうしてなのかしら」

「ウッ、ウーン、ど、如何してなんだろうね。多分、課長は社長に、日頃から頑張っているみんなにもっと快い環境で働いて貰いたいと思っていてのことだと、僕は思うよ。それに、小夜香さん、君は多分、生島玲子の今後の動向が気になるんだろうね。しかし、それには及ばないよ。彼女も、自分のパパが出来ないことまで、それ以上のことは出来ないだろうからね」

「そうなのかしら、ウウーン、有希さん、違うの……私が、気になっているのは、玲子さんが今朝のことで傷付いていないのかが心配で……」

「そうだね。彼女みたいに攻撃的性格のタイプの人の場合、内に溜めて置くことなんて出来ないだろうね。溜めたとして、それが膨らんで来ていずれ彼女自身の中で大爆発をするって云うのは、目に見得ているね。小夜香さん、それも善いんじゃあないかなあ……だって、彼女にはこれまでそういう我慢をすると云うことを学んで来なかったっということが問題であって、今回それは彼女にとってよい学びの機会だから、それについて君はただ優しく見護るだけで、それ以上のことは彼女の学ぶべきことの芽を摘むことになるから……」

「ええ、そうですね。有希さん、ありがとう。私、また貴方がいつも云うように、無駄に考え過ぎね……ありがとう。有希さん。アッ! そう……それと、桃子ちゃんのこと、本当に大丈夫なんですか? 本当に、私は桃子ちゃんに逢うことが出来るのですか?」

「う、うん、それは大丈夫だよ。直ぐにってことは行かないけど。それは、検察側の方が一端落ち着かないとね」

 小夜香は、頷き安心した顔を有希に見せ、更に夕べ見た夢の出来事を話し、それを彼はウンウンと目を潤ませながら彼女の話しを最後まで笑みを絶やさず、お喋りな彼には珍しくただ聞いていた。

 小夜香としても、彼女が小さい時に母を亡くして以来、内行的になっていた性格だったが、時間を忘れ昨夜の夢での出来事を熱く語るのに夢中になり、有希がチラッと時計を見る仕草に、彼女はもうこんなに時を過ごしていたのかと気付き、持って来たお弁当も食べることもなく彼女の働く総務課に帰って行ったが、その彼女の顔には頬を高揚気味に血色もよく笑顔だった。

 そんな、彼女を見送り、その場に独り残された有希は、小さくなって行く彼女の背に向け言葉を送った。

「やっと、戻って着たんだね……おかえり、小夜香さんのセンシィティブさんたち……後は、小夜香さん、君の中に未だ隠れている恥ずかしがり屋さんの意思さんたちを起こしてあげないとね。でも、やっぱり君の笑顔は、あのひとが言っていたように世界でも一番の素敵な笑顔だよ。今日の君は、余りにも輝いていて僕は言葉もなく、君のとりこになっていたよ……」


 小夜香は、総務課へ戻って来て午後の仕事をしていたが、やはりお昼を抜いたお腹はグーグーと意思表示をし、堪らず彼女は近くの千夏に「ちょっとはしたないけど、三時の休憩中にお弁当を食べて善い?」と許しを請うと、それを聞いていた周りのみんなが大きな声で「小夜香先輩、善いですよ」とそれぞれに違ったポーズでOKサインを送ってきた。

 それを耳にした課長が。

「ど、どうしたの……嗚呼! そう云うことか! なら、小夜香君、私も君の遅いランチタイムに、お相伴に着かせて貰えないかなあ」

 と言ってきた。課長の話だと、社長に呼ばれた時にお昼を一緒に取ろうと約束をし、お昼に社長と同席をし食べたが、課長は余りにも久しぶりの社長との食事に何を食べているのかも味わえなくて、緊張のあまり確か食べたのは社員食堂の幕の内だったとしか覚えていなく記憶も曖昧で、彼の脳は未だ。。という認識がなく空腹だと言う。その上、妻の佐知代の作ってくれたお弁当をそのままに持って帰ると、彼はまた散々嫌味を言われた挙句あげくきたくたくもない言い訳を言わなければいけないというと、ため息が出るのだというのだった。

 そして、三時になり。小夜香と田山は課長席の近く、側のミーティング用及び多目的(各種作業、例えば社の様々なイベント用ののぼり旗の取り付け等々の作業場)の大きなテーブルで食べたが、田山は口癖のように例のセリフを小夜香の視線が気になるのかぼやいて云い、最後には決めに「トホホホ」と漏らした。その傍では、千夏が朝のことを反省しての詫びの積りなのかお茶を二人に持って来て、そのまま小夜香の隣に腰を下ろしお菓子を同僚の加奈子やその他の者たちを呼んで楽しそうに会話を交わしていた。

 そんな、光景を眼にして田山が突然泣き出した。それは、今年五十七になるという田山が課長としてこの課を任されて十年目で、初めて観る彼の理想として想い描くものなのだ、と言うのだった。

 その場の、テーブルを囲む女の子たちはそんな田山にもらい泣きをしながらも、口々に課長への日頃の感謝と労いの言葉を掛けている。まるではたから見ると女の子だけの九人姉妹、大所帯の親父の田山を支える家族のようだ。


 それから、また時間は更に進み。小夜香は、終業の時刻となり、彼女は急いでロッカールームへと行き、携帯を取り出し有希にメールを打ち今夜は逢えるのかと送ったが、彼からの返事はないままに会社を出て、有希から連絡が来るかもしれないからと街をひとり散策してまわっていた。

 冬の陽の傾きは思う以上に早く、彼女を包む空気は更に冷たさを増しくらい夜へと加速して行く。

 小夜香は、行く当てもなく彷徨ほうこうを続け一時間が経った頃だろうか、ショーウインドウに映る自分の姿を視て、ひとり……以前は、自分の右には京平がいて、彼の左腕に抱きつき温もりがいつもそこにはあったのに、今彼女を映す影には自分独りのシルエットしかなく、その想いに駆られ涙が頬をつたい堕ちる。

 その時、悲愴の彼女のむき出しの頬に一陣の冷たい北風が吹いてきて、小夜香はその風を避けようと吹いている風の風下に顔を向けた。と、向けた彼女の目には小さなおもちゃ屋さんなのか、店内から暖かそうな木漏れ陽にも似た灯りがもれていた。

 小夜香は、その灯火あかりに誘われるがままにその店の近くに行ってみると、中には小さな男の子が店番んをしているのか、奥の方でちょこんと椅子に座り絵本を読んでいた。

 小夜香が、ガラスの扉を軽く押すとガランと音を発てた。その音に、男の子は椅子から降りて「いらっしゃいませ」と一丁前な挨拶で彼女を迎えて、「ごゆっくりと見て行って下さい」と、これ又お利巧りこうさんな社交辞な言葉を使った。彼女は、何故か男の子にウフッと笑みを見せ「ありがとうございます」と言葉を返し、店内をグルッと見渡した。その時、お利巧な男の子の更に奥の壁に飾られている人形に彼女の目は釘付けとなった。

 その人形は、昔彼女の手から消えた筈の天使の人形だった。嫌、彼女の失くした人形ではない。何故なら、彼女が男の子の脇を抜け、駆けよって見た目の前のモノは質感はどう見ても真新しいく、そこに掛けられてぶら下っている。

「あ、あのう、僕? 嫌え、貴方は此処の子なの? 私は、どうしてもあの天使のお人形が欲しいのですが、どうすれば善いのでしょう。誰か、お父さんかお母さんはいないのですか?」

 男の子は、頭を横に振って小夜香を視て言った言葉が。

「お姉さん、駄目なんです。あのお人形は、おじいちゃんが売りものじゃあないから売ってはいけないと言っていたから……だから、お姉さんは買うことは出来ないと思うよ」

「エッ! あのお人形は貴方のおじい様の大切なモノなのですか? それでは、私はこのお人形を買うことは出来ない……」

 そんな小夜香の落ち込んだ表情を男の子は、子供なりに何かを感じ取ったのか。

「お姉さん、ちょ、ちょっと待て居てね……僕、今からおじいちゃんを呼んでくるから」

 と言って、天使の人形が吊るされている斜下はすかいのドアを開け奥へと消えて行った。男の子が戻って来るまでの数分、小夜香は懐かしい現実の天使の人形と対面をし、彼女の目にする人形の顔は『僕を見つけてくれてありがとう。僕も君の処に帰りたい』と言っているように見得る。

 そして、男の子がかすようにその子のおじいさんの手を引っ張り戻って来た。しかし、そのおじいさんは、孫に駄々をねながらやって来た。

「おいおい、真一しんいち、駄目なんだって、あの人形は持ち主がもう決っていて売る訳にはいかないんだよ。あの人形は、とてもとても、それはもうとても大切なお人形で、決ったお人でないと、買えないんだよ。あのお人形は……あのっ……アッ!? こ、これは驚いた。嫌々、まさか? あ、あのう、お嬢さん、失礼ですが、貴女様はもしかして、お名前はもしや、き、菊川さんとは云われるのでは?」

 この店の主のおじいさんは、何か信じられないモノを見ているかのように小夜香の顔を擬視し、彼女の返事を千秋の想いで待っているようだ。

「は、はい、私の名は菊川、菊川小夜香と云います。ど、どうして私の名をご存知なんですか? 私は、このお店に来たのは初めてなのですが」

「とっ、と言うことは、貴女は菊川様の娘さんでしょ? あ、はい、貴女様は確かに初めてだと思います……ですが、貴女のご両親、特に貴女のお父様は何度も何度も、初めて貴女のお母様と初めて来られ、この天使のお人形と同じモノを買われてから、十年程は何度もお父様は此方へ半年に一度は来られていました。なんでも、買って行かれたお人形が失くなり、それでお子様の小夜香ちゃんが毎日寂しい想いをされているからと、同じお人形はないかと……もしないのなら、何処かにそのお人形の作っている処とかを教えて欲しいと、それはそれはさぞご熱心に探しておりました。それが、一週間ほど前に出入りの業者の方に注文をして着た箱の中に、注文したものと一緒にその天使のお人形が入っていて、早速私は貴女様のお父様に預かっていた電話番号をもとに連絡をしてみたのですが、残念なことに現在では違うお宅の電話番号に変っていました。もう、このお人形は必要とされるひとの許に行くことはないと思っておましたが……そうですか、貴女様があの時、そのお人形をお失くしになって悲しんでいたお嬢様、小夜香ちゃんでしたか……グスン」

 主は、目に涙を溜めうるうるとさせ鼻をすすって、更に目の前にいる小夜香にやっと自分の役割をやり遂げられる使命感の重さ、常にあった心の片隅の棘を取り去ることへの喜びを噛み締めていた。

「さ、小夜香ちゃん……アッ! ごめんなさい。私は、常に未だ見ぬ貴女様に声を掛けていました。『小夜香ちゃん、絶対私が小夜香ちゃんのためにいつかは探し出して上げるからね』っと言っておりましたが、しかし私の胸の中の小夜香ちゃんはいつも泣いておりました。嗚呼、もうこれでやっと私の積年の念いが報われる。私は、今日ほど、こんなにも近くに神様の存在を感じたことがないくらいに嬉しい。小夜香ちゃん、私も貴女に貴女様のご両親に並んで小夜香ちゃんと云う失礼をお許し下さい」

「エッ! 私にとっても嬉しいお言葉です。逆に、私の我儘わがままに私の両親だけでなく、貴方様にまでご迷惑を掛けていたなんて知りませんでした。 すみませんでした……嫌え、これまで本当に有り難う御座いました。私は、どんな言葉を貴方様に応えてやれば善いのかも分かりません」

「嫌え嫌え、小夜香ちゃん、お礼を言いたいのはこの私の方なんですよ。もう信じることさえ諦めていた奇跡と云うものを、私に小夜香ちゃんは……ウッウッウッ。どうぞ、小夜香ちゃん、このお人形をお持ちになって下さい・・・・…」

「あ、ありがとうございます。アッ! このお人形のお値段はお幾らでしょうか・・・・・・」

「嫌え嫌え、小夜香ちゃん、先程も言ったようにこれは、このお人形は売りものでは有りません。ですから、これは、このお人形を必要とされるお人、元々は小夜香ちゃんのものですよ。小夜香ちゃん、今日は本当に来てくれてありがとう……ウッウッウッ……」

 そんな、小夜香と涙のこの店の主、おじいちゃんの顔をふたりに挟まれた男の子は、何度も目の上の顔を行ったり来たり互いに見続けて、訳は分からなかったが、何故か『なんだか僕にも善かった……』その子の目にも熱いものを感じていた。



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