嗜好品
嗜好品
便利な人間っていうのは
実力があるのではなく、そういう性格
そういう風に出来ている
誰もが求めて、頼ってくる
でもそれは都合がいいだけ
本当はいらないくせに
明日美は受け取ったプリントをただ見ていた。
プリントを渡してきた女はもういない。
「……」
自分で渡せばいいのに。
大人ってズルい。
明日美は放課後の教室へ向かって歩いた。
三学期で窓の外は寒くて、天気が悪ければ雪が降りそうだ。
だけど今日の空は雲がない橙色だ。
三年生の教室に入るのに少し躊躇したけど、南朗が机で寝ている姿を見つけた。
まだ何人か教室に上級生が残っている中、二年生の明日美が入っていくのは違和感だが、南朗の背中に向かって歩いていった。
「ナロ先輩」
「ん?ん~……」
「起きてください、ナロ先輩」
「うん?ん……あす?おー、久しぶり」
「お久しぶりです」
「こんなに久々ってのも珍しいよな。俺らってわりと毎日一緒にいたから」
「三学期になってすぐナロ先輩がインフルエンザにかかったからですよ。当たり前です」
「いやぁ……奇跡の生還だったのですよ?」
治ったらしいが病み上がりの南朗は笑いに覇気がない。
そんな南朗の目の前に明日美はプリントを突きだした。
「これ、渡してって」
「公欠届け?」
「笹山先生から」
笹山先生って名前を出して、南朗の顔に笑顔がふと消えた。
そして明日美の手から公欠届けを受け取った。
「ん……さんきゅ」
南朗は目を伏せて、口だけで笑った。
南朗を避ける先生。
寂しく笑う南朗。
何かあったのかもしれないし、何もないのかもしれない。
教室周りの3年生は、みんな帰ってしまった。
もともと登校者が一桁だったせいもある。
明日美はただ黙って、誰の席かわからない机に腰かけた。
「もうすぐセンター試験ですよ。ナロ先輩、大丈夫なんですか?」
「冬休み中はずっと淳史が教えてくれたからな!!なんとかなるだろう。淳史には感謝してるよ、自分もセンター受けるのに……すげぇ助かった!!」
「あっくんは普通ですよ。普段から勉強してるんで。むしろお母さんが一人でピリピリしてる」
「受験生の親って、誰でもそうじゃない?」
南朗は声に出して、小さく笑った。
この学校の生徒でセンターを受けるというのはそれだけで凄くて大変なことなのに、南朗は全然余裕に見えた。
それが余計に不安を
自分の兄の心配より目の前の男が心配だなんて重症だと、明日美は
「ナロ先輩って私立は受かったんですよね?」
「うん。秋に受けた滑り止めね。俺も来年は一応大学生には、なれるわけだ」
それは地元の私立大学。
明日美は一度聞いただけだけど、大学の名前もちゃんと覚えている。
ここの高校から近い。
「ナロ先輩」
「ん?」
「骨は拾いますんで」
「え?何それ?センターではもう俺死ぬの?予言?」
「だってこんな大事な時期にインフルエンザになってますし」
「うん……それは否定出来ない」
「サービスとして、涙を吹くハンカチも用意しときます」
「もう応援する気ないよね?なんで桜散る前提?むしろ俺に落ちろと言ってる?」
「……ガンバッテクダサイネー」
「棒読みッッ!?」
南朗はようやく頬を上げて、目を細めて笑った。
落ちろ
言えないけど、思っている。
だけどセンター試験がなければ、3年生は学校に来ていない。
こうして目の前の猫っ毛が登校してくることもなかっただろう。
学校には来てほしい。
でもセンター試験は上手くいかないでほしい。
都合の良い矛盾がグルグル回る。
「なぁ、あす……」
「はい」
南朗は机に左耳を付けるように体を倒し、右手だけは笹山先生からもらった紙切れをヒラヒラとさせた。
「翔子さん……俺じゃダメなんだって」
「……」
「卒業しても、無駄なんだって……」
明日美は息を止めた。
そして緩やかに吐き出した。
笹山先生がプリントを渡すのにわざわざ明日美に頼んだのも、南朗の様子がおかしいのも……気のせいではなかったらしい。
「先輩はこれからどうするんですか?」
諦めちゃうんですか?
元気出してください。
どんな言葉を掛けることを望んでいるのか、明日美は考えてもわからない。
「俺、センター受けて、国公立と一緒にもう一回、他の私立も受けようかと思ってるんだ」
「……はい?」
「あす、俺な……」
南朗は赤い空にただ目を向けた。
「東京に行こうと思ってんだ」
日本一の都会で叶えたい夢でもあるのか。
そんなわけがない。
そんな三流青春のワンシーンのようなセリフを南朗が吐くわけがない。
「東京って、わりと遠いですよ……」
「知ってるよ」
「……『上京』って言葉、カッコいいですね?」
「だろ?」
「……笹山先生から離れたいんですか?」
「……」
先生に恋をして
中学の時の同級生と受験勉強頑張って
そして恋にやぶれて
地元に残る理由もなくなって
ある意味、心置きなく自分の限界を試すように上京する。
そんな南朗の物語に明日美は出てこない。
ずっと一緒にいたはずなのに、簡略なストーリーにしてしまうと、明日美という登場人物は出てこない。
その必要がないからだ。
「ナロ先輩」
「うん」
「便利な人間っていうのは実力があるのではなく、そういう性格なんです」
「……え」
「そういう風に出来ているんです。誰もが求めて、頼ってくるけど、それは都合がいいだけで別にいなかったらいなかったで、どうにでもなるんです。チョコとかガムとかと一緒です」
「……明日美?」
「本当は…………いらないくせに……」
チョコもガムもご飯にはなれない。
明日美は自分のガーディガンのボタンをギュッと握りしめた。
「ナロ先輩にとって、私は何ですか?」
2年間
ずっと一緒にいた。
たくさんのことを話した。
この世に役に立つ話なんて皆無だったけど、話してきたことは誰にでも話せることではなかった。
自分が思うそのままを話すというのは、実は難しくて、貴重なのだから。
だけど、そんなお喋りもただの嗜好品。
南朗はきっとあっさりと東京へ行ってしまう。
「私は……何なんですか?」
明日美はもう一度と口にした。
南朗は寝ていた体を起こし、隣の机に座っている明日美を見上げた。
「あすは……」
「……」
「俺の後輩」
南朗の答えに明日美は俯いた。
それが正解だ。
それが全てだ。
それしかない。
一体、他にどんな答えがあるというのだ。
「あすは……あと、」
「あと……何ですか?」
「淳史の妹」
明日になっても、きっと彼の必需品どころか、嗜好品にすらなれない。
「減点」
「は!?」
「捻りもなければ、面白くもない。座布団5まい没収」
「マジかよ!!笑点!?」
南朗が吹き出した。
明日美に出来ることは、この空気を平らにすること。
明日には変わらない空気にすること。
「ナロ先輩、もっと大喜利のセンス磨いてくださいね」
明日美は南朗と一緒に笑おうとした。
笑おうとしたのに、歪んだ。
頬が固かった。
眉毛が上がらない。
口は笑っているのに、それはまるで泣き顔。
「……明日美?」
明日美は両手で自分の目を隠した。
口角だけ上げた。
踏ん張れるギリギリライン。
「帰りましょう。多分、今日もあっくんがナロ先輩を待ってますよ。勉強のラストスパートに……」
「明日美」
立ち上がった南朗に、両手を片手ずつ剥がされた。
明日美は上履きの一点だけを見つめた。
「明日美」
「……はい」
「明日美は俺の後輩だ」
「さっきも聞きましたし、それぐらい知ってますよ」
「……うん」
南朗は片手で明日美の頭を抱き、引き寄せた。
明日美の額は南朗の鎖骨に触れた。
「……あす」
「……はい」
「……」
「……ナロ先輩」
「……うん」
明日は……
明日は元に戻ろう。
いつもの調子に戻るのは、明日からにしよう。
明日美は両手を南朗の背中に回し、南朗のシャツをギュッと握りしめた。
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