彼女の想い
第6話.3 彼女の想い
◇◇◇◇
ややこしさはややこしさを呼び、
めんどくさいことはめんどくさい時に被るものだ。
穂香さんが留学する。
アメリカに留学とか、ドラマやマンガだけじゃなくて、本当に存在するんだ……とか
スゴい!とか
穂香さんって本当に賢いんだ……とか
小学生の作文のような感想しかし思い付かなかった。
家に帰るまでの道のりの間で玲二と弾んだ会話はなかった。
―――『本格的に研究のプロジェクトに参加させてもらうのは秋からなんだけど、それまでにも勉強させてもらいたいことは山程あるし、向こうの生活にも少しでも馴れていたいし……幸い向こうの大学も協力的でね』
嬉しそうにそう言っていた穂香さんは、だから1週間後には日本を発つのだ。
春休みなのに忙しかったのは、研究だからとか賢い大学生だからとかじゃなくて、留学の準備と手続きとか最後の確認をしていたのだ。
「……」
「……」
「……玲二、」
「ん?」
「……何でもない」
最近の玲二との会話はこればっかな気がする。
それは結局、マンションに着いても一緒だった。
…───
『ねぇ、兄貴』
『なんだ?』
『先週、彩花に彼氏出来たんだって』
『彩花って?』
『新しいクラス替えで仲良くなった友達っつったじゃん』
『ほうほう、で?その彩花が?』
『彩花がっつーか、兄貴が』
『俺!?』
『兄貴は彼女いないの?』
『えぇっ!?ちょ…!!』
『私もさ、もう高2だし、別に子供じゃないんだから、気にしなくていいのに』
『うーん、そうだなー』
『だから…』
『あ!ゆず!!今晩は何が食べたい?』
『……話の反らせ方、マジ下手くそ』
『今晩は何が食べたい!?』
『……わかった、もういいって』
『ゆず』
『は?』
『大事な人が出来たら、ちゃんと報告するから心配しなくていいんだよ』
『……』
『俺にとってゆずも大事だから、俺の気持ちはちゃんと俺の口から報告するから』
『……あっそ』
『うん!風の噂でとかでゆずの耳に入るとかありえないから!!安心しろ!』
『むしろ風の噂でもいいから、少しは兄貴の浮いた話が聞きたいね』
『う…ぐ……』
…───
久々に兄貴の夢を見た。
結局、穂香さんのことを兄貴から教えてもらうことはなかったけど
……兄貴は一体、穂香さんのことを私にどう説明するつもりだったのかな……
兄貴の気持ちって?
玲二の気持ちって?
二人の記憶と気持ちはどこまで繋がっているもんなんだろう……
玲二は昨日のあれから穂香さんに連絡したのかな?
……してないのかな?
バイト中も気が散っているのが自分でもわかる。
このまま放っておけばあと6日後には穂香さんとは簡単に会うことも出来ない。
実際には準備に忙しくて会えるチャンスはもっと無いかもしれない。
……玲二にとって良いのか?
そして、私にとってはどうなのか?
「……」
ただひとつ、思ったのは……私は穂香さんとキチンと二人話した時間が短すぎるんじゃないの?
限られた時間なのだと気付かせれて、そのことに気付いた。
私の知らない兄貴を知っている人。
……このまま海外へ行き、話せるチャンスを逃して私は何も気にしないのか?
「……」
バイト上がり、美人の夕焼けを背に電話をした。
突然のことなのに、穂香さんはお家へ来てもいいと言ってくれた。
…───
「どうしたの、ゆずちゃん?」
玄関で迎えてくれた穂香さん。
今となってはキレイな部屋というより、当分は帰ってこないからという感じに片付けられたという印象を受ける。
「穂香さん……忙しいところ、ごめんなさい。突然…しかも夜に」
「いいよ、全然!もうすぐアメリカに行っちゃうからこそ、こうして誰かが会いに来てくれること自体嬉しいよ」
リビングに通してもらい、前と同じところに座布団を敷いてもらい、座った。
「どうかした?」
突然の私の行動を穂香さんはどちらかと言えば心配の形で受け取ったみたいだ。
「あ…いえ、あ──」
兄貴の夢を見たんですと言いかけたけど、何故かやめた。
「あ──アメリカ、本当に行くんですね」
「ん?」
「部屋、片付けられてるんで」
「あぁ、うん。でも夏にまた帰ってるから、今回の留学は本当に視察も兼ねてって感じだから、この部屋は残したまま行くんだけどね」
「そうですか……やっぱ医療の、」
「それももちろんあるけど……」
穂香さんは秘密を打ち明ける少女のようなハニカんだ笑顔となった。
「向こうに心理学で有名な先生がいるの」
「心理学?」
「前にも言ったかもしれないけど、医学の分野で収まる話じゃないのよ」
「……なにが」
「“臓器移植と記憶転移”」
ハッとした。
「穂香さん……兄貴のために!?」
「別に戸田くんの意思を継いで……なんて、大それたことを思ってるんじゃないよ?ただ……」
穂香さんはやっぱり照れた笑顔をした。
「戸田くんがキッカケなのは、確かかな?」
私は穂香さんの本当の『キレイ』を見た気がした。
「だから少し文系と理系のコラボレーションの勉強をしに行く……ってところかな?」
笑顔の穂香さんは
真っ直ぐとやりたいことのために生きている。
それも、多分の好きな人のために。
それは決して後ろ向きではない形で。
きっと私と同じぐらい兄貴のことを思ってくれている人。
心が落ち着いていく。
だから口を開いた。
「昔……」
「うん」
「兄貴は昔……大切な人が出来たら、私に紹介してくれるって言ってました」
「そんなちょっとしたところで真面目なのが戸田くんっぽいよね」
「はい、私もそう……思います」
それはきっと穂香さんだったじゃないかって思う。
思うのにまだ不透明。
それは兄貴の気持ち。
穂香さんの気持ち。
「穂香さん……正直に答えてください」
「うん?」
「穂香さんは……兄貴のこと、好きだったんですか?」
兄貴の気持ちは報われていたものなのか。
それだけで兄貴の……玲二の心は報われるんだろうか?
ニコニコと笑う穂香さんはスッと真面目な顔になり、真っ暗で鏡みたいになっている窓を眺めた。
「あのね……ゆずちゃん」
「はい」
「先生と生徒……それ以上でも以下でもなかったの。私があの大学の生徒になってから何年も経って戸田くんと言葉も交わしたけど、本当にそれだけ……だったと思う」
「……」
「でもね、たった一度……たった一夜だけ戸田くんの心に触れた時があったの」
「……え?」
「夢だと思えた。嘘みたいだった。……事実、嘘だったらどうしよう…って私は──」
フッと息を吐くように笑った。
「怖くなって逃げ出した」
「怖い?」
「うん」
「それは、兄貴のことが好きではなくて…ですか?」
「私の気持ちはずっとずっと決まってる。でも戸田くんの気持ちがわからない。わからなくて怖かった」
「……」
「私はただの臆病者だよ」
穂香さんの力のない笑顔は自嘲なんだとわかった。
「なんで逃げちゃったんだろうって……自分でも情けないと思う」
「……」
「でもね、それなのに戸田くん……」
穂香さんの声がポツリポツリと小さくなっていく。
「それなのに戸田くん……追い掛けてきてくれた」
「追い掛け……?兄貴が?」
「学校で会っても避けていく私を追い掛けて、腕を掴まれた。いつもヘラヘラしてたり少年みたいにキラキラしていた戸田くんだけどその時は……すごく……凛々しい大人の男の人だった」
―――――『俺の気持ちに嘘はないから。だから……だから明日、時間を俺にくれないか?穂香にどうしても伝えたいことがあるんだ!だから…だから明日!!』
穂香さんは思い出すように自分の腕を自分でゆっくりと擦っていた。
「ドキドキした。泣きそうだった。怖いことに変わりはなかったけど、でもやっと私も決心出来たの……」
「何の?」
「自分の気持ちを……伝えようって」
穂香さんは窓を見つめたまま……玉となり雫となった涙を落とした。
「でも……会えなかった」
「……穂香さん」
「次の日になっても……授業が終わっても……待ち合わせの場所に行っても……戸田くんは現れなかった。戸田くんは、もう…」
涙を流す穂香さんを見つめていた私の頬も気付けば濡れていた。
「戸田くんとは……もう二度と会えなくなってた」
ボロボロと泣く穂香さんを真正面から初めて見て、私もボロボロと泣いた。
もう二度と会えない苦しさを、私も知っている。
そこには無い温度。
わかっているのに、兄貴の声が聞こえてくる気がして
だけど空っぽの部屋。
読めないのに、論文を広げては兄貴をカケラを求めた。
同じ気持ちの人が……
それが余計に涙となった。
しばらくしてお互いの鼻を啜るのが落ち着き、止んだ。
穂香さんがさりげなくティッシュを机を置いてくれて、二人で使った。
お互い目が合って少し笑った。
そして穂香さんは深呼吸をしたあと、赤い目で、だけど凛々しく真っ直ぐと私を見た。
「初めにもゆずちゃん聞いてきたよね?」
「はい、兄貴のことが好きかって……」
「私、その時に言ったよね。『秘密』って」
「……はい」
「隠したいわけじゃないの……でも今でもそれを口にするつもりはないの」
「どういう……」
「私の戸田くんに対する気持ちは『戸田くんに伝える』って決めたの」
穂香さんはもう一度笑った。
「そう、決めたの」
「穂香さん……」
「たとえ二度と口に出来ないものなのだとしても」
「それは……辛くないんですか?」
「……そうね。きっと私のその時の想いを他の誰かに吐き出してしまったらスッキリするんだろうけど……スッキリするって記憶を薄くさせるよね?」
軽くなった気持ちは前を向いて、過去を忘れていく。
わかる気がする。
「だからいいの、今はまだ。私の気持ちは私だけのものだから」
「……はい」
「私は今は研究に頑張るよ」
口にしない大事な気持ち。
涙がキレイな人。
穂香さんの気持ち、兄貴の気持ち。
もう二度と交わらないであろう想い。
…………でもこのまま本当にいいの?
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