ゆずはちみつ

1話.5 ゆずはちみつ

玲二が現れて一週間がすぎた日曜の昼下がり。


一週間といっても、最初の二日しか関わりなかったけど。



でもそれでいい。


兄貴の記憶を持つ少年なんて非現実的なことに、真正面から付き合う気はさらさらない。


そもそも信じてもないんだけど。



仮説に辻褄が合う所もあったけど、もうどうでもいい。


私はただ穏やかに、何もなく生きたい、それだけ。


早く新生活をスタートしたい。



なのに…



「兄貴の荷物…まとめ方わかんねぇっての。」



部屋の片付けは順調ではなかった。


早く片付けて引っ越ししたいのに…


こんなもん本人じゃなきゃわかんないだろ。


私一人じゃあ、しんどいって。


何が必要で、何が不必要か…。



兄貴が生きてた頃でも私には理解出来ない私物なんて、私がわかるわけない。


溜め息をつきながら、手当たり次第に段ボールに詰めていく。


もうとりあえずやるしかなかった。



棚に手をかけると、兄貴が無理矢理詰めたのか一冊も本が抜けないほど固かった。



「くっ…、このやろ……あっ!!」



本が一冊抜けただけで、レポートやら論文やら紙の束が、爆発したみたいに床に散らばった。



「~ッッ、もう!!!!」



ムカつく。


全然片付かない。



散らばった紙の上に思い切り寝転がった。



『わっ、バカ!!ゆず!!紙にシワがつくだろ!!寝るな!!』



兄貴の焦った声が聞こえた気がした。



「ふふん、ざまぁみろ。」



声に出してみると、脳内の微かな幻聴はチリみたいに消え去って、静けさで耳鳴りがした。


寝返りを打った。



「……早く注意しないと、ホントに紙にシワがつくぞ?バカ兄貴。」



当たり前だけど、誰の返事も聞こえない。


理系がとりあえず嫌いだった私は兄貴の好きな物が理解できなかった。



それでも講師をしながら研究員として働いていた兄貴のおかげで、私は高校にも行けたし、そのうえ専門学校にも通わせてもらえた。


お父さんお母さんが死んじゃって、駆け落ち夫婦だった二人だから親戚に頼ることが出来なかった…


そんな私は、兄貴のおかげで今日まで生きてこれたんだ。


私には無価値のこの論文達が、私達兄妹を助けたようなもんだ。



兄貴は今まで忙しくて、家に帰ることも少なかった。


家では一人が多かった。



これからと何も変わらない。



「大丈夫。大丈夫。大丈夫。」



三回唱えて目を瞑った。


目を瞑ったら、兄貴の笑顔が浮かんだ。



『ゆず…これ飲んで元気出せ!!』





ピンポーン




インターホンが鳴った。



…デジャブ?


なんか嫌な感じがする。



ゆっくりと体を起こして、玄関に向かった。



「……会うのは禁止なんじゃなかったの?」



扉を開けたら案の定、玲二がそこにいた。



今日は私服の玲二は歯を見せて笑った。



「そうは言っても、こっちは記憶があるんだから仕方なくない?」


「…あのね、」


「あ、お邪魔します!!」


「ちょっと!?」



少し気を緩んでいたから、あっさり家に入られてしまった。



「汚っ。」



勝手に入ってきといて第一声がそれかよ。


確かに部屋は片付けてなかったけど。



玲二はコンビニ弁当のゴミが溜まっているリビングのテーブルに目を向けたあと、紙が散らばっている奥の部屋も覗き込んだ。



「ゆず、ちゃんと生活してる?」


「…あんたには関係ないじゃん。」


「でも満さんの記憶の時より部屋が荒れてるし…ご飯もちゃんと食べてる?」



玲二は手に持っていたスーパーの袋をダイニングテーブルに置いた。


何か買ってきたの?



「部屋が荒れてるんじゃなくて、片付けの途中なの。ご飯もたまたまコンビニだっただけで、ちゃんと一人で料理作れるから何も心配ない。」


「でもゆず、」


「関係ないって言ってるよね?」



迷惑だ


そう言いたい気持ちを抑えて溜め息をついた。


でもこれで充分に呆れている事は玲二にも伝わると思う。



「理一さんからまた怒られるのは困るからさ、」



ニッコリ笑って、帰りを促す。



「ん…もう帰りなよ。」


「俺、」


玲二はジッと私の顔を見る。


玲二は視線を外さないまま、言った。



「記憶はあるけど、ゆずのことはよく知らない。」


「うん?」


「だからゆずのその笑顔は本物なのか、ゆずが今どんな気持ちなのか、今どういう人なのか…実はわからない。」


「…」


「だから…」


「関係ないって言ってるでしょッッ!!!!」



狭い部屋で大声で叫んだ。



「兄貴はもういないの!!あんたは私の兄貴じゃないの!!わかる!?」


「ゆ…ず、」


「あんたにはちゃんとした…あんたを大事に守ってくれてる兄貴がいるんだから、そっちに行ってろ!!」


「…」


「中学生が生意気に他人の部屋に突っ込んでくるな!!一丁前に他人の心配なんかすんな!!」



薄暗いリビングで水辺のシンクだけ、ポタ…ポタ…と水を受ける音が響き、あとは私の息が荒いだけだった。



玲二が視線を下げた。



「最後に…」


「最後?」


「うん、最後。これを言い終わったら…もう帰る。ホントの最後。」


「……何?」



玲二は深く深く頭を下げた。



突然の行動にビックリした。



「え?…何?」


「……ごめん!!!!」


「だから何が…」


「“一人にしてごめん!!”」


「…え?」


「“ずっと一緒にいるって言ったのに、ゆずのこと一人にしないって言ったのに、本当にごめん!!”」


「…あ、」


「“それでも…約束破った今でも俺は同じことを一番に願ってる。”」


「兄…貴…?」



目の前の少年は顔を上げて、無邪気に笑った。



「“ゆずには笑っていてほしい。”」



あの時の兄貴と同じ笑顔。



私が小学生の時、両親が死んだ。


悲しくて


寂しくて


怖くて…


ずっと泣いていた。



人が死ぬということに実感はないけど、もう会えないということはわかっていたから。



病院でも、家でも、葬式の時でも兄貴はそんな私を抱き締めた。



『お兄ちゃんがいるから。』



本当は私と一緒で悲しいはずの兄貴は笑顔だった。



『ゆずのこと、絶対に一人にしないから。』



兄貴のその笑顔は私への願いだった。



『ゆず、泣くな。笑え。』



頭を撫でて、背中をさすって、兄貴はずっと私の傍にいてくれた。



『お母さん達は…帰ってこないの?』



ぐずぐずに泣く私に兄貴は眉尻を下げた。



『うん、帰ってこない。』



泣き止まない私に兄貴は言った。



『俺はずっと一緒だ。ゆずが寂しくならないように…一人にはしないから。』



兄貴の服に涙も鼻水もつけて、ギュッと兄貴の首に掴まった。



『……ホント?』


『うん。』


『ホントにホント?』


『たった二人の兄妹なんだ。ゆずが死ぬまで俺が守ってやるから。』





「俺…その記憶がどうしても気になって…会ったこともないゆずがどうしようもなく気になって仕方なかったんだ…。」



玲二は眉を下げて、泣きそうな笑顔を見せた。



「だからゆずに会いにきた。ゆずは一人で大丈夫かな…寂しくないかな…元気かなって。」


「…」


「俺の記憶じゃないけど、どうしてもゆずを一人にしたくないって…思ったんだ。」



玲二が泣きそうな真剣な眼差しで私を見た。



「だから一緒に暮らせばって思ったけど…俺の発想って安易だったね。」


「…」


「でも…これだけでもゆずに伝えたかった。満さんならきっとそう言うだろなって。」


「…」


「俺、もう帰るから…」



その瞬間、玲二が笑った。



「ゆず、笑えよ。」



その笑顔は…



「反則だ。」



ポツリと呟いた言葉に玲二はこっちを見た。



「…え?」


「兄貴の代わりって、兄貴みたいに…謝ったり、笑ったり…それって反則じゃない?」



私は泣いていた。



「ゆず、」


「嘘つき。」


「え?」


「ずっと傍にいるって…言ったのに…嘘つき。」



涙は止めどなく流れた。



「嘘つき。」


「…うん。」


「嘘つき!!」


「ゆず…お前…」


「…~ッッ。うぅー…」


「もしかして満さんが死んでから泣いてなかったんじゃ?」



そうだ。


兄貴が死んでから今まで私は泣いていなかった。



突然のことで気持ちが追い付いていなかった。


そして泣いてしまえば…悲しい気持ちに埋め尽くされてしまうとわかっていたから。



「私…は、一人で平気…なの!!もし…泣いたり、うっ…うぇっ、一度、泣い…たら、もう立ち上がれないじゃない。」



玲二が一歩一歩近づいてくる。


泣き顔を見せたくないから、泣き止みたいのに涙が止まらない。



「一人…で、頑張ろうと…してん、のに…なんで、そんなこと…言うのよぉ…」


「ごめん…」


「バカ!!何、勝手に死んでんのよ!!バカ兄貴ぃ!!!!」



ふわっと体を包まれた。


背中をさする感触が優しくて、余計に涙腺がぶわっと熱くなった。



「ふっ、う……わあぁー…あっ、あぁー…」



悔しい。


泣いている自分が悔しい。


何より悲しい。


虚しすぎるこの悲しみに胸が潰れてしまいそうだ。



だけど玲二の腕の中が心地好い。


それが余計に悔しい。



拳を玲二の胸に向かって叩いた。



「なんで死んだのよ!!」


「うっ…」


「嘘つき!!バカ!!バカッッ!!」



何度も強く叩いたのに玲二は何も言わずに私の拳を受けていた。



それが余計に自分が惨めで、立つこともままならなくなった。



しゃがみこむ私を追いかけるように、私を抱き締めたまま玲二も一緒に床に座った。



二人で座り込んで、玲二の胸に顔を押し当てて泣いた。


声を上げて泣いた。


涙の声はピークを過ぎて、小さな嗚咽になっていった。



その頃合いを見計らったように玲二は立ち上がった。



「ゆず、ちょっと待ってて!!」


「え?」



玲二はテーブルに置いてあったスーパーの袋からガサガサと何かを出して、台所に立った。


あ…



玲二が作ろうとしているものがわかった。



兄貴はいつも泣き止まない私を見て、困った顔をして…


『あぁ…そうだ。ゆず…ちょっと待ってろ。』


そういって兄貴が私に出すのはお決まりのアレ。


私が泣いたり、不機嫌になったり、喧嘩したりしたら…


兄貴はいつも…





二つのガラスのコップを持った玲二が振り返った。



「はい、ゆずとはちみつのジュース!!」



玲二の手からジュースを受け取ると、中の氷がカランと揺れた。


「ユズルの"ユズ"とミツルの"ミツ"を合わせて…柚子蜂蜜。」



仲直りしたい時


元気になりたい時



これはその合図。


私と兄貴のジュース。



「玲二…」


「うん?」


「…もしかして本当に、兄貴の記憶があるの?」



私の言葉に玲二はとびっきりの笑顔を見せた。



「そう言ってるじゃん!!最初から!!」



玲二は知っているんだ…。


本当に。



柚子蜂蜜を一口飲んだ。



一粒涙が零れた。



だけど笑った。



「美味しい…」


「ホント?こないだのお詫びというか、仲直りのつもりで来たんだけど…用意してきてよかった。」



柑橘の香りと蜂蜜のとろける甘さが美味しかった。


涙が止まらないけど、口元も弛んだ。



そういう優しい味だった。



頭が良かった兄貴。


でもちょっと変な兄貴。


そして優しかった兄貴。



もう…


いない…



冷たいガラスをギュッと握った。



「くっ…ぅ…」


「ゆず。」



わかってる。


笑わないといけない。



笑わなきゃってわかってるのに…


どう頑張ったって、泣ける。



「玲二…ごめん…今は泣かせて…」


「…」


「だって…兄貴はもう、いないんだから…もう会えない…。」



勝手に棚をいじったって


論文をわざと踏んだって



泣いたって…



それを注意する人はもう…いないんだ、この世には。



「ゆず、」


「…」


「いるよ。」


「……え?」


「満さんはいる。…ここに。」



玲二は自分の左胸に手を置いた。



兄貴の心臓。



「俺も生きてる、満さんのおかげで。」


「…うん。」


「しかも満さんの大事な思い出も…俺はもらった。俺の中にちゃんとある。」


「……玲二。」


「うん。」


「…触ってもいい?」



玲二は一瞬、大きな目を見開かせた。



「へ?」


「…」


「え…と…」


「…ダメ?」


「…………どうぞ。」



心なしか赤くなった玲二から了承を得て、玲二の左胸に手を置いた。



心臓が動いているのか、自分の指先が脈を打っているのかはわからない。


でも兄貴の心臓は確かに鼓動を打って、今も生きている。


玲二の中で。




『ドナーの記憶がそこで生き続けるんだ!!


特に心臓!!』



兄貴はいる…ここに。



玲二が呼吸する度に微かに上下に動く。


少しでもそれを感じたくて、玲二の鼓動にずっと触っていた。



「あの…ゆずさん。」



玲二の戸惑った声を聞いて、咄嗟に手を引っ込めた。



「ごめん!!…ありがとう。」


「うん。」



玲二は空っぽのグラスと飲みかけのグラスを持って、テーブルの上に置いた。



「…じゃあ、俺…帰るね。色々と自分勝手に騒いでごめん。」


「玲二…」



涙のあとを拭って、私も立ち上がった。



「このあと…ヒマ?」


「へ……うん。」



なんでだろう。


私は玲二を引き留めたかった。



「今から兄貴が残した荷物整理がしたいんだけど…」



兄貴の心臓が今も生きていて、兄貴の思い出もこぼれることなく…受け継がれた。


玲二の心臓に。



「玲二、手伝ってくれない?」


「俺?」



この世ではあり得ない出来事。


それは兄貴が残してくれた奇跡なのだから、もったいないと思ったのだ。



玲二との出逢いが兄貴の遺産…なんて。



「兄貴の荷物で何がいるかいらないかとか、どうまとめたらいいのかわかるよね?兄貴の記憶があるから。」



玲二は頷いて笑った。



「もちろん!!まかせて。」



もう少し、君の記憶装置(ストレージ)に身を寄せるのも悪くないと思ったんだ。



ゆずはちみつのジュースが美味しかったから。

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