(2)


 用意された食事はどれも少量で、傾籠の前には牛乳の入ったグラスだけがぽつりと置かれた。注文した料理をすべてテーブルに並べ終わった女店主は、厨房に戻りながら

「傾籠は偏食だから食べないよ」

 と娘に言う。

 暗に一人で全てたいらげろと指示されたわけだが、どれも二口三口で食べられる量であったので、ひとまず従うことにする。傾籠は、黙々とスプーンやら箸やらを口に運ぶ娘の様子を観察するようではあったが、時々あくびなどをして、それほど熱心というわけではない。


「きみも牛乳を頼むかい」

「水が欲しいわ」

「魚料理は好みだった?」

「他と比べて?」

「他と比べて」

 魚の酢漬けが一切れだけ残った皿に目を遣り、娘は眉尻を下げつつ何と答えるべきか考えた。どの料理も不味くはない。きっとこの店では何を頼んでも美味いのだろうと思いはしたが、どれが特別好きかと問われれば、特にないというのが正直な感想である。


 途中で西へ落ちた太陽が真上に戻り、何分かかったのか定かではないが、ともかく金の枝での食事はすぐ済んだ。


「今日は少し寒そうだけど、これから海へ行くのかい」

 女店主に尋ねられ、傾籠はタイの形を整えながら首を振る。

「次は川へ。市街地から森のほうへ上ってゆくよ」



 娘は傾籠に言われるがまま、妙な経路を辿り川沿いへ向かうことに、特段不満を抱かなかった。桟橋に行き当たるたび、なぜか傾籠はそれを律儀に横断するので、やたらと川の上をうろつく羽目にはなったが、それも苦労というほどのことではない。


「傾籠はいつもこうやって散歩をするの」

「いつもはこんなにゆっくり歩かない」


 内心質問の仕方が良くなかったと思いつつ、娘は「そう」と話を切り上げた。

 実際、そんなことはどうでもよくて、もしもこのまま傾籠から離れたら、自分には帰る場所があるのだろうか、と、今更ながら真っ当な疑問が浮かんだのである。


 上流へ歩き続け、すれ違う人も少なくなった頃、僅かに傾籠が歩みを速めた。それと同時に、少し先にかかる橋の袂で、いかにも貴婦人といった出で立ちの女がこちらを見ていることに娘は気付く。この場所で、ずっと傾籠が来るのを待っていたのかもしれない。そのように思えるほど、彼女の立ち姿は不安げだった。


「ごきげんよう」

 挨拶もそこそこに、どうしたのと傾籠が尋ねると、貴婦人は困ったように川の反対側を指差した。

 橋の向こうにはまだぽつりぽつり住宅地の面影が残っているが、貴婦人が指さす方向にはもう森と丘しかない。


「ああ、が育たないんだね。それも大量に」

「もう生まれないまま死んでしまうのかしら。それに、動物が眠れなくて苛々しているの。蕾や新芽をたくさん食べてしまうし」


 娘はようやく『らん』という言葉について聞き損ねていたことを思い出した。


「冬眠しない動物が相手となると、僕の手には負えないかも。でも、森の植物だけは日を改めて観に来るよ。今日はこの子にかかりきりなんだ」

 背の高い貴婦人は微動だにせず、娘をしかと見定めるように見下ろした。


「不思議。このは見たことがないわ」


 そう、と呟きながら、傾籠は難しい顔をする。

「ええ、本当に。私の見立てだけれど、だけでは足りないんじゃないかしら。二人とも、ここへ入って『鳥の広場』までいらっしゃったら。貴方、珍しく疲れた顔をしているし」


 言い終えないうちに、貴婦人はドレスの裾を翻し、すたすたと森のほうへ歩いてゆく。傾籠はすぐにはそれを追わず、眉根を寄せたまま娘の顔をじっと覗き込んだ。

「『鳥の広場』へ行かないの?」

「やっぱりきみは、彼女の姿も見えるし、声も聞こえるんだね」

「そうよ。私って『らん』なのね。らんって何なの。たまごのこと?」

「うん。らんはたまごのようなもの。殻があるとは限らないけれど、殻を破る前の命。生まれる前の何か」

「私って死んでいるのかしら」

「死者が生まれ変わってまた生まれるなら、きみも死者に近いと言える。死んだものが天使になるなら天使に近い。死にまつわることは僕にもわからない。ただ、僕のもとへ託される卵は、生きているのに生まれないものだけ」


 それを聞き、娘は安堵した。自分が何者であるのかわからずとも、死んでいると言われるのは気分が悪い。


「生まれない卵というのは大抵、温度や湿度も含めて、命の栄養となる何かが足りないんだ。だから太陽や風、土、川や海の気配、あるいは夜の闇にさらしてみる。こうやって色々なところを歩いたり食べたりしながら足りないものを集めれば、自然と孵化することが多い。きみの場合はまだ何か足りないようだけど、何かを求める様子もないから難しい。きっとこんな話をしても、きみは自分に何が足りないかわからないでしょう」


 わからない、と娘は正直に答えた。


「森の卵たちの話を聞いて思ったんだ。栄養を集め足りないことよりも、時間が狂っていることや、季節が変わらないことのほうが問題なのかもしれない。自分自身が何者か、きみがまったくわかっていない原因も。時間が戻ったり進んだりする狭間のどこかで、記憶を失くしてしまったのかもしれないね」






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