らんの旅

平蕾知初雪

(1)


「やぁ、たまごやさん。少し頼まれて頂けませんかね」

 古めかしい駱駝色のスーツを着込んだ口髭の男が軽い調子でそう言う。その声で目が醒めたのかもしれない。娘の意識はどうしてか唐突に始まり、それ以前のことは何も覚えていないのだった。


「ええ、もちろん構いませんよ」


 たまごやさん、卵屋さん、玉子屋さん、たま小屋さん。今しがた耳にした言葉を、飴玉を転がすように口内で反芻してみるも、それで娘が何かを思い出すと言うことはなかった。

 一方そのように呼ばれた青年は、帽子を取る仕草で娘に軽く挨拶をして見せる。


 娘はようやく、今自分たちの居る場所がどこかの街の往来であることに気がついた。

 木造の珈琲店に小さな煙草屋。住宅地へ繋がっていそうな細い路地を挟み、隣は小洒落た煉瓦造りの大きな建物で、一階はどうやら理髪店と歯医者らしい。反対側は古書店で、店外まで本が溢れて露店のようになっている。

 すれ違う学校帰りの子どもに、古本屋で立ち読みをする人々。

 目に入るものすべてが、無性に気になって仕方ない。娘が周りを見渡しているあいだに口髭の男は去っていき、見知らぬたまごやと二人、路上にぽつりと取り残される格好となる。


 たまごやは黒っぽい帽子を被り直しながら「さて、とりあえず川辺か、それとも火か」と、なにやらぶつぶつ言いながら思案していた。


「おや、もう『金の枝』が開いている。きみ、何か食べられそうかい」

 尋ねられて、娘は初めてたまごやと目を合わせることとなる。落ち着いた声音とは対照的なあどけない相貌だった。ジャケットの中に着込んだブラウスと赤のリボンタイはどこか少年めいており、油できちんと揃えた長髪を結っていなければ、ますます学生らしく見えるに違いない。


「何でも」

 娘は彼の問いに、自然とそう答えた。勝手に口から言葉が飛び出たようで少しばかり驚いたが、確かに娘の身体は「何でも食べることができる」と申告している気がしたし、また「食べても食べなくても構わない」と言外に含んでいるのもちょうど良い。

 たまごやはひとつ頷いて、近くの店のガラス戸を引く。娘の傍らには少し錆びついた赤色の立看板があり、白いペンキで『食堂 金の枝』とだけ書かれていた。


「おはよう。今はランチの時間? それともそれ以外?」

 たまごやの奇妙な問いを気にする様子もなく、厨房に立つ女店主は朗らかに笑った。

「近頃は気にしないのさ。食材は大量にあるからね、時間がかかっても良ければ何でも作るよ。こちらのお嬢ちゃんは何を食べるの」


 今度は何とも答えることができなかったが、これにはたまごやが代わりに答えた。


「アカマグロかロイヤルダイをレアで。それからマッシュルームサラダとチーズの盛り合わせ。そうだ、根菜を一晩煮込んだシチューがあればそれも頂戴」

「運が良いね傾籠カタカゴ。今なら全部揃っているよ。すぐ用意するから待っておいで」

 娘が「傾籠」と呟くと、たまごやは窓際のテーブル席へ娘を促しながら「うん」と応えた。

「僕の呼び方は色々あるから」

「傾籠はたまごを売っているの? 家に鶏がいる?」


 娘はようやく最初に聞きたかったことを言葉にできた。発した声が聞き慣れぬ他人の声のように感じられた点は奇妙であるが、もしかすると随分と長い間、娘は話すことも、口を開くことさえしていなかったのかもしれない。


「僕は養鶏家でも酪農家でもない。ときどきを集めたり、調べたりするから『たまごや』とも呼ばれるけれど、本業は観測員」

「『らん』? 観測員ってなにをするの?」

「平たく言えば記録を付けるのが仕事。ほら、丘の上に円柱の建物が見えるだろう。下は科学館で、上階は天文観測所になっていて、僕はあそこで天体の動きを観察して記録するのが仕事だった。けど、生憎と今は暇でね」

「どうして」


 娘が問うたのとほぼ同時に、窓から差し込んでいた日差しがふいと消えた。傾籠は「ほらね」と言いながら眉間に皺を寄せる。

「言ったそばから。陽が傾いたんだ。夕方になった」

「え?」

 娘は身を乗り出し、窓硝子に目鼻を近づけた。東向きの窓なのか、太陽は見つからない。とはいえ、一瞬で淡墨を混ぜたように空色が変わったのは確かだ。太陽を覆い隠すような雲は見当たらないから、やはり傾籠の言う通り、太陽がころりと西へ落ちたのだろう。


「近頃はずっとこんな調子で、時間がいったり戻ったり、めちゃくちゃなんだ。望遠鏡を覗いていても、気が付くと火星や月があちこちに動いてしまっていて、記録を付けても意味がない」


 娘は首を傾げた。先ほど学校から帰宅する子どもを見たと思ったが、実はその逆、彼らは学校へ向かっていたのだろうか。

「今は朝なの、それとも昼?」

「どうかな、午前中だと思うけれど。実際のところはもうわからない。それでも案外なんとかなるもので、ご覧の通り、みんな好き好きに過ごしている」

 確かに、言われてみればそのようだ。娘は古書店で立ち読みをする人々の背中を思い出した。


「ただねぇ」と、テーブルにチーズとサラダを並べながら、女店主の連れ合いが愚痴っぽく漏らす。

「時間が狂ってるだけじゃなく、どうもぐずぐずして、先に進んでいるようじゃない。葡萄農家は葡萄を摘み終わらないし、春小麦も刈り終わらないからご多忙さ」

 それは良いことなのか悪いことなのか。判断しかねた娘は傾籠の顔を伺い見た。

「来る日も来る日も葡萄の収穫が終わらないから、次の工程へ進まない。だからいつまでも新酒が作られないんだ」

 傾籠はさほど残念でもなさそうに説明したが、別の席では誰かがひっそりと溜息をついている。

「まだ秋」

「もうずっと秋」


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