第2話 ティンダロスの猟犬って狂暴

「思ったより深刻な状況だな……」

「今、助けます!!」


 東京の街中で人々を襲う【幻影魂げんえいこん】を目撃した恵一は助けに向かおうとする。しかし、エマは冷静にその場の状況を見極めて彼の行動を制止させた。


「待って、無理に突っ込むのは危険よ!」

「なんで止めんだよ!!」


 抗議する恵一の声を無視して紗彩と神楽にその場を引き渡した。


 紗彩と神楽は恵一の肩を押すように強い眼差しを向けた。


「急いで行け! そこにも何かが起こっているかもしれないだろ!」

「行ってけいちゃん! 此処は私と神楽に任せてよ!!」


 恵一は心配だがエマの指示に従って二人に背を向けて東京の駅へと向かう。


 道路は車なんて走っておらず横転してるか。炎に包まれて動かなくなっているのがほとんどだった。


 恵一はエマに並走して駅へと向かうがいつも以上に足が重く、息が詰まる程苦しかった。その原因は周りの地獄が昔の大地震の時と重なって見えていたからだ。


 怖い……正直言って逃げたい!

 紗彩、神楽――!!


 瞳を固く閉ざそうとした恵一だったがエマはその震える手を引っ張って走らせた。立ち止まることなんてありえない。


 幸せが続くのは本当に奇跡なんだと彼は既に知っている。


 恵一は首を振ってエマの後ろを走って遅れを取らずに走り続けた。


 駅に着くと異様な光景が広がっていた。地面には血の海ができていて、そこからは恐ろしい叫び声と呻き声が響いてくる。まるで人々の怨念が具現化したかのような光景に恵一は愕然とする。


「これは……!」


 恵一は全身が震える程の恐怖を覚えている中、エマは真剣な表情で周囲を見回した。


「チッ!もう動き出したのね……!!」


 その時、血の池から青黒いもやが現れると形の無い靄は液体のような形状から獣のような姿へと変化していきながら地面を這い回り始める。恵一は恐怖を感じつつも拳を握り締めてその目を開かせた。


「俺にだってできること……!」

「待って!! 私はまだ貴方たちに加護を与えてない! だからまずは周りの状況を――!」


 しかし、恵一の目に映ったのは横転した車の下敷きになった子供が血だらけで倒れている姿だった。彼はエマの言葉を無視して靄に向かって駆け出す。


 彼の中で湧き上がる何かが彼を迷いなく突き動かしたのだ。


 その時、エマは恵一を強く呼び止めた。


「恵一やめて!! 無謀な行動は絶対にしないで!!」

「それでもよォ――!!」


 その瞬間、もやは恵一に向かって飛び掛かってきた。

恵一は恐怖に凍りつき、次の瞬間には靄がその体を包み込んだ。


 視界が狭まる中、同時に体全身に火傷やけどのような痛みが襲ってきた。


 痛みは強くなって体中へと広がり遂には全身を包み込むと靄は液体のようにボチャボチャと音を立てて地面に落ちていき、豹変した恵一の姿がエマの瞳に映った。


 その姿は足と手に青黒い鋼の鎧から樋爪が生えたような四肢に顔には青と赤の狼のような仮面が装着されており、左右の目はそれぞれ三つずつ赤黒く光っている。彼の姿はまさに神話の獣のようであった。


「恵一!!?」


 エマは驚愕しながら彼を見つめた。彼女の手からはトップに赤い宝石が埋め込まれた神々しい長杖ながづえが現れ、力強い光を放ちながら恵一に向かってゆっくりと向けた。


「お願い、戻ってきて!!」


 完全に自我を失った恵一は尋常ではない叫び声を張り上げた。その声は彼の内に潜む狂気と力の結晶であり、周囲の空気はビリビリと電撃が走るように震えていた。駅の構造物の窓ガラスが全て割れ、地面がひび割れる程の威力だった。


「グォオオオオオオオッ!!!」


 彼の叫声は怒号のように響き渡り、影が彼の周りで渦巻いている。


これは……『螺旋塔都市ティンダロスの猟犬』の呪い!! 恵一を浸食して取り殺そうとしてるのね!!


 エマは心の中で焦りを覚えつつも杖を強く握りしめる。


「私は貴方を救って魅せる!! 神の実力に屈しなさい!!」


 エマが杖を振りかざすと青白い光が鎖へと形を変えて変異した恵一の周りを取り囲んだ。そして鎖は瞬時に捕らえようとするが恵一は拘束される寸前に姿を消した。


「なッ!?」


 エマが驚愕きょうがくしたその刹那せつな、恵一は風一つ揺らがない程の速度でエマの背後をとっていたのだ。彼の赤黒く光る目がエマを見下ろし、獲物を狙う獣のように唸り声を上げる。


速いっ――けど……!!

「こっちの方が先手よ!!」


 エマは自身に結界を張り巡らせて守りの姿勢を取った。だが、恵一の鋭い鉤爪が結界に激しくぶつかると重音と衝撃波が響き渡り、結界はガラスが砕けるように粉々に崩れ去った。衝撃でバランスを崩したエマは恵一に蹴りを真正面から食らい、吹き飛ばされてしまう。


「ぐっ……!!」


 エマの体は宙を驚異的な速さで近くにあった横転した車に叩きつけられた。車体が軋む音とともに彼女の体が地面に崩れ落ちる。エマは苦痛に顔を歪めながらも必死に立ち上がろうとするがその視界はかすみ、意識が遠のきそうになった。


「恵一、私は貴方を傷つけたくない。 だから……貴方自身が抑えるしかないの!」


 しかし、恵一の表情は冷たく彼女の声が届いていないようだった。完全に支配されて理性を失った彼の姿はか残酷に狩る獣そのもの。彼の鉤爪が再びエマに向かってゆっくりと近づいてくる。


どうすれば良いの……このままじゃ…………!


 エマの心に焦りが積もる。彼を元に戻す手立ては果たしてあるのか。


 すると駅で向かう途中、恵一が自身の迷いを捨てる決意をした顔を思い出すと自然と体が立ち上がった。


「恵一、……貴方の覚悟に私も動かされたわ!」


 エマは深く息を吸い込むと自分の頬をつねって覚悟を決めた。全身に魔力を漲らせ、瞬時に自分を回復させると体勢を立て直し、意を決して恵一に向かって走り出した。


 恵一の冷酷な瞳が彼女を捉えると鋭い鉤爪を振り上げる。その動きに合わせて空間を切り裂く六つの斬撃がエマに向かって放たれた。


けないわよ!!」


 エマは一直線に走りながら腕をかざして結界を張る。斬撃が結界に激突して鋭い音とともに激しい光の残像が走る。結界がきしむ音がする中、彼女はその一瞬を逃さず、恵一との距離を詰めた。


 そして、至近距離で杖を構えて全魔力を込めた一撃を放った。


 杖から放たれた強烈な光が恵一の体を貫通した。青黒い鎧がひび割れ、彼の体は激しく震える。恵一は苦痛に歪んだ表情で倒れ込み、絶叫を上げながらもがき苦しむ。


 背中から濃い靄が立ち上るとやがてティンダロスの猟犬がその姿を現した。


 暗黒の視線がエマを射抜くように睨みつけたがその身体は徐々に砂のように崩れ、風に流されて消えていった。


 エマは息を切らしながら倒れた恵一に近づき、その手をそっと握りしめた。彼の表情は安らかになるといつもの姿に戻ったかのように静かだった。


「……戻ってくれたのね、恵一」


 エマの目には安堵の涙が浮かび、彼女の心は静かな喜びに満ちていた。


 しばらくして恵一がうっすらと目を開け、ゆっくりと起き上がった。しかし、体を動かすたびに焼けつくような激しい痛みが全身を駆け巡り、彼は苦しそうに息を漏らした。


「がっ……ア”ァ”!?」


 両腕で自分を抱きしめるようにして痛みに耐えているといつの間にか赤黒い痣のような模様が肌に浮かび上がるとじわじわ指先にまで広がっていく。


「んだよコレッ……!」

ティンダロスの猟犬は倒した筈……いや、呪いだけ恵一に付けて逃げたのね!!


 ティンダロスの猟犬の呪いが再び恵一の体を蝕んでいるのだと気付いたエマは毅然きぜんとした表情で彼の背中に回って思い切り手のひらで彼の背中を叩いた。


 その衝撃とともに恵一の体に広がっていた痣が一瞬にして消え、呪いの進行も止まった。


「エマ、助けてくれてありがとう。 痛かったけどな……」

「それはゴメン」


 恵一はかすれた声で呟いたがエマはそれを聞くと笑みを浮かべて彼を見つめた。


「呪いなんて私が何度でも抑えてみせるわ。 でも、もう無茶はしないでよ?」


 恵一は痛みの残る体を支えながら頷いた。ティンダロスの猟犬が完全に消滅した訳ではないという不安がまだ胸の奥に残っていたがエマの強い意志と温かい励ましに支えられて少しだけ心が軽くなった気がした。


 それから二人は神楽や紗彩のもとへ戻るため、素早く駆け出した。街路を駆け抜ける二人の姿をビルの上から見下ろす影があったが彼らはそれに気付くことはなかった。その影はじっと彼らの一挙一動を観察しているようだった。


「あれが月詠様つくよみさまの言ってた女神か。 それにあの少年……ティンダロスの猟犬の呪いに耐えたなんて、なんとも不思議な世界だな」


 一方で神楽と紗彩は数えきれないほどの幻影魂に囲まれていた。紗彩は霊を祓う専門の組織【祓屋はらいや】の一員として『魂魄こんぱく』を自在に操り、慣れた手つきで幻影魂に対抗していた。幻影魂が空中を飛び交っては次々に紗彩は拳に霊力を籠めて祓っていくがそれでも数が多すぎてまったく追いつかない。


 神楽は強靭きょうじんな拳で次々と幻影魂を叩きのめしていたが湧き出るように現れる霊に対していくら殴ってもキリがないと感じた。額には汗が滲み、呼吸も荒くなってきた。


「クソッ! どこまで湧いてくるんだ……!!」

「感情的になっちゃダメ! 落ち着いて対処するの!」


 状況が徐々に悪化して二人の戦意が削がれつつあったその時、不意に空気が張り詰め凍りつくような寒気が周囲を包み込んだ。


 紗彩が瞬きをすると同時に目の前に現れたのは浅緑色の長髪に大きな角が二本頭から突き出ており、額には第三の眼のような模様が描かれている見た目で露出の多い和服には鋭い線や模様が施されていて腕や足には赤い刺青のような模様があり、手と足の一部も黒く塗られている異質な妖気を放つ幼い鬼のようだった。


 鬼は重々しく地面に足をつけてその一挙一動が地響きを引き起こす。虎のような牙を剥き出しにし、鋭い目つきで二人を睨みつける。その恐怖に紗彩と神楽は体が硬直してしまっていた。


何あの……とんでもない殺気で体が縛られてるみたい……!

体が動かねぇ……!? 声も出せねぇし動かなければ死ぬのがわかる!!


 神楽は咄嗟に身構え、紗彩も自身を強化しながら背筋を伸ばして鬼を見据えた。今目の前の存在が圧倒的で幻影魂とは桁違いの力を感じさせていた。


 すると鬼はゆっくりと小さな口を開いた。


「我はぬえ。 術師によって封印されていた鬼神きしんじゃ」

鬼神だって!?


 その瞬間、周りに群がっていた幻影魂が一斉に鵺へと襲いかかった。


 鵺は動じること無く、一振りでその群れを手で振り払った。


 その動作だけで幻影魂は霧散して後ろの建物は地響きと共に瓦礫と化して崩れ落ちた。


 神楽と紗彩は鵺の力の凄まじさに息を呑み、目の前で繰り広げられる圧倒的な破壊に一瞬立ち尽くしたがすぐに気を引き締め戦闘態勢を取った。


「なんて力だ……!」


 神楽が額に汗を浮かべながら呟く。


「今まで以上に恐ろしい……」


 紗彩も緊張した表情で拳を構え直し、鵺に意識を集中させる。


 鵺は余裕の表情を崩さずに二人に向かって歩みを進める。空気が張り詰め、二人に圧力がのしかかる中、背後から風が駆け抜けて恵一とエマが現れた。恵一を見た鵺は一瞬目を細めたが次の瞬間には素早く後退し、距離を取った。


「まさか神が人間と行動するとはどういう風の吹き回しじゃ?」


 鵺は不敵な笑みを浮かべながら静かに構えを取り直す。


 恵一は神楽と紗彩が無事であることに安堵の表情を浮かべた。そしてエマに向かって視線を送り、軽く肩に手を置いた。


「なぁアイツは?」

「まぁ、神に近い存在かな」


 その答えに恵一は黙って頷いて握りしめた拳に力を込める。すると体中に再び、痣がゆっくりと現れ始めていた。


 鵺はその様子を見ながら静かに口元を緩めた。


「我は数千年間封印されて退屈だったんだぞ。 ……楽しませて貰わなければ困る」


 その言葉が終わるや否や鵺の周りに再び重圧のある気配が立ち込め、周囲の瓦礫が音を立てて震え始めた。神楽と紗彩も戦闘体勢を整えエマは魔法の杖を構え直し、恵一の顔にバキバキッ!と音を立ててティンダロスの猟犬の仮面が浸食していく。


 その姿に神楽と紗彩は驚いた顔を隠しきれずに表に出てしまい、エマがこちらへ向くとむすっとした顔で怒り始めた。


「なんで変身してんのよ!!?」

「えっ……あ、ホントじゃん!?」


 だがバリンッ!とガラスが割れた音と共に仮面は砕け散って元の姿に戻ってしまった。


……上手くいかねぇな。ティンダロスの猟犬ってあんなにも狂暴なんだな。でももし、コイツの呪いを俺が制御出来たら使えるかもしれねぇ。




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