第28話 戦わずして勝つ

 アリシアが広げた戦略図面を見た瞬間、ルミナスセレーナはその圧倒的な兵力差と不利な地形に思わず息を飲んだ。戦術に詳しくない彼女でも、この盤面で戦争になれば多大な犠牲が出るのは明らかだった。


 一瞬、ルミナスセレーナの脳裏に戦略家としての知識が足りない焦りがよぎる。


(5倍の兵力差? そして防衛に不利な地形……これを私に覆してみろというの?)


 ——実はこの盤面、ラインハルト家の模擬戦の中でも最も攻略困難とされる超難問。アリシアも、ルミナスが答えられるとは思ってないない。だが、この知恵者がどう立ち回るのか試してみたくなった。


「えっとアリシア様、レディ・ルミナスは婚活コンシェルジュですよ! こんなことは……」


 あまりに唐突なアリシアの提案に、バイオレットがルミナスセレーナを庇おうとしたが、ルミナスセレーナはすっと手をかざして彼女を制止した。


 ルミナスセレーナは一瞬だけ目を閉じ、自分の中の記憶を探った。


(婚活術の参考にと思って、タイトルに釣られて読んだあの本……『孫子の兵法に学ぶ恋愛術』。あれが今の状況に応用できるかもしれない)


 ルミナスはゆっくりと目を開き、アリシアをまっすぐに見据えた。


「……敵を知り、己を知れば百戦危うからず」


 静かに、しかし確信を持って言葉を放つセレーナ。その言葉に、アリシアがわずかに眉を上げ、興味深そうに口元を歪めた。


 アリシアの赤い瞳が鋭く輝き、ルミナスに焦点を定めると、その話しに聴き入った。


「まずは、敵の実情を徹底的に把握する必要があります。相手の強みと弱み、補給線の状態、兵士の士気……そしてこちらの強みも把握します。」


「ほう、それで……」


「地形に不利があるなら、逆にそれを利用する手だってある。たとえば、敵をこちらの緩やかな谷間を通る狭い回廊に誘い込み、数という強みを打ち消す戦法です」

(具体的な戦略は……桶狭間の戦いを参考にするわ)


 アリシアは目を細め、図面に再び視線を落とした。彼女の指がテーブルの上で無意識に動き、兵士を操るかのようにラインをなぞる。だが、その顔にはまだ疑念が浮かんでいる。


「ふん……そんな不利な地形に大群で飛び込む馬鹿な将がいるかな?」


 その言葉には挑発の色が混じっていた。しかし、ルミナスは落ち着いて微笑む。


「敵を知り、己を知っていれば可能です」


「では、具体的にどうするというのだ?」


「まず最初は攻撃を仕掛けては逃げての負けを繰り返します」


「わざわざ負けて逃げろと?」


「はい、そうやって相手を油断させ、こちらを御し易い小心者と思わせ追わせるのです、勝ちを確信し功を焦る集団が全体を引き連れる勢いを生みます、気がついた時にはここに誘い込まれている」


「なるほど……勢いか」


「善く戦う者は、勢いをつくり出せる。つまり自ら状況を作り、運に頼らずに勝利を得るものです。この盤面で最も重要なのは相手の勢い使って誘い込み、逆にこちらの勢いをつくることです」


 ルミナスの目が戦略図から離れ、再びアリシアに向けられる。彼女の言葉は静かだが、そこには確固たる自信が漂っていた。


「『勢い』とは、一度作り出すと誰にも止められない流れのことです。多勢になるほど制御し難い。しかも一度止まった勢いは簡単には戻らない。つまり『勢い』を利用することで、こちらは最小限の力で敵を動かす事も、止める事もできるのです」


 アリシアは腕を組み、目を細めながらルミナスの言葉を吟味するように聞いていた。彼女は背筋を伸ばし、少しだけ体を前に傾けた。ルミナスの理論に耳を傾けながらも、何かを試しているかのようだった。


「……ほう、確かに悪くない考えだ。」


 アリシアの表情にわずかな変化が現れた。その目が再び戦略図に向かい、何かを考え込むように動きが止まる。


 セレーナはその瞬間を逃さず、さらに言葉を紡いだ。


「敵を知り、己を知れば『戦わずして勝つ』状況を作れます。力の全面衝突を避けつつ、敵が自ら崩壊する状況へ誘い込めば、力で直接戦うより、圧倒的に被害を抑えられます」


 アリシアは無言でテーブルに手を置いた。彼女の瞳が少し柔らかくなり、その口元に微かな笑みが浮かんだ。しかし、その笑みには疑念の影も潜んでいた。


「……戦わずして勝つ、だと?」


 彼女はゆっくりとアリシアを見上げ、その言葉を自分の中で何度も反芻しているようだった。アリシアが今まで相談してきた参謀や戦略家の誰もが、力で勝つことを前提に話を進めてきた。だが目の前のルミナスは、全く別の次元からのアプローチを提示している。


 アリシアは椅子に体を戻し、しばらく天井を見上げたまま考え込んだ。彼女の指が軽くテーブルの端を叩く音が、静かな部屋に響いた。


「だが、それが可能だという根拠はあるのか?そんな戦略、現実に通じるのか?」


 その問いに対し、ルミナスはゆっくりと頷いた。


「作るのです。私の師(孫子だけど)曰く、『勝ち易きに勝つ者は、勝者の情なり』と。勝てる状況を作り出し、相手の自滅を待つ。それが真の戦略です」


 ルミナスの言葉はまるで沈黙を打ち破るように、静かだが重く響いた。アリシアは一瞬目を閉じ、深く息を吸い込んだ。


 隣で聞いていたバイオレットは、まったく話についていけず、愛想笑いを浮かべたままひたすら頷いていた。

(ねえ、二人は一体何の話しをしてるのよ……)


「……面白い、レディ・ルミナス。そんな発想をする者は、これまで誰一人いなかった。戦わずして勝つ……これは私の知識にもない考え方だ」


 その言葉には、アリシアの驚きと、ルミナスへの新たな敬意が込められていた。彼女は椅子から立ち上がり、ルミナスに歩み寄る。


 その瞳は、興味と挑戦の入り混じった光を帯びていた。


「ですよね!セ、あ、ルミナスは本当にすごいんですよ! 賢くて、聡明で、それでいて……」


「バイオレット、ちょっと静かにしててね」


 興奮気味のバイオレットをルミナスセレーナが言葉の圧で黙らせると、彼女は放心したような笑顔で沈黙した。アリシアはそのやり取りを見て笑い、再びセレーナに向き直った。


「はははは、面白い。もう少し話してみたくなった。どうやらアンタ、ただのコンシェルジュじゃなさそうだな」


 ルミナスセレーナは微笑み、軽く一礼した。


「お任せください、アリシア様。『戦わずして勝つ』共にその道を模索していきましょう」


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る