第6話 うちのメイドが尊過ぎます

 

 ——セレーナは、豪華な屋敷の一室で書類をめくりながら、眉をひそめていた。


 異世界に転生し、フォルスター侯爵家の令嬢となってから数日が経った。異世界の貴族社会の複雑なルールや権力争いに加え、前世ではなかった膨大な財産の管理も加わり、彼女は一歩ずつ慎重に情報を整理していた。


(ここまでの情報は集まったけど、まだ足りない。特に、王家とフォルスター家の関係……)


 彼女は再びページに目をやり、侯爵家の膨大な資産目録や歴史を読み進める。フォルスター家がいかにしてこの地位に上り詰めたか、その裏にはかなりの策略と犠牲があったようだ。


 (王家の前では……うかつな行動を避けたほうが良さそうね)


「お嬢様、紅茶をお持ちしました」


 ドアを軽くノックして現れたのは、メイドのアリサだった。彼女は純朴で忠実な存在であり、転生後のセレーナにとっても数少ない信頼できる人物だった。無邪気で誠実、そしてどこか頼りない部分もあるが、その優しさにセレーナは次第に心を許していた。


「ありがとう、アリサ。少し休憩しようかしら」


 セレーナは紅茶を受け取り、そっと口に含む。フルーティーな香りが口の中に広がると、心が少しだけ軽くなる気がした。


「お嬢様、最近なんだかお変わりになったように感じます。以前はもっと……こう、厳しくて、近寄りがたい雰囲気でしたけど、今はすごく優しくて……」


 アリサが口にした言葉に、セレーナは一瞬ぎくりとした。転生者である自分の正体がバレることを恐れて、一瞬身構えたが、アリサは無邪気に微笑んでいる。


「……そうかしら?昔の私は、そんなに怖かった?」


「はい!でも、今のお嬢様は違います。すごくお優しいですし……それに、なんだか考え深くなられました」


 アリサは本当に無垢な笑顔を見せてくる。その純粋さに、セレーナは心の中で安堵すると同時に、少しだけ感謝の気持ちが湧いてきた。


(そりゃまあ……転生前のセレーナとは別人だものね。でも、アリサにとってはそれが良い変化だったなら、良かったのかな。)


「それは……ありがとう、アリサ。あなたも、よく私に尽くしてくれて感謝してる」


「そんな、恐れ多いです!でも……お嬢様は、私にとって何より大切なお方ですから!」


 アリサは一生懸命な表情でそう言った。セレーナは一瞬、戸惑った。彼女にとっての「主人」としての立場が、単なる社会的な上下関係を超えて、彼女の中に何か別の感情をもたらしたのだ。


(……こんな風に、無条件で私を信じてくれる存在がいるなんて、前の人生では想像もできなかったな)


 セレーナは感慨深く、そして少し寂しげに微笑んだ。


 転生前の真奈美は、人間不信の中で生きてきたが、今はそんな自分にも心から信頼できる人間がいる。それが温かくも不思議な感覚だった。


「ねえ、アリサ。少し聞きたいんだけど、バイオレット令嬢について、あなたはどう思ってる?」


 セレーナはふと思い立ち、尋ねてみた。バイオレット令嬢——この世界での「物語の主人公」であり、多くの人々から愛されている存在だということは知っている。だが、その実態がどうなのか、自分の目で確かめる前に信頼できる人物から聞き出しておきたかった。


「バイオレットお嬢様ですか……」


 アリサは一瞬戸惑ったように眉を寄せたが、すぐに答えた。


「とても優しくて、たくさんの方々に慕われているお方です。いつも微笑んでいて、お上品で……私はあまりお近づきになったことはありませんが、皆さんにすごく愛されています」


「そう……皆に愛されるお嬢様、ね」


 セレーナは眉間に薬指を当て、考え込んだ。優しく、愛される令嬢か。しかし、セレーナはその洞察力で、アリサの表情に隠れる微妙な違和感を察知していた。


(でも、この子にしては珍しく本音を隠したわね)


「アリサ。怒らないから正直に言って。あなたはバイオレットが好きじゃないんじゃない?」


 アリサはその問いに驚いた顔をしたが、すぐに視線を伏せた。


「そ、そんなことは……ただ、少し……苦手というか……」


「それは……どうして?」


「それは……うまく説明できません。バイオレット様は本当に優しい方なんです。ただ……私には、どこか、少し怖いんです」


 アリサは言葉を選びながら、どう伝えるべきか悩んでいる様子だった。セレーナはその言葉に敏感に反応した。直感的に、バイオレットの表面上の優しさの裏に何かがあると読み取った、それは——影のような何か。


「ねえ……バイオレットの側には、誰が就いているんだっけ?」


「ええと……執事の、セバスチャン様です」


 セレーナの心臓が一瞬強く脈打った。


(セバスチャン……)


 頭の中で記憶を辿る。セバスチャンという名を聞いた瞬間、その姿が鮮明に蘇った。以前のセレーナの記憶の中でも、彼はいつもバイオレットの傍にいて、何を考えているのか一切読めない男だ。自分の洞察力を持ってしても、どのシーンでも表情の奥が見えないのだ。


「アリサ、セバスチャンって……あなたから見て、どんな人?」


「うーん……そうですねぇ。冷静で、どんな時でもバイオレット様に尽くす方です。でも……なんというか、少し怖いんです。私、あの方の前ではいつも緊張しちゃって……笑っていても、笑ってないみたいな……すみません、うまく言えなくて」


(そうか——、セバスチャン……か、違和感の正体は。)


 セレーナは新たな疑念が浮かび上がるのを感じた。彼の冷静さと優雅さ、そして謎めいた存在感。自分が陥れられるとして、その背後に誰がいるのか?自然とセバスチャンの顔が頭に浮かんだ。


 その時、ドアが再びノックされた。執事が控えめな声で報告する。


「お嬢様、王城から舞踏会の招待状が届きました」


 セレーナは手渡された封書を見つめた。そして、その封を切って内容を確認すると、心の中に新たな警戒心が芽生えた。そこには、アルト・デュラハンとの婚約者として彼女が王城に招かれることが記されていたのだ。


(なるほど……そういうことね。でもあのアルトがこれを考える?もしかしたら……セバスチャンが関わってるかもしれないわね)


 セレーナは鋭い目で招待状を見つめながら、深く息を吸い込んだ。


(私を陥れようったって、そうはいかないわよ。これが『駆け引きゲーム』なら、私は全力で勝つわ。さて、どう出ようか……)


 セレーナは頭の中で次なる手を計算し始めた。そして、その計略を胸に秘めながら、舞踏会の準備を進めるため、アリサに指示を出した。

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