魔王の娘と老魔術師②
小部屋から出てきた彼女の出で立ちは、いつものボロ布ではなくなっていた。
インナーは綿製の黒無地。黒の外套はフード付きでその内側は濃い赤。ホットパンツからは白い肌が伸びており、太股には装飾品として銀色のリングが付けられている。
それらは彼女から言われてウェゼンが用意したものだ。だがいざ着ている姿を目の当たりにすると、普段の姿からは想像できない小奇麗さが際立ち、思わず言葉を失う。
「……どうしたウェゼン。何か言いたそうな顔をしておるな」
「ああ、いや。最近歳でな。ぼうっとしてしまうことが多い。どうにも、疲れが溜まりやすくなってしまってるみたいだ」
シリウスが出てきた小部屋を横目で覗き見る。
薄暗くて詳しくは分からない。
しかしその断片であっても、長く魔術を研究してきたウェゼンには分かってしまった。無数の幾何学模様に魔術的記号。何度も消して、何度も描き、イメージして魔術をその身に定着させる。
魔術の鍛錬の後が垣間見えて、色々と指導した身としてはつい頬を緩ませてしまう。
「なんだ、今度は嬉しそうな顔をしておる」
「これも歳のせいだよ。ほら、行くぞ」
そうして二人は地下聖堂を後にする。
シリウスもまたウェゼンのことをよく見ていた。
浮かない顔をしていれば心配してくれるし、ニヤニヤしていればそのワケを尋ねてくる。とても魔獣と同族であるとは思えないほどに人間臭く、この十年間飽きることはなかった。
しかしその時間ももう終わる。来た時の階段を上り、魔王城跡地へと躍り出た。
深く広大な蒼穹が二人を出迎えてくれる。爽やかな風が吹き、そこが戦場跡地だと感じさせないほどに長閑な光景だった。
「ウェゼン、お主と知り合って何年になる?」
「十年だな。お前さんが勇者たちを探すと宣言してからの年数でもある」
「そうか、もうそれほど経つか。長いようで短かった。……しかし、改めてよく余を育てようと思ったな」
「ああ、お前さんを見つけた時は驚いた。まさか魔王に十二人目の子がいるとは知らなかったしな。育てようと思った理由は、まあ色々とある。シリウスにとっては迷惑だったかもしれんがな」
何気ない会話、いつも通りのやり取り。そのはずなのに、一つ言葉を交わす毎に後悔の芽が発露する。
風が撫でていった。背中を押すように。歩みを促すように。
「迷惑などではない。お主がいなければ、今の余はないのだからな。――今まで、世話になった。礼を言う」
「そうだな。それなりに世話を焼いてきた。生活の基本から、魔術の真髄まで。私に教えられることは全て伝えてきたつもりだ。――そして、これが最後のお節介だ」
取り出したのは一つの髪留め。金色に輝く羽の装飾があしらわれているそれを、シリウスは手に取り静かに握り締めた。
「……お主がこんな気の利いたことができるとはな」
「いつもできていたつもりだったんだが」
ウェゼンは苦笑し、シリウスに背を向けて歩き始める。これ以上、話してしまうと決断が鈍ってしまう。
にもかかわらず、胸から溢れる言葉を止めることができない。
「シリウス、私を恨んでいるか?」
「当然だろう。父を追い詰めた張本人たちに、殺意を抱かなかった日はない。それは今も変わらん。ウェゼン、お主とて例外ではない」
「だろうな。無論許してもらおうなんて、思っていない」
その罪を背負って、生きてきた。どれだけシリウスに対して罪の精算をしても、彼女の父は帰ってこない。それが分かっているからこそ、その話題をしても意味がないからこそ、これまでしてこなかった。
それが対話の拒否で、逃避に過ぎないことは理解している。踏み込むことが、直接答えを聞くことが、己の罪を改めて知ることが、怖かったのかもしれない。
だから、シリウスの次の言葉に思わず振り返っていた。
「だが、父はそれすらも許すだろう。父は、魔王は――、人間を愛していたからな。故に、余もウェゼンを許そう」
「シリウス……」
王とは、力持つ者ではない。民に認められた者でもない。
王とは、感情に流されず寛大な精神を持つ規範となる者だ。
父とは、ただ生みの親というわけではない。
父とは、子にその生き様と理念を見せつける者だ。
そして彼女は、魔王の意志を受け継ぐ者。
それを十分に理解してしまった。
「自分だけが幸せであることが、こんなにも辛いとはな」
ポツリと、そう呟く。
時代は生まれ変わった。ウェゼンも自身が古い人間であることを自覚している。そろそろ潮時なのだろう。
「――? ウェゼン?」
「すまない、シリウス。本当はもっと未来のある別れをしたかったんだがな」
シリウスが何か言葉を発する前に。
ウェゼンがその決意を緩めてしまう前に。
耳をつんざく轟音と共に、その場で閃光が炸裂した。
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