第2話 経口補水液と、ツナトマトそうめん

 熱中症になった人の対応というものにはマニュアルがある。

 まず意識がなかったら重症なのですぐに救急車を呼ぶ。

 意識があっても呼びかけに応えなかったり、自力で飲み物を飲めなかったりしたときも同じく救急車コースだ。


 意識があって、なおかつ自力で飲み物を補給できそうなときは、水分補給をさせて涼しい部屋で休ませることが大切。

 軽度の熱中症ならこれである程度回復ができる。


 ……って、職場で貰った熱中症対策のパンフレットに書いていたことを私はふと思い返す。

 このときばかりは総務課に勤めていて良かったなと思った。普段は昼行灯とか言われているけれども。


「とりあえず入って。うちの中は涼しいから、ちょっと休んでて」

「……は、はい」


 私は配達員の彼を自宅の玄関ホールに招き入れ、休ませることにした。  

 幸い意識もあって受け答えもできるみたいだ。

 となると私が対処べきことはひとつ。彼に水分を与えること。


 ここで普通の水をあげてしまうとかえって脱水症状が悪化してしまう。

 今の彼は汗を大量にかいて水分だけでなく塩分も失っている状態だ。

 この状態で水分だけを与えてしまうと塩分不足のため体内で水分を保持できず、脱水症状が進行する。なので塩分と水分を両方補給できる飲み物が必要になる。


 パッと思いつくのはスポーツドリンクだけれども、あいにく我が家にはその用意がない。

 それならば……。

 

 私はキッチンに立ち、いつも麦茶を入れているピッチャーを用意した。

 その中に水を一リットル、上白糖を四十グラム、食塩を三グラム、あとは飲みやすくなるようにレモン果汁を数滴垂らす。

 撹拌して塩や砂糖を溶かし終えたら、お手製経口補水液の完成。

 ドラッグストアなどで売っている経口補水液と比べても塩分や糖分の割合が近く、脱水状態には効果抜群。


 ……どうして知っているかって?

 それは私が会社で『衛生管理者』という立場をこなしているから。

 

 ある程度の規模の事業所には必ず配置しないと行けない役職で、資格も必要。

 大切な役割であるのだからもうちょっと給料を上げてほしいなと思うのは、最近の私のぼやきである。


 そんなことはさておき、私は経口補水液の入ったピッチャーとコップを持って玄関へと向かう。


「とりあえずこれを飲んで。水分補給しないと」

「あ……ありがとうございます……」


 辛そうな表情の彼にコップに注いだそれを渡すと、勢いよく飲み干した。


「そんなに慌てないでね。一気に飲んでむせちゃったら大変だから」

「大丈夫っす……。あの、もう一杯もらっていいっすか……」

「うんうん、全部飲んでいいからゆっくり休んで。身体を冷やす用の保冷剤も持ってくるね」

「すみません……ありがとうございます……」


 再びキッチンに戻り冷凍庫の扉を開ける。

 ケーキを買うときについてくる小さな保冷剤が、庫内の片隅に数個転がっていた。

 普段はお弁当袋の中身を冷やすために使ったりする。まさか保冷剤自身も、こんな出番が来るとは思ってもいなかっただろう。


 それを二つ取り出して不織布のガーゼにくるむ。

 玄関に戻って、彼の手にそれを握らせた。


「これ、握っておいて。手のひらを冷やすとね、効率よく身体を冷やせるから」

「は……はい……」


 経口補水液の補給、エアコン、扇風機、保冷剤。これだけやれば軽度の熱中症ならすぐに回復してくる。

 容態を観察しながら付き添っていると、だんだん彼の表情が穏やかになってきた。


 ……というか全然気にしていなかったけれど、この配達員さんはかなりの美形だ。


 見た感じは二十歳そこそこ、大学生くらい。

 ホストとか水商売系っぽいチャラさはなく、正統派の俳優さんみたいだった。

 それこそ、さっきまで見ていた映画のヒーロー役に似たような雰囲気を持っている。

 

 顔のパーツのどこを切り取っても整っていて、これは芸能プロダクションも黙ってはいないなというイケメンだ。

「自分、役者やってるんすよね」と自己紹介されても違和感がない。


「どう……? 調子は戻ってきた?」

「……はい、だいぶ楽になりました。ありがとうございます」

「そっか、よかった……。救急車が必要なくらいの重症じゃなくて……」


 私は胸を撫で下ろす。

 家の前で人が倒れて救急車で運ばれるのはなんとも後味が悪いので、彼が無事で本当によかった。

 

 ふと、お腹の鳴る音がした。

 一瞬、お昼時を迎えた私の腹の虫が騒ぎ始めたと思ってしまったが、どうやら音の主は彼の方らしい。

 

 端正な彼の顔が今度は恥ずかしさで赤く染まる。ちょっと子供っぽくてかわいい。

 体調がもとに戻ってきて正常にお腹が空きはじめたのだろう。順調に回復している何よりの証拠だ。


「……すみません」

「ううん、ちゃんと体調が回復している証拠だよ。それより、お昼ごはん食べる?」

「い、いや、さすがに熱中症でぶっ倒れているところを助けてもらって、さらにメシまでなんて申し訳ないっすよ」

「いいのいいのそんなの。というより君、朝ごはんは食べた? もしかして食べてないんじゃない?」

「そ、それは……、はい、そうですね……」

「やっぱり」

「すみません、朝メシを食う時間がなくて……」


 彼は言いづらそうに朝から何も食べていないことを打ち明ける。

 おそらく夜ふかしをしていたのだろう。朝ギリギリまで寝ていれば、自ずと朝食もおろそかになる。

 

「気持ちはわかるけどね。朝ごはんを抜くと、熱中症になりやすくなるんだよ。炎天下で配達の仕事をするなら朝ごはんを食べないとダメだよ?」

「は、はい……」

「そういうわけで昼ごはんくらいはちゃんと食べようね。何か作るから待ってて」

 

 私は彼をリビングに招き入れ、再びキッチンに立つ。


「ええっと、食べられないものとかはある?」

「い、いえ、全然無いです。なんでも食えます!」

「そう。なら助かる」

 

 冷蔵庫の中身をみると、食材は豊富にあるとは言い難い。まあでも、昼ごはんくらいならなんとかなる。


 冷蔵庫からトマトを、戸棚からツナ缶とそうめんを取り出した。

 鍋に水を入れてそうめんを茹でるための湯を沸かす。彼がどの程度食べるのかわからないけれども、そうめんであれば量の調整がしやすい。余っても私の夕飯に生まれ変わるだけだ。


 沸かした湯に梅干しを一粒入れる。

 こうすることで湯が酸性になり、そうめんからデンプン質が溶け出しにくくなるので、茹で上がったときにコシが出る。


 麺を茹でている一分半の間に、トマトを一センチ角切り、油ごとツナ缶と和える。そしてめんつゆ、すりごま、砂糖、塩で味を整えれば、これで具の完成。


 茹で上がったそうめんを湯切り、水で〆たら皿に盛り付けて、先ほどのツナトマトを乗せる。

 最後に刻んだネギと風味付けにごま油を垂らせば完成だ。


 暑い夏にピッタリの『ツナトマトそうめん』を召し上がれ。

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