第31話 穏やかな朝にスクランブルエッグを添えて

 朝のホームルームが始まる前のこと。

 自席で本を読んでいた俺のもとにでかい乳をバタバタと揺らしてメスブタさんがやってきた。メスブタさんの言うことにゃ、恋愛相談があるんだと。肩にひっかけた鞄から小さなお弁当箱を取り出して彼女はいう。


「今日のお昼、悠馬とおかず交換しようと思ってお弁当作ってきたんだけど」

「うん」


 パカっと開かれた蓋。奇天烈キャラ弁でも出てくるのかと思ったが、まあふつうだ。


「どうかな、ほとんどママに手伝ってもらったんだけど、卵焼きとかは完全にあたしだけの力」

「いいんじゃねぇの、ふつうで……卵焼きってこのスクランブルエッグのこと?」

「えー? なになに、ハチってば目が腐ってるんじゃないの〜? どっからどう見ても卵焼きでしょ〜」


 物分かりの悪い子供を憐れむような目で俺を見ながらピニャは笑った。

 間違っているのは果たして俺なのだろうか。

 ぐずぐずにほぐれた黄色の物体Xを見る。

 俺にはこれを卵焼きと呼ぶことはできない。


「……まあいいよ。それで、何を相談したいんだ?」

「あのね、悠馬とおかず交換するときに、この卵焼きあげようと思うんだ」

「……他のにすれば?」

「だめ! あたしの手料理を食べて欲しいんだもん。そこは譲りません」

「まあ確かに、せっかくだったら自分の力だけで作ったもん食べてもらいたいか」

「そうそう! 分かってんじゃん、ハチ」


 うーん、やめといた方がいいと思うけどなぁ。ピニャの目を見る。タングステンくらい硬くて頑固そうな目をしているのでどれだけ忠言しても無駄だろう。閉口していると、彼女は手作り弁当を大事そうに鞄のなかへしまって、タッパーにこんもりと盛られたスクランブルエッグを取り出す。町中華の天津飯くらいのサイズである。


「これ、お弁当のやつと同じやつ。多めに作っておいたんだ」

「多めに作りすぎだろ」


 ピニャの頬がかあと赤く染まった。ぷりぷりしながら彼女は弁明する。


「初めてだったから張り切っちゃったの! でね、これ、味見して欲しいんだ」

「俺が?」

「うん。ハチが。それで、悠馬に喜んでもらえるか判断して」

「……分かったよ。一口でいいよな?」

「もったいないから全部食べてよ」

「朝っぱらからこんな量ひとりで食えるか」

「分かった分かった、あたしも手伝うから。もう、我儘だなぁ」

「……」

「たしか部室にプラスチックのスプーンあったはずだから取ってくる! 待ってて!」

「はいよ」


 準備が悪い彼女を見送る。

 机に置かれたでけぇ卵の山。

 変な味付けだったらどうしよ。

 先の不安を抱えていると、本を読む目がよく滑る。

 もう読書はできないなと文庫本を鞄に入れた。


 ちらりと悠馬の席を見る。

 今日は傍らに日暮が引っ付いていて淑やかな微笑を浮かべていらっしゃる。朝の教室に差し込む日差しに照らされるふたりは、さながら悪の大魔王と囚われのお姫様。ふいに悠馬と目が合った。普遍的な殺人的三白眼である。初見の人間なら背筋が凍ること請け合い。まさしく死神の眼光。俺にとっては朗らかな春の陽だまりもかくやといった具合なので、むしろ心温かくなって手なんか振っちゃったりして。悠馬はそんな俺を見て、鉄面皮の表情を少し緩めて小さく手を上げた。

 

 彼の秘めたる心を知って、友情を新たにしたあの日から約二週間。

 暦はすでに五月の真ん中に差し掛かるところである。

 悠馬と俺は穏やかな関係を続けていた。


 自分のことを臆病者だと卑下して俯いた彼の心には、いまだ過去の傷がしっかりと刻み込まれている。その顔や首筋、腕や足、見えない体に至るまで苛烈に残る裂傷痕と火傷跡。そんな目に見えるものよりも、ずっと深い位置で、カサブタにもなっていないような生傷が悠馬の中でぐずついているのだ。だから俺は彼の友人として寄り添うことにした。リリアナが家族として俺に寄り添ってくれたように。悠馬の重荷にならないよう、一定の距離感を大事にして、俺は彼との交友を維持していた。


 その甲斐もあってか、以前一度だけ休日に一緒に出かけることがあった。

 稲荷山霊園への墓参りだ。俺がはじめて悠馬に話しかけた場所。すでに一度、同行しているということもあってか、彼の方から一緒に行かないかと誘ってくれたのだった。悠馬の家族に手を合わせ、彼もまた、俺の家族に手を合わせてくれた。数奇な運命で隣り合う位置にあった墓石が、並んで参拝する俺たちを見守っているように見えた。


 メスブタと目が合う。

 鳶色の瞳が過去を巡る思考を現実に引き戻した。

 規則正しく生え揃ったビスクドールのようなまつ毛をぱちつかせ、陶器のような表情で俺を見る日暮奈留。憎たらしいやら恐ろしいやら。第二文系部での問答以来、俺は彼女に苦手意識があった。


 そうだ。第二文芸部で思い出したが、恋する乙女協会とやらの恋愛アドバイザーになった俺の毎日は、そう大して変わらなかった。かつてスドバでフラッペを飲んだ時に左近寺と金井に軽く恋愛相談をされたぐらいで、積極的に俺を利用するのはピニャだけである。やれ悠馬の好きな女のタイプを聞いてこいだの、あたしのことどう思っているか聞いてこいだのと、かなり難しい依頼ばかりこちらに投げてくる。好きなタイプは「分からん」とにべもなく言われたので「優しい人」とでっち上げて教えてやると彼女はコンビニの募金箱に小銭を入れるようになった。単純な奴である。悠馬はピニャのことを「楽しいやつ」と言っていたのでその情報を横流ししたところ、それはもうだらしのない締まりのない笑顔でその日の学校ぐらしをしていた。単純な奴である。

 というわけで、接近禁止令が解かれた俺は、それなりに楽しくやっているということだ。


 いまだ視線を交わらせてくる日暮に向かってあっかんべーを差し上げる。

 彼女はそんな俺を見て鼻で笑った。

 よりムカムカし、腹を据えかねてどうしてやろうかと葛藤していたところ、思考の外側からヌッと現れた黄色い物体Xが脈絡もなく俺の口内へ不法侵入したことにより怒りが霧散する。いつの間にか帰還を果たしていたピニャがスプーンに山盛りすくったそれを俺の口へ放り込んできたのだ。出汁のよく効いたスクランブルエッグだった。味は悪くない。その正体はだし巻き卵のなれ果てだったようだ。


「どう、ハチ、あたしの卵焼き!」

「ふつうに美味いぞ。スクランブルエッグだけど」

「卵焼きだから! ほら、もっと食べて! まだまだあるよ!」

「ぶっ、ぶあっ、じ、じぶんで、じぶんのぺー、ぺーすっ、ぶもももっ!」


 俺はこの日の朝、世界ではじめてスクランブルエッグに殺されかけた人間になった。

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