第30話 傷つくくらいなら その2
階段の踊り場に並ぶふたつの自販機。
ひとつは缶とペットボトル、もうひとつは紙パック。
手塚がオレンジジュースのボタンを押した。
紙パックが落ちてくる。
「なんか飲むか?」
「いいの? じゃあ同じやつで」
「分かった。これ、先に飲んでくれ」
投げられたパックのオレンジジュースをキャッチする。礼を言ってから「いただきます」とストローを刺して一口飲む。甘酸っぱい。砂糖のたっぷり入ったものじゃなくて果汁濃度の高い本格派らしい。冷たくて、サッパリとしていて、美味かった。
「ここの自販機にしかないんだ。美味いだろ?」
「うん、美味しい」
「他の奴には教えるなよ。品切れになったら悲しいからな」
かわいいこというなぁ。
「安心してくれ、教えるような友達がいない」
肩をすくめながら手塚は言う。
「片瀬と仲良さそうに話していたじゃないか。あいつに言ったら終わりだぞ。全校生徒に知れ渡る」
「ああ、たしかに。片瀬にはぜったいに言わないように気をつけるよ」
「頼むぞ。俺の楽しみのひとつなんだ」
無愛嬌な顔をいつもの何倍も緩めながらストローを食む手塚に心癒される。
ふたりして壁にもたれかかり紙パックにしゃぶりつく。
周囲には誰もいない。昼休み、ふつうなら自販機の利用者が多くなる時間だというのに人影がないのはひとえに魔王手塚がここにいるからだ。遠くからこちらへ近づいてくる同級生が時たま現れるのだけれど、手塚の姿を見るや否やスタコラサッサと逃げ去っていく。そこにいるだけであっという間にプライベート空間だ。
しばらく黙り込んで柑橘の味わいを楽しんでいると、先にジュースを飲み終えた手塚が話し始めた。
今日の彼はやけに饒舌だ。
「朝の話の続きだ。犬神は俺に『気になる奴はいるか』って聞いていたよな?」
「うん、そうだな」
「正直に言うが、俺は色恋沙汰に興味がない。だから、気になっている奴は一人もいないよ──いや、嘘だ。強がった。お前には本当のことを言う」
壁にもたれかかったまま、ずるずると腰を下ろし、
「……俺は、臆病だ」
「臆病?」
「ああ。……犬神は知っているだろう。俺の家族が事故で亡くなったこと。俺だけがしぶとく生き残ったこと」
「……しぶとくなんて悲しい言い方するなよ」
そんな言い方、まるで死ぬことが当然だったみたいじゃないか。生きていたことが悪いことみたいな言い草じゃないか。思わず強い眼差しを手塚に送っていたらしい。彼は俺の顔を見て、バツが悪いそうに俯いた。
「そうだな、悪い。どうしても過去を思うと卑屈になる」
裂傷跡の残る首筋に手を当てた手塚が遠い目をしてそう言った。
かつて稲荷山霊園で知った彼の家族にまつわる話。キャンプの帰り、車の事故で彼は両親と弟を失った。寄るべを失った彼は叔母に引き取られはしたが、形成されていた叔母家族のコミュニティに馴染むことができず、高校入学と同時に木造二階建てのアパートでひとり暮らしをするに至っている。小学生の頃に両親を亡くした俺と似たような境遇。けれど、そこには大きな差異があった。幸運にも俺はリリアナという新しい家族を得たが、残酷にも手塚はその悲劇の日からずっとひとりぼっちなのだ。六畳一間のリビングで誰かの帰りを待ったとしても、そこに現れる人はいない。ただいまも、おかえりも、あのアパートには響かない。
ふいにオレンジを苦く感じて、俺はちびちびとストローを吸う。
手塚が空っぽの紙パックを握りつぶした。
「俺がアパートで一人で暮らしている理由、犬神には叔母さんの家庭に馴染めなかったからって言ったよな」
「ああ、たしかそう聞いたぞ」
少し言葉を躊躇ってから、彼は語った。
「……違うんだ。……自分から望んで馴染まなかったんだ。暖かく迎え入れてくれたあの人たちを俺は拒絶した。……怖くなったんだよ。触れてしまえば大切になって失くしたときに傷つくって分かっていたから。それならはじめからない方がいい。ないものねだりを続けていた方がマシだって諦めた。そういう風に自分を守ることにした。そしてそれは、家族だけじゃない、学校の奴らに対してもだ」
神様に罪を懺悔するように天を仰いで手塚は続ける。
ただでさえ鋭い三白眼が、より一層、天井を睨みつけるように細められていた。
「あいつらが俺を憎からず思ってくれていることには気づいている。毎日、仲良くしてくれようと話しかけてくれているのも分かっている。でも、ダメなんだ。俺は臆病者だから。どうしても、ネガティブな未来を想像してしまう。傷つくくらいなら、誰も俺の心に寄せ付けたくなかった。受け入れたくなかった。永遠にあり続けるものなんてないって、嫌ってくらいに分かっていたから」
放物線を描いてゴミ箱へ向かう紙パック。
大きく開いた入口の縁にかつんと当たって、それはポトリと床に落ちた。
「俺に対するよくない噂も知っている。怖がられているのにも気づいている。けどそれは、俺にとってはちょうど良いことだった。誰も俺と仲良くしたがらないからな。……あの五人を除いて。犬神、俺はそもそも恋愛どうこうの人間じゃないんだ。人と仲良くなること自体に抵抗を感じてしまう弱い人間なんだ」
重い足取り。パックを拾った手塚が今度は丁寧にそれをゴミ箱に入れた。
「なあ、犬神。お前は強いな。お前はすごいやつだ。俺みたいに人を怖がっていない。失うことを恐れない。同じような過去を持つお前が、そういう風に生きているところを見ていると、俺はすこし前向きになれる。俺もいつかお前みたいになれるかなって、恥ずかしいけどそんなふうに考えるんだ」
だから、と彼は続ける。
「犬神が『友達になってくれ』って言ってくれた時、いつか失う怖さよりも共にいられる喜びが勝った。はじめて誰かを受け入れてみようと思った。一緒に下校したり、休日や放課後に遊ぶほどの仲になるのはまだ恐いけど、少しずつ、お前となら進める気がしたんだ」
魔王と恐れられるほどの凶悪な顔はいつの間にかどこかへと消えていて、俺の目の前にあったのは、同い年の少年の泣きそうで苦しそうな表情だった。
「付き合いは悪いし、無愛想で、無口で、この通り見た目も悪い。これからも俺は犬神が遊びに誘ってくれても臆病になって逃げ出すと思う。そんな俺でも、こんな情けない俺みたいな奴でも、お前は見限らずに友達でいてくれるか?」
なんだよそれ。
捨てられた子犬のような目で俺を見つめる手塚の体を回してこちらにケツを向けさせる。
戸惑う手塚を無視して俺はサッカーボールを蹴るように足を引いた。
「な、なんだ?」
「そぉおおいっ!」
俺はウジウジしみったれる馬鹿野郎の尻を蹴り上げてやった。
ふざけるんじゃねぇ。
お前は俺が惚れた男だぞ。
俺みたいになれるかだって?
そんな次元じゃないだろ。
お前はもっとカッコいい男になるよ。
ケツを抑えて内股で屈み込む情けない男に俺は言う。
「見限るもくそもあるかぁ! 俺はな、お前がやっと二人目の友達なんだ! 数少ない友達をそう簡単に手放してたまるかってんだ。手塚がなんで人と距離をとっているのかはちゃんと分かった。だからこそ、それを理解した上で、俺はお前とこれから友情を深めていく! お前がどれだけ怖がろうと、俺はどこまでもその背中を追いかけて仲良くしてやろうとしがみつく! 友達でいて欲しいって頼むのは俺の方だ。暑苦しくて鬱陶しいと思っても、俺はお前に付き纏ってやるからな──悠馬っ!」
もしかすると、俺にも悠馬に似た感情があったのかもしれない。だからこそ、高校二年生になるまでぼっちを貫いてきたのかもしれない。だとすると、俺の殻を破ったのは、春の陽の差す教室で一目惚れをした黒髪の少女だったのだろう。昼間瞳子。彼女のおかげで俺は吹っ切れたんだ。
そこから俺には婆ちゃんや悠馬やピニャといった大切な友人ができた。
何かきっかけがあれば、人は変わることができるんだ。
願わくば俺が、悠馬のきっかけになれるように。
そんな風に考えながら、俺はあの日と同じように、彼に拳を突き出した。
「俺たち、チーム友達」
鼻を膨らませて宣言する。
目を丸くした悠馬は我慢できないとばかりに喉を鳴らした。
「くっ、はは、ははは。感傷に浸ってる人間の尻を蹴り上げる奴が友達か?」
「当たり前だ。ふたりして落ち込んでたらジメジメしてカビが生える」
「ふっ、そりゃそうだな。……改めて、よろしく、湾太郎」
拳と拳がぶつかり合う。
俺と彼を結ぶ関係は『友達』だ。
目指すところはそこじゃない。それでも当分は、このままでいいと思う。
少なくとも悠馬が、もっと前向きになれるまでは、俺は彼のことを友達として支えていたいと思った。
恋ごころに蓋をした。
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