第32話 鼻血と拳骨

 昼飯後の体育ほどやる気のでないものはない。

 体育館。

 運動大好き少年たちが茶色い球体の虜になる様子をすこし離れた位置で眺めながら、怒られないように参加している雰囲気だけを醸す。ダムダムと床に打ちつけられるバスケットボール。角刈りのゴリラみたいなバスケ部員が本領発揮とばかりに張り切っている。重力を無理やり引き剥がすような跳躍。両手で球を抱えて叩きつけるようにダンク。見事に点をもぎ取った彼はドラミングをして喜びの雄叫びをあげた。

 むさ苦しいったらありゃしない。

 違うチームでプレーする悠馬を見る。彼にボールが渡ると決まって全員に緊張が走る。仲間も含めてだ。おそらく、バスケットボールを凶器に頭をかち割られる悪夢でも見てしまっているのだろう。恐怖に支配されたカカシ達の間をするすると抜けていき、華麗なレイアップシュートで点数を重ねていた。

 かっこいいな。

 ああいうスマートさがうちにも欲しい。

 ゴリラのパワープレイばかり見せられてみろ、胃もたれするぞ。


「うわー、悠馬かっこいい」

「わっ、びっくりした」


 体育館を分ける防球ネットの向こうから聞き馴染みのある声が響く。

 そこには桜色の瞳をハイビームくらい輝かせたピニャがいた。

 隣のコートで女子がバレーボールをしている最中なのだが、どうにも彼女はいま点数係に従事しているらしく、その身の上を利用して惚れた男がスポーツに汗を流す爽やかな姿を鑑賞しているようだった。


 そんな彼女の後ろ、試合真っ只中のコート。

 凄まじい勢いで日暮がスパイクを打ち込んでいる。昼間の顔面の横スレスレを豪速球が通過して体育館を震わせた。いつも眠たげな目をしている昼間が冷や汗を流して目をかっぴらいている。あんな殺人アタックの標的にされちゃ誰でもそうなる。さすが万能少女、彼女にできないことなんてあるのだろうか。

 日暮チームに一点追加。

 だがしかし、点数ボードは動かない。

 なぜなら従事者が堂々とサボっているから。

 恍惚の表情で思い人に熱視線を送るメスブタに声をかけてやる。


「おい、点数入ったぞ」

「悠馬、ちょっと顔が火照ってる……うわぁ、えっちだなぁ……」

「おーい、ピニャ?」

「あたしとキスする時も、あんな顔になるのかな……ぐへ、ぐへへへ」

「ダメだこいつ」


 ついには口端からよだれを垂らして脳内でお花畑を耕しはじめる始末である。

 俺が事業主ならこいつをクビにするね。

 他の子が点数係のピンチヒッターとして駆り出されていた。可哀想に。


「見物するのはいいけどちゃんと自分の仕事はし──ぼごっ!!」

「あーっ!! すまーんっ!! 大丈夫か、犬神っ!!」


 運動中によそ見なんてするもんじゃない。角刈りゴリラの鋭利なパスが俺の顔面にぶち込まれていた。ピニャにうだうだ言える立場じゃなかったってことだ。俺も自分の仕事をきちんとこなせていなかったらしい。鼻っぱしらがピリピリ痺れて熱くなっている。ぼたぼたと鼻から血が滴った。


「ハチっ、上向いて首の後ろとんとんってするんだよ!」


 医学的根拠のない民間療法を懸命に指示してくるピニャに背を向けて、鼻を摘んだ俺はひとりで保健室へ向かうのだった。



※※※



 血が止まるまで安静に過ごした俺は、念のためと語る保険医の手によって両方の鼻の穴にコットンを詰められた状態で無事教室に帰還した。体育の授業は免除扱い。怪我はしたが、かったるい体育をパスできたことだしプラマイゼロだな。先に更衣室で着替えた俺はひとけのない教室にてぽつねんと孤独に待機していた。

 やることもないので本を読んで待っていると、しばらくして廊下がにわかに騒がしくなる。

 みなさん、お帰りになったみたいだ。

 鼻から白い綿を生やしたままだと格好がつかないのでゴミ箱に捨てる。

 自席に戻り、栞を挟んだところから、俺はまた読書をはじめた。

 活字踊る紙面を影が染める。

 誰かが目の前に立ったせいで、照明が遮られたのだ。

 顔を上げると、そこには三匹のメスブタがいた。


 険しい顔をした昼間瞳子。

 不安げな表情の片瀬比奈。

 毅然とした態度の日暮奈留。

 なぜかだ知らないが、昼間は、セーラー服のスカートの下にジャージを着用していた。見慣れない格好だ。今年の五月は暖かいので着込む必要なんてないと思うんだが、彼女なりのおしゃれなのだろうか。

 冷厳とした態度で日暮が口火を切る。


「ねぇ、ハチくん。すこしだけカバンを見せてもらえるかしら?」


 はてなが浮かぶ。

 断れそうな雰囲気じゃないし、断る理由も特にない。

 俺は大人しく彼女の言葉に従ってカバンを渡した。

 すると、日暮がことわりもなく俺のカバンに手を突っ込んでガサガサと漁った。

 おいおい、なんだよいきなり。

 状況が飲み込めないまま成り行きを眺めていると、


「──あったわ。これでしょ、昼間さん」


 日暮が何やら見覚えのない布切れを俺のカバンから取り出した。

 ハンカチ? いや、違う。あれは、黒のショーツだ。


「やっぱり犯人は貴方だったのね。最低ね、ハチくん」

「え?」

「とぼけても無駄よ。こうして証拠が出てきたんだから。猿芝居はやめて罪を認めなさい」


 証拠?

 猿芝居?

 罪?

 こいつは一体何を言っているんだ。


 困惑していると、険しい顔をさらに深め眉間に大きな溝を作った昼間が一歩前へ出た。

 言いようのない威圧感がある。

 嫌な予感。

 彼女が大きく腕を引く。握りしめた拳を振りかぶって俺の顔面をグーで殴りつけた。

 頬骨を小さな拳骨が強打する。

 視界が白黒に明滅した。ついで痺れるような疼き。

 最後に、ようやく反応した痛覚がジンジンとした痛みを俺に自覚させた。

 昼間が、俺を殴った。

 呆然と、その事実を受け止める。


「この変態。二度とぼくに近づくな」


 吐き捨てるような言葉。

 いつもの覇気のない目はどこへ行ったのか。激情に燃え赤く光る瞳が厳しく俺を射抜いていた。

 昼間は日暮の手からショーツを奪い取ると、けたたましい足音を立てて教室を去っていく。

 俺はそれを、ただ見送ることしかできなかった。

 右頬に手をあてる。まだ痛い。

 これは現実だ。


「それじゃあハチくん、放課後、乙女協会で会いましょう」


 冷ややかでいて淡々とした語り口調。

 氷の女王のような眼差しで俺を見ていた日暮が自席へ消えた。

 残されたのは、泣きそうな顔を浮かべるピニャ。

 桜色の瞳は潤みを帯び、徐々に赤く充血しはじめていた。

 言葉を作り出そうとする唇がわなないて、けれど声が出ず、何度も彼女は言葉を紡ごうと口を動かした。

 そして、


「ハチ、ついてきて」


 やっと発せられた少ない言葉。

 身を翻す彼女は、俺がついてきているのか確認することもせず、足早と教室の出口へ向かう。まとまらない思考。痛む頬。それでも置いていかれてはいけないと幽鬼のように立ち上がり、プラチナピンクの髪の毛をふらふらとした足取りで追いかけた。 

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