第26話 乳をたって骨を断つ その3
「ここまで真剣な様子を見せられて、お芝居ご苦労さんってなるほどあっしは腐っちゃいねぇっすよ」
銀縁の眼鏡をくいとあげて左近寺は続ける。
「片瀬の言うことを信じてもいいんじゃないっすか? もしハチがあっしらをたばかっているとするなら、何がなんでも接近禁止令の撤廃にこだわるはずっすよね。そんな感じにゃ見えねぇっすよ。どちらかといえば、気張る片瀬を心配しているように見えたっす。だとするなら、悪者はこちらっすよ。そうは思わないっすか?」
「サコングっ!!」
ピニャが救いの女神の降臨を眺めるかのように眼鏡の少女を潤んだ瞳で見つめた。それにしても凄まじいあだ名だ。まるで女の子らしくない。普段から呼ばれ慣れているのか、左近寺は気に留めていない様子だった。
女神サコングが円卓をぐるりと見回す。
腕を組んだ金井が人差し指だけをあげて意見を述べた。
「わたしは中立。犬神が嘘をついて片瀬を乗せているようには思えないけど、日暮の言う事も分かるからな」
黒髪を指でとく昼間が続く。
「ぼくも、中立。信じ切るまでには至らないけど、真っ赤な嘘とも思えない」
そう告げて、突如髪を払い円卓から離れた昼間が、俺の目の前まで歩いてきて目前で止まった。
身長差があるのでつむじが丸見えだ。
半月のような目におさまる灰色の瞳がじっと俺を見上げる。彼女は何を思ったのか、まるで似合わない華やぐ笑顔をパッと咲かせて俺の胸に小さな手のひらを乗せた。そして「わんたろー」と甘えたような舌たらずな喋り方で俺の名を口にする。
なんだろう。もしかして、手のひらからビームでも出るのか? 音声認識で殺す相手を指定して標準でも合わせたのか? 今際の際に冥土の土産として愛らしいスマイルをプレゼントしてくれたのだろうか。そんなあり得ないことを考えながら、珍妙な姿を見せる昼間としばらく見つめ合う。
「えっと、なに?」
「……ふーん。なるほど」
ふむふむと頷いた昼間はいつも通りの憮然な顔つきに戻り、身を翻して円卓へ戻った。そして言う。
「ぼくは片瀬の肩を持つよ。犬神のことも信じる。あれだけ目の前に接近して名前を呼んでとびっきりの笑顔を見せてやったのに全然照れなかった。心臓もドキドキしてなかった。ぼくのことが好きなら、少しくらい動揺するはずだろ?」
なるほど、ハニートラップ的なやつだったのか。
「ふーん。じゃあわたしも片瀬側。接近禁止令、撤廃賛成」
昼間の意見を聞いて、金井までもが片瀬の肩を持つ。
「ヒルーマっ! キャナイっ!」
感謝感激雨あられ。感情の昂りに身を震わせて円卓に身を乗り出したピニャがふたりのあだ名を高らかに叫んだ。眼鏡メスブタが生んだ流れが初恋メスブタとでかメスブタの意見を変えた。風向きが変わった。追い風に立つのは、乳メスブタである。逆風を受けて孤軍奮闘を強いられるのは美メスブタだ。いける、このままなら勝てる。そう思った。
一連の様子をじっと見つめていた左近寺が、あなたの番ですよと言わんばかりに手のひらを日暮の方へ向ける。
「で、どうするっすか? いつも通り多数決って話なら、決着はついたみたいっすけど?」
ふうと息をつき背もたれに身を任せる日暮。金糸のような髪を人差し指で弄びながら、宝玉のような鳶色の瞳を閉じた。
時計が秒針を刻む音。
その数が十を超えたあたりで、彼女は血色の良い果実のような唇をゆったりと開いた。
燃えるような、苛烈なぎらつきを湛える眼光。
巣穴を荒らされ怒る猛禽のような瞳がじろりと円卓を睨めつけた。
「揃いも揃ってあなたたちは馬鹿なの? 情に目が眩んで本質を見失う愚者の集まり。御涙頂戴の舞台が見たければ芝居小屋にでも行けばいいわ」
「あ?」
金井が低い声で威嚇する。左近寺が目を細めた。気にも止めずに、日暮は続ける。
「よしんば片瀬さんの言う通り、昼間さんへの好意がなくなっているとしましょう。ならばと、接近禁止令を撤廃してハチくんを自由にしたとする。そしたら彼は以前と同じように手塚くんの小判鮫になるでしょう。……ねぇ、そうしたら私たち、困らない?」
「困らないよっ! だってハチが友達と仲良くしているだけじゃん!」
物分かりの悪い犬に躾をするように日暮は言葉を継ぐ。
「片瀬さん、よく思い出してくれないかしら。ハチくんが手塚くんにベッタリだった時、私たちはみんな、彼へのアプローチに支障をきたしていたはずよ。休み時間も、お昼休みも、お弁当を食べる時も、いつだって、ハチくんは手塚くんを独占していた。そのせいで、私たちは満足に話せないで、彼とコミュニケーションを取れないで、苦い思いをしていたはずだけど?」
思い当たる節があるのか、片瀬が言葉を詰まらせた。
「それは、……そうかも、だけど」
そうだったのか。
手塚と仲良くなりたいという気持ちが強すぎて、彼女達の存在に気を配ることを忘れていた。
はからずしも、ここにいる五人の恋路の邪魔をしてしまっていたようだ。
「私が接近禁止令を託宣したのは、なにも昼間さんのためだけじゃないわ。私たちのためを思ってよ。ハチくんが昼間さんを好きだろうと、そうじゃなかろうと、彼の存在は確実に私たちの恋路の邪魔をしているのよ。それを排するために接近禁止令はあるの。そのことをあなた達の誰も理解していない。だから私はこうして苛立っているの。分かる?」
静まる円卓。波紋なき湖畔。
そこへ石を投げ込んだのは、髪を掻き上げいつも隠れている右目を見せた金井晶だった。
「なあ、日暮。黙って聞いてりゃあんたピーピーうるせぇよ」
「なんですって?」
絡み合う視線。散る火花。両者ともに譲らない。
ガンっ!
長い足を振り上げて円卓に踵を叩きつけた金井は猛然と捲し立てた。
「接近禁止令がわたしたちのため? はっ、馬鹿馬鹿しい。じゃあなんだ、悠馬は友達ひとり作っちゃいけねぇのか? あんたの言うのが正しいならさ、これからも悠馬はわたしたち以外の誰一人とも交流を持てなくなるってことだろ? そういう風に管理していきましょうって言ってんだろ? ふざけんなよ。悠馬はあんたの、ましてやわたしたちの『物』じゃねぇんだよ。犬神みてぇな友達がいてもいいじゃねぇか。わたしは悠馬がこいつと話している時の姿を見て、良かったなって心から思ってたよ。見た目が怖いからってひどい噂立てられて、クソみたいな誤解されて、誰も寄りつかない悠馬に、この男はヘラヘラしながら仲良くしようって歩み寄ってくれたんだよ。昼間の恋路を邪魔するためじゃないなら、それは純粋な好意からだ。ちゃんと悠馬を見て、友達になりたいって思ってくれて、そうやって近づいたんだ。それのどこが悪なんだ? それのどこが邪魔者なんだよ。ふざけるのも大概にしろよ」
「……じゃあ、私たちはずっと指咥えて待っているの? この男が手塚くんを独占するのを遠くから見つめて唇を噛んでいればいいのかしら?」
「犬神に頼めばいいじゃないか。悠馬と話したいからちょっと席を外して欲しいって腹割って話せばいいだけだろ。邪険に扱うんじゃなく、真剣にお願いするんだよ。悠馬にアプローチしたいから邪魔しないでって言えばいいだけじゃねぇか」
「……」
黙り込む日暮を見て決着を悟った左近寺が手を打った。
「そこまで。今ので決着はついたっすよね? あっしは金井の言う通りだと思ったっすけど、みんなはどう思ったっすか?」
ピニャと昼間は目を見合わせて、それから金井の方を見た。
「あたしはそもそもハチの味方だから」
「ぼくは金井の話を聞いて確かにそうだと思った。悠馬はぼくたちが独占していいもんじゃない」
散らばったピースを集めてジグソーパズルを完成させるように左近寺は丁寧に語った。
「まとめるっすよ。接近禁止令は片瀬の進言の通りハチの恋慕が昼間から失せたとして解消。そしてハチは、あっしたちが手塚にアプローチしたいときは気を遣って身を引くこと。これでいいっすね?」
最後のピースをゆっくりとはめ込むように、眼鏡の少女は部室を見渡した。
昼間がうなずき、片瀬が笑い、金井が目を閉じる。三者三様の賛成。続くように、俺もまた首を縦に振る。
残る一人、顔を伏せて目元に影を落とす金髪の少女に視線が集まる。
しばらくして、日暮奈留は鷹揚と顔をあげた。
そして──。
「──異議あり」
よく通る澄んだ声。
綺麗に収まるかに思えた盤上をひっくり返すのは、女神のような容姿をした悪魔のような女だった。
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