第25話 乳をたって骨を断つ その2
「……片瀬さん、なぜその男をここへ連れてきたの?」
部室に足を踏み入れた瞬間、日暮が俺を睨めつけながらそう言った。
顔をくしゃっと縮めて鼻の上に皺を寄せる昼間は臭いものを目の前に投げられたみたいな感じだ。
左近寺は銀縁の眼鏡を熱心にクリーナーで磨いている最中でこちらに意識を割いておらず、腕を組んだ金井は漠たる目つきでどこか遠くを見つめていた。四者それぞれの反応を示す中、頼りの綱である片瀬が日暮の問いに答えた。
「今日は接近禁止令の撤廃を提案したくてみんなを集めました!」
「ふーん。それはなぜ?」
さらりと伸びる絹のような金髪を人差し指でクルクルしながら日暮が続ける。そして、視線を俺から外し、民草の貧困を嘆く王女様のような憂いげな表情を浮かべた。そんな彼女の様子を見ていると、なんだか申し訳なくなって前言撤回したくなってくる。けれど片瀬は、そんなもんは知らんと、ただでさえでかい胸をやたらと張って一歩前に出る。ぼよよーん。その暴力的な膨らみを見て、持たざる者である昼間が切なそうな顔をして平たい胸を撫でていた。つるつるてーん。
「実はハチは……あ、自分で言う?」
「いや、いいよ。言ってくれ」
「おけ。ごほん、実はハチは──とっくにヒルーマを好きじゃないのです! 他に好きな人がいるのです!」
明朗な声で告げる。さぁ、驚け、そして騒げ。そう言わんばかりのしたり顔を浮かべるピニャ。
決まったぜ、とばかりに俺の方を見て親指を立ててくる。
俺は渋い顔をして顎をしゃくった。
向こう見てみろ、全然反応が良くないぞ。
日暮はつまらなそうに背もたれに体重を預け、昼間は相変わらず胸を撫でていて、左近寺は「おっきい声っすねぇ」と言ったきりまた眼鏡を磨き、金井はうつらうつらとした様子で首を揺らし始めた。
片瀬も芳しくない皆の様子に気付いてくれたようで、むっと顔を歪めて声高らかに続ける。
「なんだその反応はっ! ハチはもうヒルーマを好きじゃないんだよ? だったら接近禁止令なんてなくてもいいじゃん。元々ヒルーマの恋路の邪魔をするから近づくなって話だったでしょ? その心配がないって今あたし言ったんだよ? だからさ、接近禁止令は今日からなしでいいよね?」
「異議あり」
流麗な所作で日暮が手を挙げる。
「ハチくんが昼間さんへの恋慕がないとあなたは言い張っているけど、その確たる根拠はいったいなんだというのかしら」
「ハチが新しく他の人を好きになったことをあたしが知っているからだけど?」
「……ねぇ、片瀬さん。それって本当なの? あなたは多くの人に寛容で、そのことは素晴らしいことだと思うけど、誰にでも分け隔てないあなたは付け入る隙が大いにあるのよ? ハチくんが悪意を持ってあなたを騙し、接近禁止令を撤廃させようと画策しているとは考えないのかしら?」
「そんなのあり得ないし!」
「なぜ?」
「だってハチがたまたま本屋の──」
「──よいしょーっ!」
大きな声で片瀬が続けようとした言葉を吹き飛ばす。
危ない、今こいつ本屋のBLコーナーに俺がいたことを暴露しようとしやがった。
確かにあれがきっかけで昼間への恋慕がないことを彼女に示すに至ったが、この場でホモバレするのは避けたかった。「ゲイであることはできるだけ人には話さない方がいい」というリリアナの言葉が頭をよぎる。俺よりもずっと前を歩き経験を積んできた人生の先輩からのアドバイスだ。従って損はない。
突如雄叫びをあげた俺に驚きの視線が集まっている。とろんとした目つきの金井が口元のよだれを拭うのが見えた。おいおい、寝てたのかよ。まあ、いい。今はそれよりもピニャだ。俺は彼女に耳打ちした。
「ピニャ、俺が男を好きだってのは秘密にしてくれ」
「あ、そっか。みんなあたしみたいに受け入れてくれるとは限らないもんね」
理解が早くて助かる。さすがは俺の相棒。
こそこそ話をする俺たちを見ていた日暮がため息混じりに指摘した。
「ほら、今またあなたはハチくんに丸め込まれているんじゃないの? 他に好きな人ができました。そんなこと口でならなんとでも言えることよ。どうやって騙されたのかは分からないけれど、片瀬さんは利用されているのよ。そこの小賢しい男にね」
勧善懲悪。善は我にありとばかりに
「あたしの友達にそんなひどい事言わないで」
ピリッとした緊張が円卓に走る。
「おー、いいっすねぇ。すばらしい友情じゃないっすか」
楽しげに目を細めて茶々を入れる左近寺。
ふんと鼻を鳴らして昼間はテーブルに肘をつく。
金井がだるそうに一言。
「もう殴り合いで決めれば? めんどくさ」
その余計な言葉が誰かさんの闘志に火を灯す。
「ハチ、ブレザー持ってて。あたし勝つから」
猛然と脱いだブレザーを俺に投げ渡して白のフーディーを袖捲りしたピニャが勇猛と力こぶを作る。まさか、自分の案が取り上げられるとは思ってもみなかったのか、金井が意外そうな顔で片瀬を見た。
頭が痛いとばかりに眉間をつまむ日暮がたしなめる。
「まったく、あなたはどこの野蛮人なの? 意見が対立すれば暴力に訴えるなんて知性ある生き物のすることじゃないわ。私たちには論じる口があり、思考する頭があり、判ずる心があるはずよ。私たちが交わすべきは拳ではなく言葉じゃないかしら?」
「知るか! あたしはハチを悪く言われて頭にきてるんだ。勝負だ、ひぐっち! かかってこい!」
プラチナピンクのツインテを解いてひとつに結んだピニャが軽快なステップを踏みながらシャドーボクシングを始める。
放っておいたらマジで殴りかかりそうだ。
好戦的な彼女に当てられたのか、剣呑な目になり始めた日暮の様子も気がかりである。俺を起因としたキャットファイトなんて見たくない。ヒーローショーがはじまる直前のがきんちょみたいな顔でワクワクしている左近寺と金井には悪いが止めさせてもらおう。
俺はその場で軽やかに跳ねるピニャの肩を両手で押さえた。
「どうしたの、ハチ?」
「ちょっと落ち着け。怒ってくれてありがとよ。けど、殴り合いはやり過ぎだ。落ち着いて話し合おう」
「……だって」
「いいから。最悪、接近禁止令もそのままでいいよ。俺のために頑張ってくれてありがとな」
「……わかった。じゃあ喧嘩はやめる」
俺はピニャを円卓に座らせた。
彼女は渋々といった様子で闘志を鎮める。その様子を見て、仲良く唇を尖らせ不満げな顔をする左近寺と金井。野次馬にもほどがある。座した片瀬を見て、日暮の瞳に宿っていた弾頭台のギロチンのような鈍いぎらつきが霧散した。
ふいに、昼間が疑問を落とした。
「というかさ、なんで接近禁止令を解いて欲しいって片瀬が言うわけ? 別にメリットないだろ」
「だって可哀想じゃん。ヒルーマの恋の邪魔をするためとかじゃなくて、ハチと悠馬はただの友達同士なんだよ。それなのに付き合っちゃだめなんて酷い話だよ。それに、接近禁止令がなくなるメリットならあたしにもあるし」
続けて、と昼間が目で促した。
「あたし、ハチと恋の共同戦線を組もうとしてるんだ。あたしはハチの新しい恋を手伝う。ハチはあたしが悠馬と付き合えるように頑張る。接近禁止令があったらハチが悠馬に近づけなくて、この作戦に支障が出るでしょ? だから撤廃してほしいの」
「ふーん、そういうことね。たしかに、そういう話なら接近禁止令は邪魔か」
話を聞いていた日暮が会話に入る、淡々と説くように彼女は言った。
「ではなおさら、あなたの提案を受ける気にはならないわ、片瀬さん。なぜ私たちが不利になるようなことを認めなければならないのかしら。手塚くんへのアプローチ手段をあなただけが増やすなんて不平等じゃない」
「……それは、たしかに、そうだけど」
「ハチくんが新しい人を好きになっていて、昼間さんへの気持ちがないことも信じれない。恋の共同戦線とやらを組まれて、片瀬さん以外の私たち四人が遅れをとることも面白くない。どこに接近禁止令を撤廃するに至る道理があるわけ?」
苦い顔をして俯くピニャを見て、俺は議論の決着を悟った。
ま、別にいい。
接近禁止令がなくなればそりゃ嬉しい限りだが、俺が片瀬と恋の共同戦線を組むと決めたのは彼女の恋路を応援してやろうと思ったからだ。そのような打算はなかった。もちろん、俺が彼女ために手塚から身を引くことはない。ただ、俺を受け入れてくれた恩に報いるため、恋愛相談くらいは乗ってやろうと考えた結果だった。
俺は眉間に皺を寄せるピニャの肩に手を置いた。
彼女はスカートの裾を力強く握りしめている。
「ピニャ、もういいよ。お前はじゅうぶん頑張ってくれたと思う。ありがとう。接近禁止令は我慢すればいいだけの話だし、恋の共同戦線だって、男目線のアドバイスなら簡単にできるから役に立たないってことはないと思うからさ、今回は諦めよう」
「……やだ」
唇を尖らせて彼女はいやいやと首を振った。できるだけ柔らかく聞こえるように優しく諭す。
「そうは言っても難しいだろ?」
その時、ピニャが突然跳ね上がり、俺の方へ振り向いた。
ガタンと音を立てる椅子。集まる四つの目線。その衆目に晒されながら、俺は彼女と対峙する。
少しだけ潤んだ桜色の瞳がまっすぐ俺を見つめていた。
「いやっ! あたし、諦めないから! だってハチ、本当に他の人のこと好きじゃん! それにハチと悠馬は友達なんでしょ! あたし達の間違った勘繰りでふたりの仲を引き裂くのって、友情を踏み躙るのって、そんなのって最悪じゃん! あたしは嫌だよ。覚えてないかもしれないけど、ハチは一年前にあたしが話しかけた時、こんな風に話してくれる人じゃなかった。けど、久しぶりに話たら全然違った。きっと悠馬が良い風にハチを変えてくれたんだ。ハチが悠馬と仲良くしたいと思ったから良い風に変わったんだ。そんな風に自分を変えられるほどの出会いがハチと悠馬の間にあったのに、それを無碍にするなんて、そんなのって最低じゃん!」
身振りを交えて必死に訴えてくるピニャに俺は驚きを隠せない。
そんなことを考えていたなんて、まるで想像もしていなかったから。ただ単に、恋の共同戦線の効力を強めるために接近禁止を解こうとしていると考えていた。しかし、違ったのだ。
一年前、俺は片瀬と同じクラスだった。彼女は圧倒的コミュ力でクラスメイト全員に話しかけていた。けど、その時の俺は友人なんてものに一切の興味がなくてにべも無くあしらった覚えがある。
本当に一瞬の交流だった。それを、片瀬は、ピニャは覚えていたのだ。
胸がじんわりと温かくなる。
ピニャは思っているよりもしっかりと俺を見てくれていた。俺のために、頑張ってくれていたのだ。昨日初めてまともに話しただけの俺を、相棒やら友達やらと大層に取り立ててくれて、こんなにも真剣に付き合ってくれていたのだ。
「ピニャ、本当にありがとう。たしかに手塚とつるめないのは残念だけど、その代わりにピニャっていう新しい友達ができたから今はそれで十分だよ。今回は諦めよう」
目が熱い。視界がすこしぼやける。どうやら桜色の少女につられて俺の涙腺も緩んでしまったらしい。
片瀬はゴシゴシと目を擦って、目元を真っ赤にしてぽしょりと答えた。
「……わかった、今回は、あきらめる」
「──ちょっと待つっす」
終幕を迎えようとした円卓会議に水を指す声。
右手を挙げた左近寺が、毅然とした表情で席を立った。
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