第18話 メスブタは迷える羊に叡智な本を与えたる その2

 制服姿の学生らしき人影が散見されるショッピングモールを歩く。

 同年代のカップルを目すると、思わず、そこに手塚と自分を投影させて理想を思い描いてしまう。触れれば消える砂上の楼閣。淡く儚い幻影なれど、それを確固たる現実にできるかどうかは自分次第。過去は変えられないが、未来を作ることはできる。

 気合いを入れ直して、商業複合施設の一角にある本屋へ足を早めた。


 ふわりと漂う刷新された紙とインクの匂い。 

 文具コーナーの脇を抜けて、BL本のコーナーを直感だけで探し当てる。

 果たしてそこにあったのは、美男子が絡み合い頬を赤らめ見つめ合う美麗なイラスト群。めくるめく薔薇色の書物たち。文庫本の装丁を飾るあらゆる種類のイケメンパラダイスに目眩がしたが、どうにか気を持ち直して裏面のあらすじを読んでいく。──ダメだ。目にする作品のほとんどが、男同士の恋愛が当たり前に発展することを前提として描かれている。そりゃそうか。ボーイズラブなんだから、男が男と結ばれなければジャンルとして破綻してしまう。


 いっそのこと、思い切って適当に一冊読み切るか?

 Ωとかαってふつうに書いているけど、これどういう意味なんだ?

 初心者向けの作品とか誰か教えてくれ。

 一冊適当に手に取ってパラパラと中身を覗いてみる。

 なんかしっくりこないなぁ。

 ことさら俺は迷える羊のごとく。

 次はこれを見てみるか……。 


 赤らむ頬の美男子たちを取っ替え引っ替え、うんうん頭を悩ませていると、人の気配が隣に立った。

 俺が邪魔で前にある本がとれないのかと横に移動するも、その気配はずいと一緒に付いてくる。カニさん歩きでスライドする俺。明らかに視線をこちらに向けながら追従してくる気配。そろそろ壁際まで追い込まれてしまいそうだ。

 どういうつもりだ、こいつ。

 ついに根を上げて横を見る。


「──ぅっ!?」


 びっくりして喉がヒュッと鳴った。

 そこにいたのはプラチナピンクのツインテールギャル、片瀬比奈こと乳メスブタだった。


「あ、やっぱりハチだ! なんか見覚えあるなーって思ってたんだよね」


 魔王の忠犬を意味する俺のあだ名を口にして、制服姿の片瀬はでかい声で距離を詰めてくる。

 だからなんでそんなに近づいてくるんだよ。

 俺は壁にめり込みながら「どうも」と挨拶だけはしておいた。

 帰り際教室で手塚をアサイーに誘って断られていたのを目にしたが、まさかひとりでショッピングモールへ来ていたとは。


「よっ!」


 片手を上げて、白い歯を見せ晴れやかに笑う片瀬。目元がくしゃっとなる愛嬌に溢れた笑みは心の装甲を容易く崩すコミュ強が誇る伝家の宝刀。けど、おいらには効かないよ。なぜなら、おまえさんは俺の恋敵。かつ、接近禁止令とかいう理不尽なルールを押し付けてきたメスブタ一派の一員なのだから。そんな憎きお前にどうして心を開くことができようか。滅びろ、ブタ!

 壁と片瀬の間に挟まれて非常に窮屈な思いをしながら、俺は乳メスブタを恨みいっぱいの目で睨みつける。

 だが、目が合わない。

 どこを見ているのやらと観察すると、彼女は俺の手元に視線をやっているようで、その先には半裸に剥かれた亡国の王子様の姿があった。目元に涙を浮かべてしなしなと崩れ座る美少年。タイトルは『破滅した王国の王子は今日から俺の犬奴隷』。


「それ、『ハメ犬』じゃん! えっ!? まじっ!? ハチってそっちの趣味あったの!?」


 弾む声音で半歩踏み出し、嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねる片瀬比奈。白いフーディを押し上げるエベレスト山脈がごとき無駄にでかいだけの脂肪の塊。その膨張物体Xがバンヤバンヤと揺れ動く。もはやエロいとかじゃなくて恐い。この巨大乳房で殴られたらそのあまりの質量に頭が弾け飛ぶやもしれん。

 しっかし、ハメ犬かぁ。攻めた略称してるなぁ。

 片瀬と壁の間にできた狭すぎるスペースで爪先立ち状態の俺は、顔の半分を壁に潰されながら彼女に問いかける。


「片瀬はこういうのよく読むのか? あと、一歩下がってくれないか? 今の体勢、すごいきついから」

「わっ、興奮してて気づかなかった! まじじゃん! 顔面潰れてる! あはは!」


 あはは、じゃないんだわ。

 ころころと笑う彼女はツボに入ってしまったのかしばらく笑い続けた。

 ようやくスペースが生まれ、俺は足の裏全体で地面を踏み締めるに至った。顔も元通りになる。


「うひひ、顔半分真っ赤だよ?」


 たおやかな指がふいに伸びて俺の頬を撫でた。

 気安く触れるな、このメスブタ。誰のせいだと思ってるんだ。

 心の中でだけ悪態をつく。人との軋轢を嫌う性分なのだ。


 面と向かって片瀬と話すのは一年生以来になる。だというのにも関わらず、彼女は昨日まで教室でお喋りしていた間柄と言わんばかりの馴れ馴れしさで俺に接してくる。つんつんと脇腹を突く細い指。メスブタはニチャァと怪しげな笑顔を作って鼻息をフガフガさせながら弾むように語る。


「あたし、アニメとか漫画とかそういうサブカル大好きなんだよね。日本が誇る伝統文化! かわいいもかっこいいも全部好き! ラノベとかそっち系にも手を出してるし、二次創作とか薄い本とか、もちろんハメ犬みたいなBLから百合ものまでありとあらゆるオタクカルチャーをこの手におさめているのだ!」


 天井の明かりを掴むような仕草を交えて行われた乳メスブタの演説に、俺は正直驚いていた。普段の言動から活字なんて読めるようには見えないし、メイクに熱心でお洒落に敏感なところから人気アニメ・漫画にしか通じていないと決めつけていた。いわゆる頭に『国民的』の文字が踊るものしか知らないふつうのギャルだと思っていた。だが、この熱意を見るに、片瀬比奈はオタクに理解あるギャルらしい。もしかすると、彼女の性質を鑑みるに、オタクに優しいギャルにカテゴライズされるメスブタなのかもしれない。

 気持ちよさそうに彼女は続ける。


「ハメ犬、あたし読んだことあるけど名作だよ! 王子様として大切に育てられた天然受けのリッヒドルテが俺様攻めのディティオールにねっとり教育されるところなんて、ぐへへ、よだれが垂れて仕方ありませんよ」


 本の内容を思い出しているのか、本当によだれを垂らしている。

 おいおい、目がイっちゃってますよ、帰ってきてください。

 書店を汚すのは忍びないので、スラックスのバックポケットからティッシュを取り出してブタの口元にあてがった。


「じゅるる、ごめんごめん。ティッシュありがと。でさ、ハメ犬の話の続きなんだけど、犬同然の扱いをされていたリッヒドルテが中盤で覚醒してリバした瞬間なんか──」

「──参考にならなそうだな」


 リバーだかレバーだか知らんが、話の内容を聞くにこの本は官能小説に近しい特性を持っているようだ。はじまりの時点から主従関係を定められたふたり。上位存在であるディティオールがリッヒドルテを教育するらしいが、それを俺と手塚の恋の進展に転用するのは難しいだろう。懐柔されるリッヒドルテの心の機微を理解すれば、あるいは参考になるかも知れないが、手塚とは違ったタイプの性格をしていそうなので期待しない方が良いだろう。


「──ねぇ、いま、参考にならないって言った?」


 瞳孔の開いたガンギマリ顔の片瀬がぬっと顔を寄せてくる。

 かわいい顔だが、荒ぶる感情を無理やり押さえ込んだような表情が異様な圧力をほとばしらせていた。


「あたしの説明、イマイチだった? ごめんね、もう一回、頭からやり直すね」


 自分の好きなものを理解してもらえなかったと勘違いしているようで、彼女はさくらんぼのような唇をぺろりと舌で舐めてから、解放されたダムのような勢いで話し始めた。さながら高位魔術の高速詠唱のようだ。到来する情報の波に脳内処理が追いつかない。俺は彼女の顔の前に手を出して、説明をやめるように促した。蛇口を捻ったように、片瀬比奈がピタリと止まる。


「勘違いしているみたいだけど、俺が参考にならないって言ったのはお前の説明に対してじゃない」

「……? じゃあどういう意味で言ったの?」

「俺の恋の悩みを解決する参考にはならないって意味で言ったんだよ」

「俺の恋の悩み……はっ!!??」


 メスブタが落雷に目を見開く犬みたいな顔で固まる。空気を咀嚼するようにぱくぱくと口を開閉させて、しばらく機能停止していた彼女は突如としてインパラを狩るチーターのような俊敏さで俺の肩をがしっと掴んだ。十年追い求めた宝石を手に入れたみたいな顔でぐいっと俺を引き寄せる。そして、叫んだ。


「──なっ、なまものっっ!??!?!??!!」


 絶叫ががらんと開けたBLコーナーに響き渡る。

 片瀬の桜色の瞳がラムネ瓶のビー玉みたいにキラキラと輝いた。

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