ファスト・ラブ

梅室万智

第1話 シャンプーとイタリアンと年上の彼

「あああああああ、」

伸ばしかけの髪を泡だらけにしながら、跡部章子は声を上げている。どうして頭を洗っていると、思い出したくない不祥事を思い返してしまうのだろうか。

「あああああ、もうっ」

本日夕刻の屈辱感と羞恥心と不快感といらつきをかき消すように、がしゃがしゃと手を動かしたら、よく泡立ったシャンプーが目に入って章子は声を上げるのをやめた。


章子は御年二十三歳の大学四年生である。一浪してそこそこ名の知れた大学に入り、のらりくらりしていたら就活に身が入らず、まあ大学院にでも進んでみようかと、只今そんなところである。

バイトもサークルもろくに続かず、これといった趣味もない章子が唯一熱心に取り組んでいるもの。それがマッチングアプリだ。


そして今日の夕方、つい数時間前、マッチングアプリで出会いお付き合いをしていた男性と別れた。別れたと信じている。交際期間二か月。


背は高くなかったが顔が章子の好みだった。声が綺麗で、乗っている車がかっこよかった。章子が熱中していたネットゲームを彼もやっており、その話でメッセージのやり取りが弾んだのがきっかけであった。彼はゲームがとても上手く、ランキング上位の常連で、それが堪らなく素敵に思えた。章子より五つ年上のサラリーマンの彼。身体の相性も良い方だったと思う。でも五つも年上のくせしてデートはいつも割り勘。デートの後は一人暮らしの章子のアパートに必ず上がり込みセックスまでがワンセット。なんなら、セックスなしでデートが成立することはなく、アパートに彼が来てやるだけやって帰ってしまうことはよくあった。


今日は夕方から、駅前に新しくできたイタリアンに彼と行く予定だった。予約の時間より早く仕事が終わったからと彼が章子のアパートに迎えに来てくれた。てっきり現地集合だと思っていたので章子は嬉しくて、身支度を普段よりもいっそう丁寧に、とびきりに可愛い格好でアパートを出た。しかしアパートの前でなぜかエンジンを切って車から降りていた彼は、まだ早いから少し上がらせてほしい、と言ってきた。章子は履くのにちょっと苦戦したサンダルをまたすぐ脱ぐ羽目になった。

章子は予感していた。彼はご飯の前に一度セックスしようとしている。綺麗に仕上げたハーフアップも台無しかあ、と心がひんやりした。そしてその直後に、自分がいま生理真っ只中なことに気づき、そういう雰囲気に持ってかないようにしなくては、と小さくため息をついた。ため息というよりかは安堵の息だったのかもしれない。この人とセックスせずにご飯だけ食べて楽しく帰ってこられるデートができるんだ、と。


章子は、彼とのセックスが嫌いじゃない。過去にはもっと下手な人もいた。彼の漏らす綺麗な声は気持ちを高めるし、毛深くない程よく筋肉のついた細い身体も好感が持てる。

ただ彼は章子にしつこくフェラチオを求める。頭を押さえて嗚咽するまで喉の深く入れ込むのが好きだで、首もよく締められる。下に入れる際も、下腹部を手でとても強く押さえつけられ、もう嫌と言っても高速ピストンを止めない。

AVのようなセックスだ、と章子は常々思っていた。


彼はまるで自分の家かのようにソファに腰かけ、スマホを触りだした。章子は急いでコップにお茶を注ぎ、ソファの前のローテーブルに置いて彼の横に座った。

「お茶出してくれたの。章子ちゃんは気が利くなあ。ありがとう」

スマホから顔をあげた彼はそういって章子を抱き寄せた。彼の顔が近づいてきてそのまま短いキスをした。章子はせっかく重ねたリップがよれちゃったな、と残念に思った。彼の手が章子の太ももに置かれ、章子は身を強張らせた。言うなら早い方がいい。

「あの、ごめん。今日生理なの、私」

なぜ謝らなきゃいけないのかわからなくて、なぜかとても泣きそうだった。

「あ、そうなんだ。ごめんごめん」

彼の手がぱっと太ももから離れ、章子は彼に聞こえないくらいの小さくて長い息をついた。

このとき、章子は彼とのセックスが好きじゃないのだと、本心に気づいてしまった。

しかし、事件はここで起きた。

「じゃあさ、口でしてくれない?」

彼は困ったような顔ではにかみながら、してくれない?と言い切る前に章子の後頭部を手で押さえ、自分の硬くなった下半身に近づけた。

章子は胸骨の奥が冷たく重くなるのを感じた。怖かった。気持ち悪かった。そんな感情を押し殺して、章子は顔をあげ、

「ちょっとお。私のフェラがいくらうまくても今日は我慢してよお。たまにはしないで二人で過ごすのも楽しいよ、きっと」

声のトーンを少し上げて、わざとおどけて笑いながら言ってみた。でも彼の顔は直視できなくて目だけ伏せっていた。

はあ、と彼がため息をついた。

「今日もう帰るね。気分悪い」

彼は自分の膝にもたれかかったままの章子を押しのけて、脱いでいたジャケットをさっさと羽織り、音を立ててアパートを出ていった。

あまりにも突然のことで、章子は唖然としていた。出ていく彼にかける声もなく、ただ目を見開いてソファに座っていた。

「え、めっちゃクズじゃん」

やっと発した言葉は、一人きりの部屋によく響いた。


そのあと章子は何事もなかったかのように、よれたリップを塗りなおし、髪を整えて駅前のイタリアンに一人で向かった。涙なんて出なかった。お腹空いたなあ、としか頭に浮かばなかった。悲しくなかった。それよりも、いい大人がなんて子供っぽいのだろう、と心底呆れていた。


レストランで前菜のキッシュを食べながら、結局のところ彼は身体目的であった事実に胸が痛んだ。一生懸命にキッシュを味わおうとした。大好きなはずのバターの香りに集中できなくて、美味しいのかそうでもないのか、あまりわからなかった。

クリームパスタが運ばれてきたとき、彼との関係は終わったという認識が共通のものなのか心配になってきた。もう二度と顔は見たくないし話したくもない。大ぶりのお皿に綺麗に盛り付けられたフィットチーネの写真を撮らず、フォークを入れてしまって、章子ははっとした。塩っぱい気もするが、あまり自信はなかった。

章子は生粋の甘党だが、食後のドルチェを頼む気にもなれず、寄り道もせずにとぼとぼとアパートに帰った。


今日は疲れた。お風呂に入って寝よう。だらだらとアクセサリーを外し、脱いだ服からまだ少し香水の匂いがして、ついさっきまで上機嫌で支度していたことを思い出す。

「バカみたい」

しばらく恋愛はいいや。章子は風呂場の壁をにらみつけ、完璧に仕上げたメイクを落とし、いつもよりたっぷりとシャンプーを手に取った。

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