第3話 逃亡者―南下
ついに新幹線は新横浜駅に到着した。
玲児は人波をかき分けながら新幹線を下車して駅から出ると、公衆電話の受話器を握った。初めは沖縄の有賀島に住む母の春子にダイヤルを回した。
「おかん、俺だ。玲児だ」
「おや、久しぶりだねー。元気だったねー」
――大変だ、おかん。俺は誰かに追われているんだ!
「はっ!」
――だから、追われているんだよ!
「本当かい!」
母はびっくりした。
「今、そいつらから逃げている途中だ。横浜まで来た。これから海斗兄さんの家へ行こうと思う」
玲児はそう言った後、従兄の海斗兄さんの家の電話番号を聞いてメモした。そして電話を切った後、今度は海斗兄さんに電話した。そして兄さんにも母に言ったことを同じように伝えた。
兄さんは、
「今から駅まで迎えに行くからそこで待っておきな」
と言ってくれた。
三十分後、海斗兄さんが茶色の軽自動車で玲児を迎えに来た。
「玲児、大丈夫か?」
そう言って兄さんは玲児が追っかけられているかどうか確かめようと辺りを見回した。しかし怪しい者など一人もいない。
「兄さん、助けて。お願いだ!」
身を震わせながら玲児が言った。
「まあ、取り合えず車に乗りなさい」
海斗兄さんに言われるまま、玲児は車の後部座席に乗った。そこで玲児は両手で頭を覆い、身を横にした。
「なあ玲児、誰も追っかけていないと思うけど」
そう言って海斗兄さんは玲児を宥めた。
そして三十分後、兄さんの住むアパート≪蓮華荘≫に着いた。その頃にはもう兄さんは玲児の異常に気付き始めていた。
――いらっしゃい、玲児君」
アパートでは海斗兄さんの妻、里香姉さんが玲児を優しく出迎えた。料理を作りながら待っていてくれたのだ。辺りはもうすっかり夜が更けて、午後九時を過ぎていた。
「お久しぶりです、里香姉さん」
そう言って玲児は辺りの様子をじろじろと窺った。
<逃げられないぞ、殺してやる>
謎の声はまだまだ玲児を苦しめる。
兄さんは家に入ると玲児に缶ビールを差し出した。
「まあ、これでも飲んで落ち着きなさい」
玲児はその言葉に甘えてビールを飲み始めた。そして料理が目の前に並べられた。ゴーヤーチャンプルーや中身汁、それにサラダまで。
「ありがとう」
しかし玲児はビールを一缶飲んだだけで、食事にはほとんど手を付けることはなかった。謎の声と格闘し、時は過ぎてゆく。
夜十一時。
「もう疲れただろう、玲児。そろそろ寝ようか」
そうして海斗兄さんは布団を敷いた。玲児が横になると部屋の照明電気が消され、辺りは薄暗くなった。玲児は謎の声に耐えながら眠れぬ苦痛の一夜を過ごすことになったのである。
翌日、朝六時。お姉さんに続いて海斗兄さんも目を覚ました。
「おお玲児。どうだ、寝れたか?」
そう兄さんに問われると玲児は軽く首を上下に振るが、現実は伝えなかった。そして玲児は急に自分のボス「ねえ、兄さん。俺トンバックを持ってこう告げた。
「俺、福岡に帰るよ」
「どうしてだ、もっとゆっくりしていけばいいじゃないか」
「いや、ただ……大学に戻らないとね」
玲児は、<これ以上海斗兄さんに迷惑を掛けるわけにはいかない>という思いが出ていた。
「でも、大丈夫なのか?」
不安そうな顔つきで兄さんが問う。
「うん」
玲児は一言返答した。
兄さんは玲児を車に乗せると新横浜駅へ向かった。玲児は駅に着くとお兄さんにあるお願いをした。
「ごめん、兄さん。俺、お金が足りなくて……」
「だったらこれを持ってけ」
海斗兄さんは紺色のジーパンの後ろポケットから財布と取りだして、万札を一枚玲児に渡した。
「ありがとう、いつかきっと返すから」
玲児は駅の改札口を通り、一度振り返って海斗兄さんに手を振り、そしてホームへ向かう人混みに紛れ、消えていった。この出来事は玲児にっとって一生忘れることはできない苦い思い出となった。
<借りた一万円は、いつかきっと返すんだ>
それだけは強く心に刻んだ。
朝七時十五分。
駅のホームには博多向け東海道山陽新幹線が到着すると、玲児は人混みに押しつぶされそうになりながら乗り込んだ。
<どうせ逃げられないぞ、地獄を見ろ>
謎の声に心を痛打されながら、昨日横浜へ来た時と同じようにフェイント作戦を行いながら、名古屋を過ぎ、大阪を過ぎ、小倉駅を過ぎ、そして博多駅で降りた。
玲児は駅の改札口を出るとタクシーに乗車するなり、運転手のおっさんにこう告げた。
「何処へでもいいから早く出発してくれ!」
「おいおい、青年。行き先が分からないと困るんだが」
いったい何だこの客は、と運転手はそう思った。
「そ、そうだ。天神通りに向かってくれ」
ストーカーから逃れられるなら行き場所はどこだっていい、
彼はひたすらにそう思い続けていた。
天神通りでタクシーを下車すると、いきなり玲児は駆けだした。
――逃げなければ……
ビル街を駆け回る玲児は辺りの人々に対して「こいつらがストーカーか?」と思いつつ、ひたすらに駆け続けた。厚い夏の昼下がり。体中から滲み出る汗が彼の薄汚れた服と黒いジーパンを湿らす。疲れたら一休みし、また駆け出す。息を切らしながらそれを何度も何度も繰り返した。
午後三時。玲児は再びタクシーに手を挙げ、乗車した。
「すみません、近くのビジネスホテルまでお願いします」
ついに肉体の疲労は極限に達し、彼は休息を求めた。
タクシーはある十数階建てのビルの前にくると停車した。玲児は下車するとそのビルの前で少し立ち止まった。
博多メインシティホテル
その入り口の回転ドアを潜ると目の前には真新しいブラウン色の受付カウンターがあり、二十代半ばの女性のフロント係が二人待機していた。
「すみません、一泊したいのですが?」
「何名様ですか?」
「私だけです」
「かしこまりました、シングルルームですね」
係員に言われた通りに受付を済ませると、玲児は三〇三号室へ案内された。
――中々シャレた設計じゃないか!
荷物をテーブルの上に置くと、玲児は軽くバスルームでシャワーを浴びて、ここ二日間でかいた汗を流した。白い清潔そうなバスタオルで綺麗に体を拭くとバスローブを身にまとった。それから久しぶりにタバコを加えて火を付けた。しばらくボーっと一点を見つめた。その時だった。
<聞こえるか、玲児、お前は逃げられないぞ>
何と壁越しの隣の部屋からまた謎の声が聞こえて来るではないか。ついに玲児の我慢は限界を超えた。そして決断した。
「もう駄目だ、俺。明日沖縄へ帰ろう」
玲児はシングルベッドの横に合った電話の受話器を取って沖縄の母にコールした。
「ああ、おかん。俺だ」
「玲児ねー、あんた今どこにいるの?」
母の春子は心配そうに言った。
「博多のホテルにいる」
「今日、海斗から電話があってさー、あなたの様子が変だったって言ってたよ」
独特の有賀島なまりである。
「明日、朝の飛行機で沖縄に帰るよ。だから銀行にお金を振り込んで欲しい」
「うんうん、それがいいさー。早く帰っておいで、おばーも待ってるよ」
「分かったよ、それじゃあね」
ただそれだけを伝え終えると受話器を置いた。<さすがにストーカーは沖縄までは追っかけてこないだろ>という期待感が湧いて来る。だがその考えは甘かった。
翌日の朝九時。
玲児はホテルをチェックアウトするとタクシーに乗った。そして途中で銀行に寄り、お金を五万円下ろした後、福岡空港で下車した。搭乗手続きを済ますと朝十一時十分、彼を乗せた旅客機はフライトを開始した。
午後一時三十分。
沖縄に到着した玲児はタクシーに乗り、一気に港までやって来た。そして有賀島行きフェリーに乗船した。全ての悪夢から『開放された』と、そう思った。だがしかし……
<ついにここまで来たぞ、お前は逃げられない>
悪夢の謎の声はついに有賀島まで追いかけて来たのだ。最後の希望は潰えた。
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十三万時間の記憶~愛し愛されるそのために~ 岡本蒼 @okamotoao
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