第2話 逃亡者―北上
――有賀島。それは沖縄本島から30キロ離れた沖合いに、ぽかり、と浮かぶ小島だ。フェリーで50分、人口は2千5百人余り。中央には『霧の丘』と呼ばれるチャート層の小高い丘があり、訪れる観光客を季節を問うことなく歓迎している。
島の平野にはサトウキビ、紅芋、電照菊、落花生畑が一面に緑色の絨毯を敷いている。どこまでも広がるコバルトブルーの澄み渡った海、それに沿って伸びる白い浜は、観光客にとってお目当てのキャンプスポットだ。
そんな島で何不自由もなく、玲児は幼少期を過ごした。そして高校進学の為に沖縄本島へと出ると、口うるさい親のいない生活が出来る、と心の底で喜んでいた。
――時は1990年。
玲児にとって高校時代はごく普通の学生だった。だが小さい頃から、従兄は実に優れた一級建築士だ、と聞かされていたこともあり、自分もいずれはその道を歩むのか、と心のどこかで思っていた。
玲児は高3の夏休みを満喫しようと気が高鳴っていた。そして友と一緒に、南国の地平に続く青い海に飛び込んで熱帯魚を追いかけて泳いだり、ハイビスカスの香りを頼りに緑を駆け抜けた。それは目を覆うくらいに輝いた、人生で一回目の青春時代だと言ってよい。
その後、夏休みも明けて玲児は大学進学を決意するとペンとノート、参考書を買いあさって勉学に励む日々が続いた。
――年が明けた1991年。
爽やかな春のそよ風が頬をなでる頃、大学受験を突破して進学の為に、今度は福岡に行くことになった。
海を渡った福岡では、真新しい9階建てのワンルームアパート802号室での独り暮らしが待っていた。部屋にはブルーのカーテンを掛けて、14インチの小さなテレビに白いテーブルを用意した。夜になるとベランダからは、ぽつりぽつりと街並みのネオンを楽しめる。
期待と不安を抱いて大学の門を潜ると、瞳に移るのは新鮮なものばかりだ。キャンパスのスケールの大きさに心が魅かれ、時には言葉の違いに苦戦した。それでも玲児は、持ち前の明るさで不安を楽天に変えて行き、過ぐに苦楽を分かち合える仲間もできた。
「玲児、新しいゲームソフト手に入れたらしいな」
出逢った友と一緒にパソコンゲームをプレイしたり、
「今日の玲児のカラオケ聞くと耳がいてーよ。今度の合コンが思いやられるぜ」
などの会話で盛り上がったり、
「ヘタクソの玲児が何とストライクを3回連ちゃんで出すとはな。きっと今日は運が良かったんだよ」
と、ボウリングや色々な娯楽を思う存分に楽み、青春を謳歌していった。それは人生の栄光の時代だった。
だがやがてその日々に変化が現れた。
大学の講義、特に専門分野の建築を学ぶうちに勉学に目覚めだした。そして夏休みに入って沖縄へ一時帰郷するときに福岡空港を見て、
――俺はこのデザインを超える設計をしてみたいんだ!
と感じて、玲児は――建築士に成るのだ――そう決意した。
そして玲児は本格的に勉強に励んだ。
「玲児、ボウリングに行こうぜ?」
「ごめん、今設計図を描いているいい途中なんだ。今回はパスだ」
玲児は夢中になって製図版に向かった。
「チェッ、また勉強か。よりによって建築の」
そしてある日は、
「なあ玲児、今日の合コンどうする?」
「すまない、もう少しでいい作品が完成しそうなんだ。今回もパスで」
「またかよ。いい加減、たまには付き合えってんだ」
「俺には遊ぶ時間がないんだ」
そう言ってまたロッドペンを持ち、線を引き始めた。
「もういいよ、好きにしろ」
周りの友達はそう言って玲児の元を離れていった。
玲児の才能は開花した。
玲児の描いた設計図を見た者は、
「素晴らしい! デザインはヨーロッパルネッサンス建築の美を彷彿させるな」
と、周りの者の心を瞬く間に魅了した。
「数十年に一人の人材だ!」
教授たちもその才能を認めた。そしてついに
――天才
と称された。
しかし、玲児にとってそんな順風満帆な日々は長くは続かなかった。
「玲児、カラオケに行こうぜ。たまにはいいだろ」
「……ああ、いいよ。今勉強がひと段落したところだ」
そして数カ月ぶりのカラオケボックスに行くと。
「おい玲児、久しぶりにお前歌って見せれよ」
「……う、うん。俺は後で歌うよ」
そう言って3時間後、カラオケが終わるころになっても玲児は一曲も歌わなかった。
「さあ最後は誰が歌う? やっぱり玲児でしょ」
「ご、ごめん。俺……喉の調子が悪くて歌えない」
「チェッ、結局久しぶりのカラオケは歌わずじまい、か」
いつしか玲児は人前で歌さえもうたえない性格になっていた。
――ああ、暗い虫。今日もお勉強か?
彼を取り巻く学生や友までもが玲児に嫌がらせを言って来た。
それでも懸命に勉学に明け暮れた。
「勉強しか知らない暗い虫」
「玲児、何だかゴキブリみたい」
いつしか玲児は≪孤立≫した。
もはや友達と言えば毎日握る製図用のロッドペンだけ。
「薄汚いがり勉」
「喋らないゾンビ」
周りの者は集団になって嫌がらせをエスカレートさせていった。
やがてそれは<虐め>を誘発させた。
そう、彼は天才と呼ばれる見返りに<虐め>という莫大な代償を支払うことになったのだ。
それを切っ掛けにして玲児はアパートでニート生活を送る日々に陥った。パソコンゲームに明け暮れるだけの孤独な生活。そんな日々が2ヵ月も続いた。
そしてある日、突如彼に異変が起きた。
――謎の声が聞こえる
という不思議な現象である。
謎の声、それは初め8階のアパートのベランダ越しに聞こえてきた。
――おい玲児、何してるんだ?
それは疑問詞だった。玲児は真相を確かめようとベランダに出てみた。
「ここはアパートの8階だぞ。向こう側に誰かがいることなど有りえない」
やはりそこは一面草木に覆われた大地を見渡せるだけの高い場所に過ぎなかった。
やがて謎の声は玲児の行動を観察しているかのような言葉になっていった。
玲児はパソコンゲームをすると、
――ゲームが上手いな
と聞こえ、
お風呂に入れば、
――お風呂は気持ちいいか?
とむやみに問いかけてくる。
ある日、そんな謎の声に耐え切れず、これは何かおかしい、誰かがこの部屋に『隠しカメラや盗聴器を仕掛けたのだ』という疑念を抱き始めた。その思いに駆られて、タンスの中や部屋の隅々にその機器がないかと探し求めた。しかし幾ら探しても何もない。
時間の経過とともに謎の声はエスカレートし、それらから逃れようとニートの玲児が唯一の友達である斎藤のアパートへと逃げ出した。斎藤にそのことを相談してみた。
「なあ斎藤。謎の声って何だろうな」
「玲児、それって収音マイクを持って誰かがお前のことを追っかけてるんとちゃうか」
その言葉で玲児の頭には
『尾行』と『監視』
という2つの言葉が脳裏に浮かんだ。
そしてついに僅かな時間で
――ストーカ!!
という死神の存在をついに確立させた。
――ストーカーから――逃げる
その衝動に駆られ、かくして玲児の日本列島縦断の<逃亡劇>が幕を開けた。
玲児は少しの着替えを黒いボストンバックに詰めると、足早にアパートを後にした。
「奴らから逃げなけければ」
その思いだけで頭が一杯だった。玲児は近場の駅に来たがあえて電車には乗らなかった。
「奴らを巻くにはタクシーに乗った方が得策だ。行きたい場所を自由に変えられるからな」
その思いで駅の前に待機していたタクシーに乗った。
「運転手さん、悪いがとりあえずここを離れてくれないか」
玲児の言葉を聞くなり運転手はタクシーのアクセルを踏んだ。とその時だ。
――玲児、逃げられないぞ
突然、タクシーの無線機から妨害電波が入って来た。
――玲児は気持ち悪い、お前を絶対に許さない
無線機から聞こえる声は徐々にエスカレートしてゆく。そして玲児は小倉駅でタクシーを止めて下車した。
玲児は懸命に駆けだした「逃げるんだ」と必死だった。謎の声が聞こえる中、小倉駅の至る箇所を駆け回った。そして東海道山陽新幹線に乗車し、一路横浜に向かった。そこには従兄の海斗兄さんが住んでいる。
「横浜まで行けば大丈夫だ、きっとそれまでには奴らから逃げ切ることができる」
そう思っていた。
新幹線の自由席に座ると窓から田園風景やビル街がスクロールしていくのをしばらく眺めていた。しかし……
――玲児、お前は逃げられない、死んでしまえ
まだ謎の声は聞こえてくる。そしてある作戦を思い付いた。それはストーカーを巻くという飛びっきりの<フェイント作戦>だ。
新幹線は新大阪駅に停車した。そして、玲児はストーカーたちに予定通り作戦を仕掛けた。それは新幹線を<俺はここで降りる>と見せかけて<降りない>という作戦だった。
<作戦はうまくいったようだ。これでストーカーを巻けた>と、そう思った。だが、
――玲児は逃げられない、ぶっ殺してやる
またしても謎の声がそう告げた。玲児のフェイント作戦は失敗したのだ。その場に居合わせた人々は彼を変人だと思って見ている。そして名古屋駅でも同じ作戦を使ったが、謎の声からは逃れられない。
「いったいなぜ俺を追いかけるんだ、俺が何をしたっていうのだ!」
玲児は気が狂いそうなほどに、苦しかった。
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