第3話 拝命

 

 少しずつお湯をかけて様子を見ていると、声は出さないがネロもわんこも気持ちよさそうだ。ロディネは使い捨ての海綿を石鹸水で浸し、ネロの肌をそうっと擦った。

 

「痛くないか? 大丈夫ならもう少し力入れていいか?」

「もうちょっと強くても大丈夫」

「りょーかい」

 

 なら、と力を入れて擦ると、垢がぽろぽろと落ちる。自分の体だったら少々痛くても全力で垢を落としたいところだが、他人の肌、ましてや子どもの肌だ。大切なものを扱ってるんだと思いながら、優しく、痛くないように探りながら洗って、ふやけてからもう1回洗おうとネロを湯船に浸けた。

 

「うわぁぁぁじんじんするぅぅぅ」

 (きゃぅぅぅぅ)

「ーーっ! ふ、ふふっ……!」

 

 見事に同調シンクロしすぎだろう。2人とも目を見開きぷるぷる震えていて、ロディネも笑いを堪えるのに必死でぷるぷると震えてしてしまう。

 

「ちょっと熱く感じるかもしれないけど、温度差に体がびっくりしてるだけだから……湯船の中に段があるだろ? 足が温度に慣れたらそこへ腰をかけて、大丈夫そうだったら肩まで……って風に徐々にいこうな」

「うん!」

 (わん! )

 

 段々と慣れ、とっぷり湯船に浸かったネロの隣で同じように緩みきった顔をしているわんこを見て、ロディネの肩のつばめがちゅぴちゅぴ囀ずる。

 

「そっか、お前も楽しいか」

「なに?」

「んーん、何でもない。よし、そろそろ出るぞー」

「えーっ!」

 

 ネロとわんこは不満気な様子。でも風呂は体力を使うからいきなり長時間は駄目だ。あんまり駄目って言いたくないけど、今日はまだ駄目だ。

 

「ネロ、お腹空いてただろ? 俺もお腹空いたし、もうすぐ飯が来ると思うんだ」

「………………俺も、空いた。ご飯、食べる」 

 

 究極の選択を突きつけられたかのように悩んで、ネロは湯船から出た。ロディネはその姿にも笑いを堪えながら、もう一度体を洗って流し、ふわふわのタオルでそうっと水気を拭き取っていく。そんなロディネの肩でつばめは、小さくやっぱり楽しそうにちゅぴちゅぴと囀ずっている。 

 

「「いただきます」」

 

 すぐ食べられる状態で届けられた食事を前に、ロディネとネロは食前の祈りを捧げた。今日の食事は感覚が暴走した直後の番人が食べる用の回復食なので、基本的に素材の味そのものが堪能出来る、いい食材を丁寧に調理してある。大丈夫そうなら塩や砂糖を少しずつ加えて調味していく感じだ。丁寧に種類ごとに密閉容器に入れてくれているのを開けて確認させ、本人的に大丈夫そうだと言う蒸し野菜と白身魚、オムレツをプレートに移した。それ以外はロディネの晩飯だ。

 一口食べたネロは、ぼろぼろ涙を落として、食べ進められない程に咽び泣き始めた。ロディネはセンチネルではないから、その苦しみそのものは分からない。けれど、生きるために不味いものや食べたくないものを胃に無理矢理捩じ込む苦しみは何となく分かる。きゅーんきゅーんと大きな声で鳴きながら、わんこが慰めるようにネロの頬を舐めているのと同じように、ネロの涙をそっと拭った。

 ひとしきり泣いて落ち着いたところで、食事を再開したネロがまた、ぴたりと動きを止める。

 

「甘っ……」

「えっ、大丈夫か? 野菜駄目か?」

「いや……おいしい。これ、本当に野菜? すごい甘いんだけど……」

「そういうことか。蒸してるから余計甘く感じるのかもな」

 

 最近の野菜や果物は農家や農業組合の涙ぐましい努力と試行錯誤でやたらと甘くて美味いから気持ちは分かる。ロディネが子どもの頃食べていたような野菜が、同じ名前を名乗るのを許せないレベルの美味しさの野菜や果物もある。 

 

「どうする? もうちょっと食えるか?」

「食べる……美味しい……」

「泣くな……ってのは難しいよな。泣いても拭いてやるから、食え食え」

 

 再びぼろぼろ泣きながら食べているネロの涙と鼻水を拭き、おかわりを足そうとロディネが目を離した一瞬で、ネロはスプーンを握ったまま船を漕いでいた。わんこはもう既に寝ていて、つばめがそれを覗き込んでいる。

 歯磨きはさせた方がいいだろうが、あまり眠れていないと言っていたから、睡眠を優先させてやりたい。ロディネはネロの手からスプーンを取り、机に置いてそのまま抱え上げた。目を覚ます気配はない。

 

「おやすみ……また明日な」

 

 隣の部屋のベッドに降ろして毛布を掛け、退室して静かに扉を閉めた。コテージ型は部屋が複数あって、扉を閉めれば完全防音仕様になっている。確認用の小窓がついているので時々そこから覗き込むようにして、本格的に眠る時間になったらロディネもネロと同じ部屋で眠る予定だ。

 

「んんー……! さて、どうするかね」


 とりあえず、と残り物をちゃっちゃと腹におさめて後片付けをしていると、小さく扉を叩く音がする。覗き穴から確認すれば、扉の前には昼にロディネを呼びに来た事務官が立っていた。扉を開けると事務官は深々と頭を下げる。食堂でのテンパり具合が嘘のようだ。

 

「ロディネさん、お疲れ様です。日中は本当にありがとうございました」

「おう、遅くまでお疲れ様。ネロは飯食って寝たよ。ところで確認なんだけど、ネロを連れてくる時って麻酔とか使用してないよな?」

「それに関しては大丈夫だ。薬品などは使用されていない」

「管制長!」 

「流石だなロディネ。ご苦労だった」

「とんでもありません。お疲れ様です」

 

 こんな遅くにまさか管制長トップ直々にお出ましとは。ネロには何かあるんだろうか。

 

「正式な辞令諸々はまた後日となるが、あの子の担当はロディネにお願いしたいと思っている」

「元よりそのつもりです。何も言われなければ手を挙げようかと思っていました。謹んで拝命致します」

 

 簡易な宣誓に頷いた管制長が、資料をここにと指示をすると、事務官がファイリングされた資料を手渡してくれた。

 資料によれば、元々黒髪黒目を揶揄われることが多かったネロは、少し難しい子供だったらしい。そのため気付くのが遅れ、暴走したというのが孤児院側の主張だ。

 

「酷くなったのが最近とはいえ……1年近くあの状態……最初は番人の力を持つネロと、導き手の能力を持つ子どもの両方を確保しているのかと思ったんですけどね。ネロの話だとそんな感じでもないし……」

 

 番人と導き手が対なら闇で高値で取引されるが、単品ではそうでもない。番人はその鋭すぎる感覚故に、脳や心――魂に相当の負荷がかかり、導き手の調整能力がないと心身に異常をきたしてしまう。

 だから単品だと長持ちしなくて使い捨てになるし、導き手は対番人にしか能力を発揮できず、番人がいなければ一般人と変わらないからだ。

 

「一応、ですけど……孤児院の運営側に塔に未登録の導き手がいないか確認してみた方がいいかもしれません。流石に1年もネロがあの状態で耐えられたとは思えない。対にして売れる導き手の子供が手に入るまで、こっそりと大人の導き手が制御していた。でもネロの能力が想像以上に強かったから制御や調整が出来なくなった、とか……」

 

 違っていればそれはそれでいいけど、可能性はある。明日以降ネロにもそれとなく聞いてみよう。管制長もその可能性も視野に入れて国の監査に管制官を派遣してみる、とのことだ。

 

「で、お前から見たネロの感想は」

「潜在能力は高いです。不完全で不安定ではあるものの、自力で盾を構築し、状況に耐えていた。今日聞いた話だけでも視覚以外の感覚に目覚めているのが分かりましたし、十中八九、番人でしょうね」

「レオナルドと比べてどうだろうか」

「……状態が悪いので何とも。ゆっくり疲弊した心身を休め、もう少し成長してから比すべきでしょう」

「外見は小さいが、あの子は12歳だぞ」

「えっ、嘘でしょ」

 

 いやいやいや。いくら栄養状態よくないからって12歳にしちゃ小さすぎるだろう。


「精々9歳くらいにしか見えないんですが」

「それについては人種が違うからでは」

「にしたって小さいし、わんこも見たことない……あっ、そうだ。忘れるとこだった。ネロの魂獣なんですけど、全然見たことない犬なんですよね」

「ほう? もし今の時点で伝説上の生き物なら、相当強い番人なのではないか」

「いやいやいやいや、絶対違う。そういうんじゃないです。何か黒くて耳が小さくてつぶらな黒い目で、その上に薄茶色の眉毛がある犬なんですけど」

「眉毛」

「はい眉毛です。しかもまんまるの」

 

 俺が両手で輪っかを作って目の上に置くと、管制長が何言ってんだコイツふざけてんのかみたいな顔をする。いやだって本当なんだからしょうがないじゃん。

 

「ちょっと絵に描いて……いや、いい。余計分からなくなるだけだ。明日図鑑を用意しておく」

「失礼すぎやしませんか」

「自分の画力を省みてから言え。……冗談はさておき、お前も疲れている所に長々とすまなかった」

「いえ、問題ありません。また資料は目を通して、何かありましたら事務官に言付けさせていただきます」

「分かった。事務官にお前からの連絡はすぐ私の元に上げるよう周知しておく。……分かったな?」

「はい。承知いたしました」

 

 管制長が振り向くと、ずっと黙って待機していた事務官が恭しく礼をする。

「では」と管制長が席を立ち、その後に事務官が続いたのでコテージの出口まで見送った。

 部屋に戻りがてら小窓からネロを覗けば、すよすよ安らかに眠っていて、わんこもいつの間にかネロの腹の上でうつ伏せになって前足を動かしながら眠っている。その長閑な光景を目にしてると、何だか一気に疲れが押し寄せてきた。


(んー……俺も資料を読んだら寝るかな……)


 ならあとは寝るだけの状態にしてしまおう。

 欠伸をしながらさっさと風呂に入って寝支度を整え、そこそこの厚さの資料に目を通し始めた。

 

 

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