第二十三話 フィレンツェ
マリアがフィレンツェの街に入ったのは、その年の暮れ、十二月も残り僅かになってからであった。
フィレンツェの街を流れるアルノ川の南側――賑わいを見せる旧市街の川向い、丘を登ったところに観光スポットとして名高いミケランジェロ広場がある。
ここにはミケランジェロ作〝ダビデ像〟のレプリカが置かれており、広場の名の由来にもなっている。フィレンツェの街並みを一望している写真や映像を見る機会は多いが、それはこの公園から遠望した景色だ。
ここからなら、中世に建てられた家々の煉瓦の薄茶色と赤い瓦屋根、現在も市庁舎として使用されているヴェッキオ宮のこげ茶色と、白と緑と薄いピンクの大理石で建てられたサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の巨大なドゥオモと横に立つジョットの鐘楼が、遠く街の中央に望める。
そのさらに遠くに位置するのが、この街の玄関口、サンタ・マリア・ノヴェッラ駅だ。
マリアはミケランジェロ広場の近くに位置するサン・ミニアート・アル・モンテ教会に協力を仰ぎ、拠点とした。事件は郊外や近隣の市町村で起こっていることから、旧市街に拠点を構えても無駄だろう――との判断だった。
僅かばかりの手荷物を宿舎に宛がわれた自室に置き、マリアは教会を出た。
「伝言を預かっています」
そう言って、マッテオ神父が言伝を伝えに来たからだ。
「『ウフィッツィ美術館のフィリッポ・リッピの〝聖母子と天使〟の前で待つ』とのことです。チケットは予約しているそうです。予約番号は……」
――とのことだった。それで、マリアは街に向かったのだ。
観光客で賑わうミケランジェロ広場を尻目に、ピッティ宮へ向かう小道を下って行く。途中、作曲家チャイコフスキーが住んでいたこともある家の前を通り過ぎ、曲がりくねった道をしばらく歩くと、やがてフィレンツェで一番古い橋、ポンテ・ヴェッキオへと続く道に出た。左へ行けば、中世ルネサンスの時代、時の権力者メディチ家の居城であったピッティ宮があり、右へ曲がれば、観光客がそぞろ歩く橋へと向かう道だ。
マリアはポンテ・ヴェッキオへと向かい、金銀細工の店が軒を並べる人混みの橋を渡った。すぐに右に折れるとヴァザーリの回廊に沿って、ウフィッツイ美術館に出た。ここは元々、コの字型に建てられた政庁舎で、現在はイタリアでも屈指の美術館となっている。
マリアは予約専用の切符売り場に並び、聞いた予約番号を告げてチケットを買い、ゲートを潜った。予約していなければ、行列に並ぶこと数時間は避けられないほど、ここは人気のある美術館だ。現に、この日もチケットを求める人々が、長蛇の列を形成していた。
収蔵品にはミケランジェロ・ブオナローティ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエッロ・サンティ、サンドロ・ボッティチェッリ、フィリッポ・リッピ、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ他、名立たる巨匠たちの作品が名を連ねている。
階段を上り三階へと向かい、多くの人が出入りしている大きな部屋へと入った。観光客に人気の絵が展示されている部屋だ。
多くの見学者が人垣をなしている絵を後ろから眺める。『
マリアは指定された絵の前に立ち、それを眺めた。
この絵の聖母は、作者フィリッポ・リッピが聖職にありながら駆け落ちまでした恋人のルクレツィア・ブーティがモデルと言われていて、とても柔らかい雰囲気と慈愛や憂いに満ちた表情が印象的だ。マリアもこの絵が大層気に入っており、フィレンツェを訪れる度にここへ来るぐらいだった。
マリアが絵を眺めていると、
「へえ……。『春』や『ヴィーナス誕生』より、
と、声が掛かった。美術館内なので大きな声ではない。人混みに掻き消えそうなくらいの小さな声だったが、マリアにははっきりと聞こえた。
「そうね。ボッティチェッリは華があるけれど、私は好きではないわね。ワザとかも知れないけれど、歪みもあるし……。彼の師であったフィリッポ・リッピの方が私は好きよ」
と、マリアは絵を眺めたまま、声の主を振り向きもしないで、そう言った。
どうやら、『春』のヴィーナスの左右の眼の位置がずれていることを指して、言ったようだ。ボッティチェッリの絵はそれ以外の作品でも、時折り顔が歪んでいたりすることを、マリアは暗に指摘しているのか。
それから、
「あなたはどう?」
と、問い返した。声の主はそれに対して、
「そうだな。俺も同感だね」
そう言って同調した。
ようやく振り向いたマリアの視界に、男がいた。年の頃は二十代後半から三十代半ばくらい。黒髪に黒い瞳の持ち主で、英国バブアー社の黒いオイルド・ジャケットコートを着て、セージ色のセーターとジーンズを身に着けていた。足元はミドルカットの革靴。端正な顔立ちだが、親しみやすそうな印象を与えるのは、口元に浮かべた柔らかい微笑のせいか。
その男は部屋の中央に正方形に並べて置かれたソファーに腰を下ろしていた。背もたれのない平らなソファーだ。
「それに高名な画家だって、作品の出来不出来があるだろうさ。見る人の絵の好み――ってものもあると思うね。大家だなんだ――ってな世間の評価なんぞ無視して、自分の感性を信じた方がいい。レオナルドも、ルーブルにある『ラ・ジョコンダ』より、ここの『受胎告知』のほうが俺は好きだな。ラファエッロなら、ピッティ宮の『小椅子の聖母』のほうが好みだね」
もちろん、あくまで個人的な嗜好と見解だが――と、男はこの部屋の絵をぐるりと首を回して一通り眺めながら、自論を述べた。
『ラ・ジョコンダ』とは、『モナ・リザ』のことであり、欧州ではその作者レオナルド・ダ・ヴィンチを〝レオナルド〟と省略することが多い。イタリア語で、〝ダ・ヴィンチ〟は〝
アメリカでは〝ダ・ヴィンチ〟のほうが通りがいいようだ。日本でも同様である。
「相変わらずね。ミケーレは」
と、マリアは男に天使のような微笑を向けた。通りかかった何人かの旅行客が、ちらりと一瞥しただけで陶然とする微笑だった。
だが、ミケーレと呼ばれた男は、そんなマリアの微笑にも動じることなく平然としたもので、
「ああ。そちらも元気そうだな。何よりだ」
と言いながら、立ち上がった。横に並ぶと、マリアが小柄なので相対的に大きい印象を受けるが、特に大柄というわけでもなく、周りの男性らと身長も大差ない。
しかしながら、マリアは今、男を〝ミケーレ〟と呼んだ。かつて〝切り裂きジャック〟の事件を解明すべく、マリアをロンドンへと派遣したオルシーニ卿が口にした名だ。もっとも、それは、およそ百年も前のことだった。つまり、この男がその
ミケーレは懐中から数枚の紙を取り出すと、
「頼まれていた
と、マリアに手渡した。受け取ったマリアがそれを見つめた後、
「ありがとう。手間を掛けさせたわね」
と言うと、ミケーレは首を振って、
「それくらい構わんよ」
お安い御用だ――と言わんばかりに、そう言った。それから何かを思い出したように、継ぎ足した。
「ああ、一つ注意があってな。多少の水は持参しといたほうがいい――と言ってたよ。理由を聞いたら、
「そう。じゃあ、持っておくわ」
「そうしろ」
「もう帰るの?」
「いや、まだだ。もう、
「そう。それもいいかもね」
「だろ?」
二人して館内を見て回りながら、そんな他愛もない会話が続いた。
「カラヴァッジョは下だったかな」
二人は二階への階段を下りて、カラヴァッジョを探した。一つの部屋の入口でマリアが言った。
「この部屋ね」
「『イサクの犠牲』はどこかな」
「あそこに掛かってるわ」
「ああ、あった」
二人はその絵の前に立った。
『イサクの犠牲』とは、イスラエルの民の祖アブラハムが息子イサクを父なる神の意志に従い、苦悩しながらも天へ捧げようとする瞬間、彼は神を畏れるものと認められ、天使がアブラハムを止めに入る様子を描いたカラヴァッジョの作品だ。神への供物たる羊の頭部のリアルさ、息子を奉げざるを得ないアブラハムの苦悩や、犠牲が自身であると悟った息子イサクの恐怖などの感情がない混ぜになった表情などの描写が見事な作品である。
カラヴァッジョ作の絵なら、ここウフィッツィ美術館にはこれ以外にも、門外不出の『メドゥーサの首』や『バッカス』等が収められている。
「俺はカラヴァッジョが好きだな。まあ、カラヴァッジョなら、
「そうね。ローマで活躍した画家だものね」
「ああ、何だか、ボルゲーゼ美術館にも行きたくなってきたなぁ」
「ふふ」
ローマにあるボルゲーゼ美術館にはカラヴァッジョの作品が多数収められている。子供のようなミケーレの呟きに、マリアが微笑んだ。
多くの名画を存分に鑑賞した二人は、ウフィッツィ美術館を出た。外ではまだ、入館待ちの人たちが長蛇の列をなしていた。それを見たマリアが、ミケーレに言った。
「予約をしてくれてて、助かったわ。ここはいつも混んでるから」
「そうかい。そいつは良かった」
そう言ってマリアを見やるミケーレは、保護者のような優しい眼差しであった。
「
「ええ」
イタリア語でコーヒーをカッフェと言い、それはエスプレッソ・コーヒーのことを指す。
カルツァイウオリ通りの角にある『
レジでカッフェを二つ頼み、お金を払う。イタリアではカウンターでの立ち飲みと、席に就いて飲むのとでは料金が変わる。二人はもちろん、立ち飲みだ。
レシートを受け取ったミケーレがカウンターでそれをバリスタに渡すとすぐにカッフェ――エスプレッソが二つ置かれた。それと、ガス――炭酸入りの水の入った小さなコップも一緒に出された。これはサービスだ。イタリアの街も北になればなるほど、カッフェに砂糖を多く入れる傾向があるようだ。小さなデミタス・カップにスプーン二杯分も入れたりする。だからこれを、カッフェを飲んだ後に飲めば、後口がすっきりとするというわけだ。また、カッフェを飲む前にガス入りの水で口をスッキリさせておく――という意見もある。
ミケーレも御多分に漏れず、カップに砂糖を二杯入れ、二、三口で飲み干した。その後はガス入りの水を煽った。マリアも同様だった。
「で? 敵討ちのために志願した――って聞いたぜ?」
カウンターに片方の肘を載せ、マリアの方を向いたミケーレが改まって、そう問うた。マリアは空になった水のコップの底に何かを見るように凝視しながら、答えた。
「多少はね、それもあるわ。でも、それだけじゃないわ」
「ほう?」
「相手がランドだと思えるからよ。奴を手負いにしたのは私だもの。責任を取って始末しなくちゃね」
コップの底から視線を上げ、ミケーレに向き直ってマリアはそう言った。今度こそ、ランドと決着をつけるのだ――という静かな決意が、そこにはあった。
「そうか」
「ええ」
やはり保護者か父が見守るような優しい眼差しで相槌を打つミケーレに、マリアは力強く頷いた。
「なら、いい」
そう言ってミケーレは店内の左端にあるジェラートをずらりと並べた冷蔵庫に近付き、担当の店員に注文した。両手に一つずつ紙製のカップを持ち、マリアのところに戻ってきた。
「独断で選んじまったが、どちらがいい?」
と、手にしたカップをマリアに見せた。片方はピスタチオとチョコレート、もう片方はフルッティ・ディ・ボスコ――
「じゃあ、こっち」
と、マリアはフルッティ・ディ・ボスコの方を手に取った。
店を出て、二人してジェラートを食べながらぶらぶらと街を歩く。そのまま、観光客で賑わうシニョリーア広場まで来た。その頃には二人ともジェラートを食べ終わっており、近くの店前に置いてあるゴミ箱にカップを捨てた。
それから、ヴェッキオ宮――十四世紀に建てられ、現在もフィレンツェの市庁舎として使用されている――横の、ロッジア・ディ・ランツィ――ランツィの回廊の階段に腰を下ろした。そこは斬り落としたメドゥーサの首を持つ『ペルセウス』の銅像を始め、複数の彫刻が並べられて展示しており、二人同様に階段に座って休憩している人々が多くいた。
ヴェッキオ宮の前にもミケランジェロの〝ダビデ像〟があるが、ミケランジェロ広場の物と同じく複製である。ここには元々はオリジナルが設置されていたが、風雨などによる大理石の劣化を避けるため、現在はアカデミア美術館に移設されている。
階段に座った二人は話をするでもなく、黙ったまま、広場の人々を眺めていた。そうしてしばらく座ったままだったが、やがて、言葉を交わすでもないのに、どちらからともなく立ち上がった。
「さて、そろそろ引き上げるかな。ああ、夕飯に良い店を知らんか?」
「そうね。『オステリア・ディ・チンギアーレ・ビアンコ』というオステリアが美味しいそうよ。ポンテ・ヴェッキオを渡って、ボルゴ・サン・ジャコポ通りにあるお店よ」
イタリア語で〝オステリア〟というのは大衆食堂の意味、〝チンギアーレ〟は猪、〝ビアンコ〟は白。つまり、その店は〝白い猪食堂〟といった名である。
「そうか。今夜どうだ?」
「そうね。たまにはいいかしらね」
「じゃあ、決まりだ。今晩七時でいいか?」
「ええ」
「じゃあ、店で待ち合わせでいいんだな?」
「ええ、そうしましょう」
「わかった。ああ、服装は替えて来いよ。さすがにその服で肉や酒を嗜むのはどうもな」
「今時はそう、煩くもないけれど……。そうね、そうするわ」
「そうしてくれ。その方が気兼ねしなくていい。じゃあ、今晩」
「じゃあ、後で」
そう言って二人は別れた。
人混みに紛れていくミケーレを見送った後、マリアもまた人混みの中へと歩き出した。
新年が近いフィレンツェの街は人々でごった返していた。心なしか、街を行く人々も浮き浮きとしているようで、この街全体が賑わい、活気に満ちている。
ポンテ・ヴェッキオへ向かって歩くマリアが何を見るともなく付近を眺めていると、大層混み合った店があるのに気付いた。『ルチアーノ』という革製の手袋の店だった。小さな店内に溢れんばかりの客がおり、カウンターの上には零れ落ちそうなくらいの色取り取りの手袋が出され、店員の説明を受けながら、客が試着していた。
マリアはその様子を微笑ましく眺めていたが、ふと、何かを思い立ったように自分の右手を見た。それから、しばらく手を見つめて小難しそうな顔をしていたが、一つ大きく息を吐くと軽く首を振った。どうやら、プレゼントに手袋を――と思いたったようだが、本人がいないとピッタリのサイズを探し辛いことに考えが及んだのだろう。諦めたのか、改めて本人を連れて来ようと思ったのか――。
また歩き始めたその顔に迷いはなく、マリアは橋を渡った。
と、そのマリアが渡ったばかりの橋を戻ってきた。そのまま、ポル・サンタ・マリア通り、カリマラ通りを抜け、リプッブリカ広場の前を過ぎ、ローマ通りにある『グッチ』のフィレンツェ店の前に来た。そこまで来て、今さらに迷いが生じたようだが、思い切った顔で店に入っていった。口髭を綺麗に整えたロマンス・グレーの店長らしき人物を捕まえ、
「実は……折り入って、お願いがあるのですが……」
と、切り出した。
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