『イル・モストロ』事件――二十世紀の『切り裂きジャック』事件
第二十二話 新たな猟奇殺人事件
それからもマリアは異端審問会の仕事を続け、ランドも姿を消したまま、長い年月が過ぎた。当時の関係者も年老いて次々と亡くなっていった。
〝切り裂きジャック〟ことランドのことを、マリア以外の者が忘れ去った頃、再び禍々しい事件が起き始めた。
イタリアはトスカーナの州都・フィレンツェ近郊で事件は起きた。
一九六八年八月二十一日。
フィレンツェ郊外の森付近に停められていた車から、男女の遺体が発見された。
犯行は銃で行われた。使用された銃は二十二口径のベレッタ。イタリア製の銃で多く出回っており、入手も容易であった。
もっとも当初は、これは単独の事件と目され、被害者の女性の夫が容疑者として捕まった。女性が浮気をしていたと考えられ、それを怒った夫による犯行と見なされたのだ。
夫は一九七〇年に懲役十三年の実刑を受けた。
しかし――。
一九七四年九月十四日。
またしてもフィレンツェ郊外、ボルゴ・サン・ロレンツォで、農道に停車されていた車から若いカップルの射殺死体が発見された。遺体は二人とも裸であったため、カー・セックスの最中に襲われたものと推測された。
特筆すべきは、殺害後に女性の身体に九十六ヶ所もの刺し傷があったことである。何かの図形を描こうとでもしたようにも見えた。男性には十回ほど、無造作に刺し傷があったのとは対照的であった。
さらに女性器には葡萄の茎が差し込まれていた。それゆえ、何かの信仰等の儀式的なものか――とも噂されたが、明確には分からなかった。
それでも、この事件も前回の事件とは関連付けられてはいなかった。別件と受け取られたのである。前の事件と六年も間隔が開いていたからでもあり、前回の事件の被告は服役中だったのだ。
事件に使用された銃はやはり二十二口径のベレッタ。イタリアならば、何とでも手に入る代物だった。
ところが――。
一九八一年六月六日。
使用された銃はこれもベレッタの二十二口径。ボルゴ・サン・ロレンツォでの事件と同様に、死後、車から引きずり出された女性にはナイフによる多数の刺し傷があり、あろうことか、今度は性器を切り取られていた。
この事件もやはり当初は別件と見なされていた。二件目の事件から、すでに七年も経っていたからである。模倣犯による犯行。そう判断された。警察が、一九六八年に捕まえた被告の冤罪を認めたくなかったからだ――とも噂された。
躍起になった警察は、犯人と思しき人物を逮捕したが、その拘留中の十月二十二日。次の犯行が行われた。
フィレンツェの北西部、カレンツァーノのバルトリーネ付近の停車中の車内から、同様のカップルの遺体が見つかった。
警察は改めて線条痕検査を行なった。調べてみると、四件すべてが同一の二十二口径のベレッタでの犯行だったのだ。
ことここに至り、ようやく連続殺人事件と見なされたのだ。
ここまでで十三年。最初の事件の犯人と目された男はこのとき服役中で、まだ釈放されていない。共犯者がいると思われたからだった。
警察は共犯者として新たに男を逮捕したが、翌、一九八二年六月十九日。またしても同じベレッタで男女が殺された。警察は逮捕した男を誤認逮捕と認め、釈放した。
一九八三年九月九日。
またしても殺人が行われたが、今回は男性二名が殺された。一人は長髪であったため、女性――カップルに間違われたものらしい。
一九八四年七月二十九日にも男女が殺された。
犯人は、年に一回のペースを忠実に守って犯行を行い、調子に乗って間隔を詰めるような不用心なことはしなかった。警察にとっては厄介なタイプの犯人であった。
一九八五年九月八日。
フィレンツェの南、サン・カシャーノ・イン・ヴァル・ディ・ペーザに於いて、男女が殺された。女性はやはり陰部を切り取られ、犯人は警察を嘲笑うように、それを事件担当者に送り付けてきたのだ。
格好のネタとして、犯人に翻弄される警察とそれを書き立てるマスコミ、無闇に騒ぎ立てる世論、安全を脅かされた市民からの苦情――。
対応に苦慮したフィレンツェの警察は、九十年前の〝切り裂きジャック〟による連続殺人事件を参考にしようと、スコットランドヤードに事件について問い合わせた。
しかし、およそ百年前の事件である。
当時、事件に係わった全ての人物はすでに亡くなっており、記録でしか残っていなかった。
だが、スコットランドヤードの定年間近の一人の刑事が、若い頃に聞いた話を思い出した。それは、当時の担当官が秘かにヴァチカンの一部門に協力を求めたことがある――という話だった。早速ヴァチカンに問い合わせてみると、異端審問会という裏の部門が出張ったことがあるという。
そうは言っても、審問会においてすら約百年前の出来事である。さすがに記録しか残っていないと思われた。だが、当時の資料を調査し提出するように求められた審問会所属のコッツィ枢機卿に、彼の下で資料の作成を手伝っていた一人の修道士が、
「マリアなら、何か知っているかと思いますが」
と、言ったのだ。それを不思議に思ったコッツィ枢機卿は当然、修道士に問い返した。
「何故だ? 何故、そう思うのだ?」
「え……、いえ、以前マリアは、『ロンドンに行ったことがある』――と申しておりましたから……」
「それだけか?」
高圧的な態度でコッツィ枢機卿は修道士を睨んだ。彼は五十歳を過ぎた、恰幅は良いが
『ロンドンくらい、行ったことはあるだろう』と彼のその目が告げていた。彼は普段から人当たりの悪い枢機卿であったのだ。
「え……、あの……
「なっ……!? 何だと? あれは百年も前の事件だぞ? それではこの私よりも歳上になるではないか」
「ご存じではなかったのですか? マリアは階位こそ低いですが、ここ異端審問会では
「……」
二の句が継げない枢機卿を見て、修道士が気を利かせた。
「あの……。では、マリアをお呼び致しましょうか?」
「あ、ああ……」
未だに信じられない、といった顔の枢機卿は、ようやくそれだけ言った。
修道士がマリアを呼びに出てしばらくすると、戻ってきて、申し訳なさそうな顔でこう言った。
「マリアは今、出掛けているそうです。捜しに行かせましたので、もうしばらくお待ちください。戻り次第、お部屋の方へ向かわせますので……」
「ああ、分かった……」
まだ得心がいかないのであろう。枢機卿の返事にはキレがない。
それからしばらくして、どうにか納得しようとしていたらしく、しかしながら、やはり得心がいかないのか、依然として難しい顔をしたままのコッツィ枢機卿の部屋を数回、小気味良くノックする音が響いた。
「うむ……。入れ」
と、枢機卿が鷹揚に応じると、マリアが現れた。
「お呼びでしょうか? コッツィ枢機卿」
「今まで、どこへ行っておったのだ?」
今まで待たされていたからか、少しばかりの苛立ちを含んだ枢機卿の問いを、マリアは平然と受け流し、そして淡々と答えた。
「サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会で、フラ・アンジェリコ様の墓参を。その足で、サン・ルイージ・ディ・フランチェージ教会へ赴き、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョの『聖マタイ』三部作を鑑賞しておりましたところ、使いの者が現れ、こうして参上致しました次第です」
「そ、そうか」
どこか気後れがして、何とか枢機卿は相槌を打った。この、どう見ても十代の少女にしか見えないマリアが、自分より二倍以上も年配だというのだ。
「失礼しました。少し饒舌になってしまいました。御容赦下さい。それで……私に如何なる御用で?」
黙礼するマリアを見ているうちに、年甲斐もなく頬に血が上るのを自覚した。こうして改めて見ると、マリアはとても美しかった。それで、
「あ、ああ……、用というのはな……」
と、不自然なほど、声が上擦ってしまった。照れ隠しと、威厳を正すように枢機卿は咳払いをして、マリアに問うた。
「その方、〝切り裂きジャック〟の事件をよく知っているそうだな?」
その言葉を聞いた瞬間、ほんの僅かな一瞬ではあったが、マリアの瞳が冷たい光を放った。正面にいた枢機卿が息を呑んで、話を続けるのを躊躇ったほどであった。
背筋をぞくり、と寒気が疾った。
確かにこの少女は、自分などよりも遥かに長い年月を生きてきた存在なのだ――とコッツィ卿は本能で察した。
「あ……いや、近年フィレンツェで起こっておる殺人事件を知っておるか? 一年毎に恋人たちが殺される事件だ。そのフィレンツェの警察が〝切り裂きジャック〟事件を参考にしようとスコットランドヤードに問い合わせたところ、異端審問会が係わったことを知ったらしくてな。こちらにも、出来る限りの情報が欲しいとの申し出があったのだ。俄かには信じられんのだが……その方、当時、ロンドンに行っておったらしいな」
「はい」
マリアは氷のような表情で言った。コッツィ枢機卿はごくりと咽喉を鳴らして、ようよう言った。
「その時のことを教えてほしい……」
しばし、瞑想するように黙った後、マリアは静かに語り出した。
「時の異端審問会上層部の枢機卿の命で、スコットランドヤードから極秘に協力要請がありましたので、ロンドンに赴き〝切り裂きジャック〟事件を解明するように――とのお達しがありました。他に四人のハンターを向かわせるとのことでした。ですが、現地にいたのは五人。この時点で、すでに部外の者が成りすましていたのです。それはともかく、私が出立した時には、二人の被害者が出ておりましたが、到着直前にさらに二人が被害者となっておりました。調査を続ける中で、五人の派遣されたハンターの一人、ランドという男が吸血鬼であり、事件の犯人だったことが判明しました。同時に二人が彼に懐柔され、眷属となっておりました。私とエリス、リックというハンターでその眷属二人を葬り、ランドに手傷を負わせましたが残念ながら逃走されました。私は本部に連絡を取り、事態の推移を説明しましたが、本部の命により、別の事件に回されました。ランドが少なくとも、もう一度事件を起こすことは明白で、私は抗議しましたが決定は覆りませんでした。代替案として、交代要員二人を送るとのことでしたが、一人はベテラン故に
当時の上層部への不信を未だに燻らせていたのか、立て板に水の如くに、一気に捲くし立てるように語ったマリアの証言に、コッツィ卿は言葉を失い、
「う……む……、済まぬ……」
とだけ、口にした。それを聞いたマリアが、
「いえ、コッツィ卿が謝る必要はありません。まだ、
と、遮った。ただし、慇懃無礼と言っても差し支えない物言いだったが――。
それだけ、マリアは当時の出来事を、今以って容認していないということだろう。事実、〝切り裂きジャック〟事件以降、正当性がない命令にはむやみに遵守せず、マリアは独自の判断で行動することが度々あった。そして、結果から見れば、その判断は正しかったのである。
リックについては、〝眷属〟となって以降のことは伏せておいた。今はもういない彼に、これ以上の不名誉は必要ない――との判断からだった。
居心地の悪さを感じてコッツィ卿は何度も腰を動かし、椅子に座り直していた。その様子を冷ややかな眼差しで見ていたマリアが言った。
「コッツィ卿。此度のフィレンツェの事件……是非、私を派遣して頂きたいのです」
「何だと?」
「私はこれにもランドが係わっていると見ています。私はずっと、友人の怨みを
「何故だ? 何故、そ奴が係わっていると思う?」
「色々とあるのですが……つまるところ、私の〝
「勘……だと?」
「はい」
「それだけで派遣しろ――と?」
「はい」
コッツィ卿の疑問に対するマリアの返答は簡潔だった。そしてコッツィ卿を見据え、
「あとはコッツィ卿の判断に委ねます」
と、静かに彼の返答を待ったのであった。
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