第二十四話 邂逅
ミケーレが『オステリア・ディ・チンギアーレ・ビアンコ』を訪れた時、店内は混み合っていた。開店して二年ほどとのことだったが、人気のある店のようだ。
これは予約が要ったかな――と思ったが、二階席の方からマリアのいる気配がする。
店員に、これこれこのような女性客が来ていないか――とマリアの容姿を伝えて尋ねると、店員の頬に朱が上った。
「はい。先ほどいらっしゃって、お連れ様をお待ちです」
と、教えてくれたが、どこか呆けたような
二階席はまだ、所々空いていた。そこのテーブルの一つに、マリアがいた。金糸銀糸で綺麗に刺繍された淡い薄紫のイヴニング・ドレスに金色の髪が映え、とても良く似合っていた。
テーブルにはすでにアペリティーボ――食前酒が置かれていた。
「待たせたかな?」
ミケーレがそう言いながら、脱いだジャケットを椅子の背に掛けて座ると、マリアも食前酒の杯を手にして残りを一口に煽り、それから、
「いいえ。私もさっき、着いたところよ」
と、答えた。
「その服、いいな。よく似合ってる」
「ありがとう。借り物なんだけれどね。お店に無理を言って貸してもらったのよ」
「へえ……。でも、いい色だ。俺もちゃんとすれば良かったかな」
今日の昼に、美術館で会った時と同じセーターの両の袖を摘まんでみせるミケーレに、優しく微笑んでマリアが言った。
「ミケーレはそれでいいわよ。私がおめかしし過ぎただけよ」
「そうかい? こんな美女の相手がこれで、不釣り合いでなきゃいいんだが」
などと周りを見回しながら言った。その様を見た店員が、注文かと近寄って来た。ミケーレもそれに気付き、
「ああ、
と、色々と注文した。ワインはすぐに来た。二人はグラスを掲げ、
「
と、軽く一口、ワインを飲んだ。視界の隅に、前菜を持って来る店員の姿が入った。
それから三時間ほど掛けて、食事を摂った。ゆっくりとした楽しい夕食だった。
食事を終えた二人が店を出るとき、『チンギアーレ・ビアンコ』にいた全ての店員、男性客がマリアに視線を奪われた。恋人と食事に訪れていた男性客ですら、マリアに見蕩れた。
頬に僅かに赤みが差しているマリアは、この世のものとも思えぬほどに美しかったからである。陶然としなかったのは、長年の付き合いがあるミケーレだけであった。
普通なら、絶世の美女と一緒のミケーレをやっかむくらいはあるだろうが、不思議とその時に店にいた誰もが、そんな二人を〝お似合い〟だと思ったのである。
二人で店を出ると、
「送って行こう」
と、ミケーレが言ったが、マリアは首を振った。
「ありがとう。でも大丈夫よ。それに、これから服を返しに行くから」
そう言って、上着の下から覗くドレスを示し、ミケーレの申し出を断った。店で二人とも結構な量のワインを飲んだはずだが、どちらの足取りもしっかりしていた。
ミケーレに見送られながら、マリアは『グッチ』へと向かった。店の裏手の勝手口に回り、呼び鈴を鳴らすと店長が現れた。穏やかに微笑み、
「どうぞ」
と、そう言って迎え入れてくれた。閉店後も一人、待っていてくれたのだ。
「如何でしたか?」
「ありがとうございました。おかげさまで助かりました。こちらの無理を聞いて頂いて……」
「いえいえ。私どもと致しましても、これほど美しいお方に当方の服を着て頂けて、本望でございますし、デザインの参考にもなります」
と、マリアがお礼を述べると、逆に礼を言われた。更衣室に案内され、いつもの修道着に着替え終えて、綺麗に畳んだ服を手渡すと、
「また機会があれば、お申し付けください。貴方様でしたら、いつでもお待ち致しております。当方の全ての店舗に連絡致しましたので」
店長は、粋な計らいと手配をしてくれていた。店長のその心使いに、改めてマリアは丁重に感謝を述べ、店を出た。
宿舎にしているサン・ミニアート・アル・モンテ教会への帰路の途中、ベルヴェデーレ要塞の横を抜ける道をしばらく進むと、遠く離れた後ろを追いてくる気配が湧きあがった。その気配の他には、この辺りに人の気配はない。一般人を巻き込む心配はなかった。
マリアが振り向くと、果たして、そこに黒い影がいた。その気配は紛れもなく、あの男――。
「久しぶりね。ランド」
「ええ、本当に久方ぶりです」
と、遠く離れた影が答えた。
マリアと影との距離は十メートルほど。それだけあれば、マリアでも一息では詰められないと踏んだのか。また、それほどにマリアの踏み込みを恐れている証でもあろう。右腕を落とされた苦い思いがそうさせた。
「そういえば、リックにも会ったわよ。三十年以上も前だけど」
「ほう。あの役立たずはどうなりました?」
「怯えて引退した彼を無理矢理〝眷属〟にしたのに、相変わらず冷たいのね」
「自由にやらせたら、
「〝
「助け――ですか?」
「〝眷属〟となった者への、私が出来る〝
「なるほど……。やはり、役には立ちませんでしたか」
マリアの言外の意味を悟ったランドが頷いた。リックの話が一区切り付いたと断じたマリアが、話題を変えてランドに言った。
「ところで、まだ調子は良くないみたいね。一年のほとんどを寝てばかりなんでしょ。動けて数日――といったところ? それは、私が斬り落とした右腕のせいかしら?」
「……。ええ、全くもって、その通りですよ」
挑発するようなマリアの問いに、平然とした態度でランドは答えているつもりだったが、自分の現在の状況を見透かしたように本当のことを的確に指摘するマリアに、内心の苛立ちを隠し切れずにいた。以前よりも冷静に感情をコントロール出来ていないことにも、今のランドの現状が表わされていた。
つまり、目覚めても未だに本調子ではなく、腕を斬られたことに対する八つ当たりと、自分の存在を匂わせてマリアを
ランドが目覚めている間に耳にするマリアの噂は、今も異端審問会の第一線での華々しい活躍と、その戦歴の数々――。
相手が自分と同等か、それ以上の力を持っていなければ認めようとせず、けして、横の繋がりを大事にすることもない吸血鬼たちではあったが、それでも、これだけの同胞を屠られては黙っていられなかった。ランドとしても、珍しく仲間というものを意識せざるを得なかったのである。
しかし、本調子でなかったランドにはどうにも手の打ちようがなく、じれったさと焦燥感に駆られる日々であったのだ。
だが、それも終わりだ。
九月に起こした事件での吸血で、ようやく復調の兆しが見られたのだ。結果として、マリアの誘き出しにも成功した。自分の存在をちらつかせれば、エリスの仇を取るために、きっとマリアが出てくるだろう――と考え、その読み通りにマリアは来た。
後は積年の恨みをじっくりと晴らすことにしよう。
ランドがそう思った矢先、二本の投げナイフが飛んできた。咄嗟に躱したが、そこにも三本目の投げナイフが飛来した。先の二本を避けた身体の置き場所を見透かしていなければあり得ない速度とタイミングだった。
「くっ……!」
身を大きく仰け反るようにしても当たってしまう位置だった。
ガツンッ!
それでつい、ランドは
そこから生えていたのは金属――ジャケットの袖口から覗いていたのは、鈍い
もちろん、わざわざそのようにしてあるのだから、銃として運用出来る仕様なのだろう。
ランドは銃口をマリアに向けようとした。しかし、マリアはすでに至近距離にいた。ナイフを受けるために胸元に寄せた銃口をランドが戻す前に、懐に入り込んでいたのだ。
三本の投げナイフをフェイントとし、約十メートルの距離をマリアは一瞬にして詰め寄っていた。
速い――!
ランドは血の気が引いていくのを感じた。
距離を取ろうと、地面を蹴り、跳べる限りに後退する。先ほどの余裕など全くない。マリアの横一閃の一刀を辛くも躱した。以前に対峙した時よりも、マリアは凄みを増し、遥かに鬼気迫る闘い方をしてくる。
ランドは牽制のために銃を撃とうとして銃口をマリアへ向け――なんとか撃つ前に踏み止まった。ランドは我が眼を疑った。銃口に
マリアが再び距離を詰める様子もないことから、ランドも立ち止まり、銃口を覗き込んだ。銃口から少し飛び出ている部分を指先で掴み、引き抜いた。
見れば、それはマリアの投げナイフだった。
いったい何時、詰め込んだのか――。
ランドは驚きを禁じ得なかった。
(こいつ……。俺が眠ってた百年ほどの間に、どんな修羅場を潜って来やがった……?)
そんなことを思いながらマリアの様子を窺うと、天使のような美しさの顔で柔らかな微笑を浮かべていた。そして、
「あら、残念。惜しかったわ。本当に」
と、不敵なことを言った。なまじ顔が美しいだけに、より一層の威圧感がある。
「……ここは引き下がりますよ。今日は貴女に顔を見せに来ただけでしてね」
ランドは負けず嫌いなようで、舌打ち混じりにそんな言い訳じみたことを言った。そこで初めて、マリアの反応が薄いことに気付いたのか、
「おや、見逃していただけるので?」
と、問うた。それに対して、そっぽを向いていたマリアが、横目でランドを見ながら、嘲笑うように答えた。
「どうせ、逃げるのでしょう?
「なっ……!」
冷ややかで辛辣な一言に、一瞬言葉に詰まったランドだったが、怒りを飲み込むようにゆっくりと息を吐き出し、
「ふっ……、そんな見え見えの挑発には乗りませんよ。決着は後日、改めて付けましょう」
と、努めて冷静に言った。
「何とか自制は出来たようね。ええ、それはこちらも望むところだわ。旧友の
「ええ、了解しました」
「ああ、それから――。手下たちをぞろぞろと
それは、マリアの明らかな挑発だった。
ランドの頬と口元がピクピクと引き攣っていた。プライドが大きく傷付けられた――と感じたからだ。
「私を怒らせたこと……後悔しますよ?」
「やってみればいいわ。出来るのなら、ね」
ランドの誇りを逆撫でし、さらに挑発を重ねるマリア。ギリギリと音が聞こえてきそうなほどに歯を噛み締め、血走った眼でマリアを睨むランドは暴発寸前だったが、どうにかこうにか踏み止まった。
そして、そのまま、何も言わずに闇に消え去った。
「行ったようね。まったく……。今夜は久々に
と、不満気に小さくぶつぶつと呟いている割にあっけらかんとした表情のマリアも、再び教会への帰路に就いた。
人気の絶えた道を歩いていると時折り、頬を冬の冷たい風が撫でてゆく。多少の酒が入り、血行が良くなった体に夜風が心地好い。
知らず知らず、マリアは囁くように小さな声で歌を口ずさんでいた。
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