第三話 指令
暗闇に包まれたその空間で、灯りは少女の持つランタンだけであった。少女は大きな黒檀の机にランタンを置いた。ランタンの灯りは、少し離れると途端に暗くなるような僅かな光源であった。
その光源に照らされた少女はとても美しい顔をしていた。
肩口で揃えられた金色の髪、透けるような白い肌、つぶらな青い瞳と流麗な眉、通った鼻梁、可憐な紅い唇。何一つとして文句の付けようもない造形。これ以上どこかが強調されていれば、全体が崩れてしまう。そんな絶妙のバランスである。
灯りが弱々しいせいで陰影が強く出ているからか、二十歳を過ぎているようにも、十六、七の少女にも見える。
矛盾するようだが、儚げでありながら、同時に、芯の通った逞しさも感じさせた。少女は修道女の衣装を纏っていた。
ランタンの灯りで少女の背後には、壁一面の書架がぼんやりと浮かび上がっていた。
ここはヴァチカンの地下、何処にあるとも知れぬ図書室――。
広大なあまり、灯りに浮かび上がっているのは一面の壁だけ。少女の持ってきたランタンが放つ光量は頼りなく、その書架に整然と並ぶ膨大な量の書物も、背表紙の文字が読み取れないほどだった。
しかし、その少女は惑うことなく、壁の一つの書架に向かい、これも迷うことなく、大判の分厚い一冊の本を手に取った。
いつものように――。
精緻な彫刻が施された銅版で装飾された革製の表紙には、『
これもまた、いつものように――。
さらに数ページを繰り、手を止めたところにある項目には、『
喜びと悲しみ。
愛おしさと憎悪。
相反する感情が混じり合った、そんな顔――。
どれほど時間が経ったのであろう。
身じろぎ一つせず、その名を見つめていると、二人分の足音と、新たな光源が現れた。すでに少女は顔を上げて、近付いてくる灯りを見つめていた。いったい、どの時点で気付いていたのか。
従者に導かれて現れたのは、紅い衣装を纏った初老の人物だった。老人が気付くかどうかという距離になって初めて、少女は声を発した。その姿に相応しく、銀鈴のような美しい、それでいて、落ち着いた声であった。
「オルシーニ
「おお、ここにおったか。マリア」
マリアと呼ばれた少女は立ち上がり、彼女がオルシーニ枢機卿と呼んだ老人に恭しく頭を垂れた。
枢機卿は従者に軽く手を挙げると、従者はランタンを机に置いた。置かれたランタンはマリアの物よりも大型で光量も多く、より広い範囲を照らしていた。それから、さらにマリアと同じものを取り出し、手際良く火を分けると、
「では」
と、小さな方のランタンを手に、一人で去って行った。枢機卿を案内した後は、一人で帰る手はずであったのだろう。
満足げに頷いたオルシーニ枢機卿はマリアに向き直り、老いた低い声で言った。
「捜したぞ」
「私に何か、御用でしょうか?」
「うむ。昨今、英国のロンドンで起こっておる事件は存じておろう?」
「? 〝切り裂きジャック〟事件と呼ばれている猟奇殺人事件のことでしょうか?」
「それじゃ。実はな。スコットランドヤードから、協力を求められておる。
彼は芝居気たっぷりに右手を口元の左側に当て、耳打ちするように『極秘』のところを小声で言った。
「しかし、よろしいのですか? 彼の地はイングランド国教会。法王を頂く我らとは……」
「心配には及ばん。すでに王室の許可は取っておる。国教会の承認も得た。それにな、異端らしきものがあれば、我らはどこへでも出向き、これを
「わかりました。判明したことは向こうにも報告を?」
「いや、その必要はない。スコットランドヤードも事件が解決さえすればよい――と言うてきた」
「畏まりました。では、今日にも発ちます。出立までに、現時点で判明していることの資料をお願いします」
「頼む。今回の件、
「それは……枢機卿のお力で?」
「うむ。もっとも、事件が解決するかは、未だ五里霧中じゃがな」
オルシーニ枢機卿が、所属するこの異端審問会において有数の権力者であるのは、ひとえにその能力を認められてのことであった。彼には、
『未来とは正確に見通せるものではない』――が彼の口癖でもあった。
「ああ。それから、別の者も四人、向かわせておる。現地で落ち合っておくれ」
「教会――審問会の方ですか?」
「いや、〝ハンター〟に依頼をしたそうじゃ。そう嫌そうな顔をするな。そなたが多人数で動くのを好まぬのは知っておるがな。儂のところにまで話が来た時には、もう依頼をしたと言うのじゃ。すまぬな」
「いえ。それで……その方たちと協力を?」
「それは任せる。やり易いようにやってよい」
「わかりました」
そう言って、マリアは再び、頭を下げた。それを見た枢機卿は、何かを思い出したらしく、
「そうであった。マリア。ミケーレが来ておったぞ」
と、告げた。そして、
「何という顔をしておる」
と、苦笑を浮かべた。マリアの顔には
「そう邪険にするものではない。そなたにとっては、親も同然であろうに」
「はあ……」
オルシーニ枢機卿にそう言われて、マリアの困惑はさらに深まった。
「やはり
「いえ……。あの場合はやむを得ぬことだったと承知しております」
答えたマリアの顔に、今度は苦悩が混じった。
「頭では理解しておるが、心が納得いかんか」
マリアは黙ったままで、ただ苦笑を浮かべるしかなかった。
「まあ、このようなことは理屈ではないからの。しかしな、今会わねば、あの風来坊のこと。この次現れるのはいつになるや、分からぬぞ?」
そこまで言われて、マリアもやっと意を決したらしく、
「失礼いたします。枢機卿」
と、慌ただしく、走り出した。それを見守る枢機卿の顔は、孫を見やる好々爺のようであった。
「ほっほ、ようやく行きおった。んむ……?」
と、見ている間にマリアはばたばたと帰ってきた。広げていた本を閉じ、書架へとそれを返し、改めて、枢機卿に頭を下げた。
そして、恥ずかしいところを見られた――と頬を赤らめたマリアは、黙ったまま、また慌ただしく去っていった。
「ほっほ、あやつのこととなると
オルシーニ枢機卿は満足気な微笑を浮かべ、マリアを見送った。
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