『切り裂きジャック』事件
第二話 発端
一八八八年八月三十一日。午前二時過ぎ。
メアリー・アン・ニコルズは、ロンドン東部のホワイトチャペル地区の路地裏で、『
街娼を生業としていても、四十三歳にもなったメアリーでは、稼ぎは少ない。中年女性では、値を吹っ掛けることが出来ないからである。
とは言え、どうせ、
「お兄さん、どう? 二シリングでいいわよ」
と、男たちの興味を惹くように胸元の大きく開いた衣装を着た彼女は、ダメ元でそう言った。それから意味深に、大きく裾の広がったスカートを、目立つように腰を振って、男の欲望を煽った。
ジン・ホットが四ペンスほどで飲める時代であった。一シリングが十二ペンス、一ポンドで二百四十ペンス。一般労働者の月収が五ポンド前後。
そう考えると、大衆酒の安いジンをお湯割りにしただけなのに、ジン・ホットは決して安くない。
現在の値打ちでジン・ホット一杯が五百円。高く見積もって千円として、二シリングで約八千円。
多少、強気に吹っ掛けたのだ。
その日、メアリーは四ペンスほど足りなくて安宿を追い出されたので、何としても稼ぐ必要があった。
だが、出来得ることなら、〝
「二シリング?」
彼女の身体を不躾に眺めながら、その男が不満げに呟いた。
少なくとも、メアリーにはそう聞こえた。客になりそうな男を逃がすまいと、彼女は慌てて、
「ああ、いえ。一シリングで……」
と言い直した。多少、稼ぎが安くなっても、この身なりのいい男のほうが、優しく
ここはロンドンのイーストエンド、ホワイトチャペル地区――。
街にはホームレスや浮浪児が溢れ、その日に食べる物を求めて彷徨う。他に稼ぐ当てのない女たちが、はした金のために街娼として路地に立つ。
強盗が日常茶飯事に横行し、僅か数ペンスの金のために殺人が発生する、ロンドン屈指のスラム街。
この街の、見るからに荒くれ者のような男に身を委ねるよりは、
メアリーは堅実な方を選んだ。
「いや、そうだな。五シリング払ってもいい」
「えっ……?」
彼女は我が耳を疑った。自分みたいなおばさんに、相場よりもずっと多い金を出す――と男は言うのだ。それだけもらえれば、数日は
「えっ? そんなに? いいの?」
「ああ。その代わり、人の来ないところがいいな。落ち着ける所だ」
「それなら……」
手付金だ――と、男が差し出した一シリング硬貨を掴み取り、胸の谷間に押し込んだメアリーは、
「こっちよ」
と、男を先導して歩き出した。
手付とは言え、口先だけでなく現金を出した男を、彼女は信用したのだ。
この街では、娼婦というのは危険な生業だ。
稼げば稼ぐほど、その日の売上金を持ち運ぶ。その仕事内容から、頻繁に服を脱ぐことになる。つまり、丸腰になるのだ。金目当ての男からすれば、これほど狙いやすいターゲットもないだろう。
いかに男勝りの女でも、純粋な力勝負で男に勝つことは難しい。
だというのに、メアリーは無防備にも、男の前を歩き出したのである。後ろから襲われれば、一溜まりもない。街娼として経験も豊富な彼女は、強盗に襲われたことも一度や二度ではなかった。
なのに、なぜ――?
しかし、その問いに答えが与えられることは二度とない。
午前三時半を少し回った頃、メアリー・アン・ニコルズは遺体となって見つかったからである。
これが――。
後にマスメディアと民衆を巻き込んだ、〝劇場型犯罪〟と呼ばれる最初の事件。
〝切り裂きジャック〟事件の始まりであった。
発端となった第一の事件の被害者、メアリー・アン・ニコルズの遺体は検死の結果、死因は首元を左右に真一文字に頸動脈を含めて切り裂かれたことによる失血死。即死であったろう。
念のためか、もう一回、首の半ばまで切られていた。
それ以外にも、死後に下腹部を何度も切り刻まれており、幾つもの傷が出来ていた。その腹部の傷跡は左から右斜めに付いていたことから、ナイフで激しく下方向へ切り付けたもので、犯人は左利きの可能性が高いと判断された。
或いは、内臓を取り出そうとしたものかも知れない――との推測もあった。
ロンドン警視庁スコットランドヤードは当初、この事件をホワイトチャペル地区でよくある強盗殺人と考えていた。
さらに、それ以前に発生していた二件の殺人事件との関連性も考慮に入れて捜査されたが、使用された凶器が異なるとの結論に至り、別の事件と判断された。
そして、一八八八年九月八日。第二の事件が起こった――。
やはり、場所はイーストエンドのホワイトチャペル地区。メアリー・アン・ニコルズの場合の現場から、およそ八百メートルほど西へ行ったところで、アニー・チャップマンの遺体が発見されたのである。
死因は、これも咽喉を切り裂かれたことによる失血死。今度は一度だけ、首を切られていた。犯人が殺害に慣れたせいかも知れない。
今回は腹部を切り広げられおり、腸が引き出され、被害者の右肩から首の後ろを通して左肩まで廻し掛けられていた。このことは一見すると、異常者の犯行に見えるかも知れないが、引き出した腸が縮もうとするのを食い止めるためだと思われる。要は、腸が
そして、子宮の一部が切り取られて、持ち去られていた。しかも、切り取る作業は滞りなく行われていた。躊躇い傷や迷い傷のような切り痕がなかったからである。
そのため、犯人は解剖の知識があるのではないか――との見解もあったが、確証がないため、結局は参考程度に止まった。
使用された凶器は、第一の事件と同様の、刃渡りが十五から二十センチメートルほどの刃の薄い代物であろうということまでしか推測出来なかった。
スコットランドヤードは事件の二日後に、地元の与太者を容疑者として逮捕したが、アリバイを崩せず、釈放した。
警視総監チャールズ・ウォーレンは立場上、そして科学的見地からも、表向きはただの強盗殺人――との見方を示したが、犯人が臓器を持ち去っていたことを踏まえ、宗教的な犯行の疑いも持ち、内密でカトリックの総本山、ヴァチカン市国に連絡を取った。
悪魔信仰などの狂信者による事件の可能性も検討するべきだ――と判断したのである。
翌日、チャールズ・ウォーレンは知り合いの伝手を頼り、一人の枢機卿に連絡を取った。
その人物こそは、異端審問会に属するオルシーニ枢機卿であった。
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