第十七話 変貌
黒騎士ジル・ド・レエが暗闇の隠れ家に戻った時、そこには誰も居なかった。
少年――〝人形使い〟が出かけるのは見ていたが、その後でジル・ド・レエが隠れ家を出た後に〝怪物〟もどこかへ行ったらしい。
ひっそりと静まり返る隠れ家で、ジル・ド・レエは重い身体を壁にもたせかけた。斬られた左腕が、じりじりと焼けるように痛む。吸血鬼の治癒能力を持ってすれば、失った腕の再生は無理としても、痛みはないはずであった。
それが痛む。
「あの女……」
ジル・ド・レエは忌々しげに呟いた。このようなことは、これまでなかったのだ。ただの異端審問会の女ではないな――と、ジル・ド・レエは考えていた。
疲れた身体を休めていると、肩に紅い人形を載せた〝人形使い〟が帰ってきた。少し微睡んでいたジル・ド・レエは
「おや、どうしたんだい? 始祖にやられたのかい?」
〝人形使い〟はジル・ド・レエを心配して聞いたわけではない。情報を得るためである。本当にそれだけだ。他意はなかった。敢えて言えば、からかうくらいの気持ちだった。
「いや、異端審問会の女だ。油断したわけではなかったのだがな」
重い声でジル・ド・レエは正直に答えた。こんなことは秘す必要もない。
「異端審問会の……女?」
〝人形使い〟は静かに呟いた。マリアのことか?――と、〝人形使い〟は思った。〝人形使い〟にとって、異端審問会で注意すべき人物など、数えるほどしかいない。マリアはその数少ないうちの、さらに、ただ一人の〝女〟であった。直接、
だが、〝人形使い〟はマリアのことをジル・ド・レエに教えるつもりはなかった。情報は独り占めしてこそ、先んじられるというものだ――と、〝人形使い〟は思っていた。
ミケーレと関係があると思われる娘とマリアがいたのを見たが、自分が別の手を打ちに離れた後で、ジル・ド・レエと相見えたのか。なら、ミケーレとマリアは手を組んでいるな――と〝人形使い〟は結論付けた。ジル・ド・レエがミケーレ、マリアの二人と一戦やらかしたことまでは知らなかったから、〝人形使い〟は自分だけが有利な情報を握っている――と考えた。
「ふうん……」
「何か、知っているようだな」
「いや、大したことは知らないよ。異端審問会に手練れの女がいる――って噂を聞いていただけさ」
〝人形使い〟はとぼけようかと思ったが、ジル・ド・レエを誤魔化せるとも思えなかったので、一部を教えることにした。そのほうが、すべてが嘘よりも、信憑性が増すものだ。
「かなりの仲間が殺られた――って聞いてるよ」
「そうか。あの女、それほどの手練れだったか」
その声には、賛辞の感が含まれていた。久々に好敵手に巡り合えたような、そんな呟きだった。どこか嬉しそうだ。
あたりを見回していた〝人形使い〟が、ジル・ド・レエに聞いた。
「それより、〝怪物〟はどこに行ったの?」
「戻ってきた時にはいなかった」
「まさか、逃げたんじゃ……」
〝人形使い〟の声に、やはり、と言った響きが加わった。
「ないとは言えないな」
ジル・ド・レエも即座に否定することは出来なかった。〝怪物〟が何を考えているかは、彼らにも分からない。
「そう言えば……」
ジル・ド・レエは〝怪物〟がいつも蹲っていた辺りを見た。床に何かが散らばっている。ごわごわとした黒い塊だ。それも多数、ある。ジル・ド・レエの様子に気付いた〝人形使い〟も不思議そうな顔で近づいて、それを見た。
「これは……?」
そしてそれらは、よくよく見れば、塊というよりは殻に近い。どうも、これは抜け殻のようだ。バラバラに砕けた抜け殻である。
「脱皮した?」
「その表現がピッタリとくるな。しかし、何になった?」
〝人形使い〟とジル・ド・レエは、顔を見合わせた。
ミケーレとマリアは、あれから空が白むまで、街をずっと駆け回っていた。
当初は、ジル・ド・レエが退いた時点で〝怪物〟側の動きはないだろうと予想していた。だが、いざ街を調べてみると、〝怪物〟側の者によるであろう眷属――即ち、生ける死者が複数、発見されたのである。この眷属たちは最下層――ただの食料・隷属としての存在であり、特筆すべき能力などはないが、放っておくと、血に飢えた死者が別の者を襲い、ねずみ算式に眷属が増えていくことになる。
そのために二人は、見つけた眷属たちを片っ端から、始末する羽目になったのである。
眷属たちの捜索は、生ける死者たちが活動を停止する明け方まで行われた。二手に分かれて街を捜索した結果、合計十二体の死者を発見し、始末した。それらは死者であるため、すべて首を刎ねた。生ける死者である眷属を殺すには、首を刎ねるか、心の臓を刺し貫くしかない。今回は手っ取り早く、しかも確実に活動停止を狙える首刎ねを採用したのである。
今、夜明けを迎え、二人は二手に分かれた時、落ち合う約束をした場所で、再び合流したのであった。
「どうだった?」
「見つけた奴らは全部片付けたけど、陽が昇ったからね。他の奴らは隠れたんじゃないかしら」
これ以上は無理ね――と、マリアは肩を竦めた。ミケーレも頷いた。
「そうだな。今日のところは、ここまでか」
「続きは、また今晩ね」
連れ立って歩きながら、二人はそんなやり取りをしている。それだけ見れば、友人同士か、会社の同僚の会話みたいな風だが、その内容はと言えば、かなり物騒な話をしているのである。
「そうだ、ミケーレ。行くところの当てはあるの?」
「いや。まだ、決めてない。まあ、どうとでもなるだろ」
「じゃあ、教会を使う? ミケーレなら、寝泊りには不自由しないでしょ」
マリアは、吸血鬼でありながら、ミケーレが教会や十字架をものともしないことを指して言っているのだ。う~ん、としばし唸ってから、ミケーレは頷いた。
「では、お言葉に甘えるとしよう。あそこなら、美味いマッキャートも頂けるしな」
「ま、そんなものでよろしければ」
と、笑顔でマリアも返した。ミケーレもまた頷き返し、こう言った。
「じゃあ、帰ったら、さっそく淹れてもらおうかな」
「はいはい」
そう返事を返すマリアは、どこか楽しそうであった。
何をしていたのか、思い出すことが出来なかった。
気が付けば、リビングでぼんやりと立っていた。昨夜来ていた服のままで――だ。それまでのことが記憶にない。僅かに覚えているのは、家の近くで男に声をかけられたところまでだが、その男の顔も定かでない。
窓から差し込む朝陽の光で、ふと我に返ったのだ。もしかすると、一晩こうして、ぼんやりと立っていたのかも知れない。
「あれ、なんでこんなとこに……?」
曖昧な記憶の回復に努めたが、やはりはっきりとしないので、諦めた。それより、昨夜は何故出かけたのかをようやく思い出した。
教会のマリアに会いに行ったのだった。
「今なら、ミケーレもいるかな」
ミケーレと会えないか、と沙月は知らず知らずのうちに期待していた。
ミケーレとマリアを和解させる――。
大義名分としてはそうであったが、二人を和解させたくない。
心のどこかで、そうも思っている自分に、沙月は気付いていなかった。
昨夜の男に焚き付けられた様々な心の動きに自分でも気付かぬままに、沙月は教会を訪れるため、再び家を飛び出した。
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