第十六話 困惑
「あん?」
そう告げられたミケーレは、当惑したような顔をした。いや、心底困っていたのだ。
けして色恋沙汰に疎いわけではないが、沙月をそんな対象とは、まったくもって見ていなかったからである。ガリガリと頭髪を掻きながら、
「そりゃあ……。う~ん」
と、考えがまとまらない様子だ。それから、
「……関わり過ぎちまったかな」
と、星空を仰ぎ見て、ぼそっと呟いた。そんな様子を見ていたマリアは、どこか嬉しそうな感で、ミケーレに言った。
「あら、お困りのようね」
「まあな。沙月も、まだ高校生だ。吸血鬼――なんて、非日常的なものに魅かれてるだけなんだろうがな」
と、夜空を見つめたまま、マリアに答えた。
「特には、何もしない……と?」
「それで問題ないだろう。そもそも、ここには仕事で来ただけで、
それで終わり――とミケーレは言った。それで、もう二度と会うこともないだろう――と言うのだ。所詮、
「人間が吸血鬼に惚れたって、碌なことがないさ。逆もだけどな」
と、達観しているように言った。ミケーレはこれまで、それだけの事例を見てきたのだろう。そして、その結末もまた――。
「そう。さよならも言わずに、消えるの?」
「そのほうがいいな。わざわざ別れを告げに会いに行って、余計な未練は残さないほうがいい」
また、損な役回りを引き受ける気なのね――。
マリアはそっと、胸の内で呟いた。
あなたはいつも、
「悲しむわよ」
「一時的なものさ。すぐに忘れるよ」
ミケーレはそう言って、路地の入口に向かって歩き始めた。マリアも追う。すぐに横に並んだ。
「まあ、吸血鬼なんぞと付き合えるのは、お前さんくらいなもんさ」
「えっ!?」
突然のミケーレの発言に、マリアがどぎまぎして聞き返した。
「どっ、どど、どういう意味っ!?」
「吸血鬼がどういうものか、分かってなきゃあ、付き合えないだろう? その点、お前さんは吸血鬼をよく見知ってるからな」
と、マリアを横目で見ながら、ミケーレは言った。
「ああ、そういう意味……」
ほっ、と胸を撫で下ろしながら、マリアは落ち着こうと努めた。まだ、少し鼓動が速い。顔が紅くなっていなければいいが――。
「そうね。私なら、どう対処すればいいか、分かってるものね」
澄ました
「〝怪物〟も今日はもう、動かないかな?」
「う~ん、そうでしょうね。少なくとも〝怪物〟本人は、私たちの前には現れないでしょう」
ミケーレの問いかけに、マリアも瞬時に真面目な返答で返した。そこはプロである。切り替えは速かった。さらに腕を組んで考え込んで、
「ただ、仲間がどう動くか……ね」
と、言った。ミケーレも頷き、
「同感だ。どうする? もう少し、うろついてみるか」
「そうね。何か暗躍してるかも知れないし……。もう少し、探ってみましょうか」
そう言って、二人は並んで路地裏を出て行った。
「すみません。ちょっと、よろしいですか?」
「えっ?」
もう百メートルも行けば家に着くというところで、沙月は声をかけられた。晩秋の午後の六時も過ぎれば、辺りは真っ暗だ。街灯の明かりだけが煌々と付近を照らしていた。
ぼうっ、と考え事をしながら歩いていた沙月は、不意を突かれた。
振り返れば、二十代後半から三十歳くらいの男性が声をかけてきたのだった。服装は……膝上までの黒いコートで、よくは分からない。パッと見では悪人に見えない面貌だが、今時、そんなことだけで判断は出来ない。
沙月は用心しつつ、応対した。いつでも逃げ出せるようにしながらだ。しかし、家が近い場所で声をかけられたことは、実に微妙だった。いざ逃げ込むには良いが、それはそれで家を確認されてしまうからだ。以降、付き纏われたりするのは頂けない。
「何か?」
「ああ。いえ、大したことではないんですが……」
そんな沙月の不安も知らぬ気に、男は気さくな感じで話しかけてきた。
「はあ……」
「昨夜、男の人と一緒でしたよね?」
「え……?」
沙月は何のことを言われているのか、咄嗟には分からなかった。
「昨日の夜ですよ。男の人といたでしょう?」
「え、と……?」
男を訝しんで、沙月は曖昧な返事を返した。どうやら昨夜、ミケーレといたことを言っているようだが、どうして知っているのか――。
男に見覚えがないか、沙月は男の顔をじっと見た。にこやかに話しかけてきたが、その眼が笑っていないことに沙月は気付いた。背筋に寒気が疾った。
この眼は――。
「その男の人を、自分のモノにしたくありませんか?」
と、男は言った。沙月の眼を覗き込むように、男はこちらを見つめている。
「え……?」
この人は何を言ってるんだろう――?
「自分だけのモノにしたくないですか? 出来ますよ?」
自分だけのモノに――?
沙月は自分の声を遠くに聞いた気がした。
ミケーレを――?
気付かぬうちに、マリアへの嫉妬と対抗心も湧き上がっていた。
『恨んでいる』とマリアさんは言ったじゃない――。
そんなマリアさんになんか、ミケーレを渡すものか――!!
やり場のない怒りが心に沸き上がる一方で、沙月の思考は混濁していた。微睡みの中にいるようだった。思考が鈍い。考えが一向に纏まらない。
何故、そんな怒りが沸き上がるのか、自分でも分からなかった。
ぼんやりとした視界の中で、首元から離れる男の顔を沙月は見た。先ほどの男だったが、沙月にはそんなことすらも認識出来なかった。まだ頭がぼんやりとしていた。
そのぼんやりした思考の中で、ゾクゾクとした得も言われぬ快感が身体を駆け巡る。未だ体験したこともないような快感だった。
気持ちがいい――。
この快感をもっと――。
沙月はそう思った。
沙月の首元には、今も僅かに血が流れる二つの傷――うじゃじゃけた吸血鬼の噛み痕があった。
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