第十八話 理解者
教会の勝手口を押し開けようとした寸前、マリアとミケーレは目配せをした。
誰かが、教会の宿舎の中にいる。
明かりが灯っていたからではない。この教会では、蝋燭は出かけている時に不用心だから――と、蝋燭を
それを抜きにして、確かに誰かの気配があった。殺気は感じないから敵対者ではなさそうだが、用心するに如くはない。
敵味方を問わず、何かと恨みを買うことの多い稼業だ。
ドアの両脇に分かれ、マリアが鍵の開いていた扉を引いた。中の灯りが漏れる。そっと中を窺うと、
「今頃、お帰りかい?」
と、男の声が出迎えた。多少の訛りはあるが、流暢な日本語だった。そして、それはマリアには聞き覚えのある声であった。一瞬の後、マリアは相手から見えない位置まで顔を引いた。その顔を、嫌悪と辟易とした表情がかすめるのを、ミケーレは見逃さなかった。
さすがのマリアにも、腹を括らないと会えない――つまり、会いたくない人物がいるらしい。
誰にも分からないように、マリアが小さく息を吐いた。溜息だった。
「いつ、こちらに? ヴォナッティ卿」
マリアが宿舎の中に入りながら言った。
ミケーレはドアの陰に隠れたまま、気配を消していた。男はマリアの知り合いのようだから、出しゃばらないようにしているらしい。
そのまま、そっと二人の会話に耳を傾けていた。
「昨夜だ。色々と情報を整理して、すぐさま、ここに来たというわけさ」
ヴォナッティ卿と呼ばれた男は、特注で仕立てた豪華な修道士の衣装を着ていた。緋色の上等な上衣からしても、
若い身空で枢機卿なのだから、それなりに出来る人物か、高い家柄の出身なのだろう。
「相変わらず、危険な任務に就いているようだな。私の妻になれば、こんな任務ともおさらばだぞ?」
「その話は断ったはずです。パオロ・ディ・ヴォナッティ卿」
マリアは厳しい顔で、そう答えた。だが、パオロはなおも詰め寄ってきた。
「何故だ? こんな話はそうそうないぞ? 何が気に入らない?」
「そういうわけでは……」
マリアはどう答えたものか――と言い淀んだ。以前から、言い寄られて難儀していたのだが、まさか、ここまで押しかけてくるとは思わなかった。任務に出ていれば、付き纏われずに済むと思っていたし、実際、これまではそうであったのだ。
異端審問会のトップを務める枢機卿の一人であるものの、このパオロという男、評判は芳しくなかった。枢機卿であることを笠に着て、無理難題を押しつけたり、他人の戦功を、さも自分の手柄のように横取りするだのと、やりたい放題したい放題であった。
良家の出であるからなのか、自分より上に立つ者以外には傲岸不遜な態度を取るため、自然、下の者たちからは嫌われていた。
マリアを妻に――という話も本当のところは、風評を気にしてのことである。不幸な境遇の娘として教会にやってきたマリアを娶ることで、寛大な仁徳者という評判を得ようという魂胆であった。
もちろん、マリアの類稀な美貌もあってのことである。
そして、マリアも当然、その心底は察しており、だからこそ、固辞し続けているのであった。
どうやって断ろうか――と考えあぐねているマリアを、煮え切らない態度と取ったものか、パオロはマリアに顔を寄せ、威圧的な口調で、
「本来であれば、お前など、私と口を利くのもおこがましいのだぞ。……半分、化物の分際で」
と、マリアに囁いた。いや、マリアを罵ったと言っていい。
その時のパオロの顔付きは、たとえ小さな子供であろうと、一目で、この人は善人ではない――と判別出来るほど、醜悪であった。
これがこの人物の本性なのであろう。
マリアの顔が紅く染まった。それも当然である。かけられた言葉は、明らかに侮蔑の言葉であった。マリアが反論しようと口を開き、言葉が零れようとした、まさにその瞬間、
「もう、やめとけ」
と、ミケーレの声が流れた。二人のやり取りを見かねたのか、ミケーレが扉の傍に立っていた。
「お前さんは振られたんだよ。それ以上、付き纏ったら、みっともないぜ」
パオロがミケーレを見やり、
「何ぃ……!?」
と、威嚇するような声を絞り出した。ミケーレはそれを物ともせず、
「鈍い奴だ。分からんかな? 嫌われてんだよ、お前さんは」
と、さらに捲くし立てた。パオロの顔が、見る見る紅潮していく。他人を罵倒することはあっても、されたことはないのだろう。我慢の臨界点は低いと見えて、身体が怒りに震えている。
「何だと~!? 貴様、何者だ!?」
激高したパオロの怒声など、どこ吹く風――とミケーレは平然としたものだ。
「俺のことなんて、どうでもいいがね。そんな
「な……!? 貴様!! 名を名乗れ!!」
「彼はミケーレです。ミケーレ・ヴェッキオ。ご存じでしょう?」
と、これはミケーレの代わりに答えたマリアだ。
「ミケーレ!? あの……?」
ミケーレの名を聞いたパオロは、一瞬、戸惑ったように身を固くしたが、すぐに、低い笑いを漏らし出した。
「ふ、ふふふ。そうか、あのミケーレか。道理で……」
そう呟いた後、マリアを振り返り、
「〝類は友を呼ぶ〟とはよく言ったものだ。半分とはいえ、やはり
と見下すように、そう言った。マリアが俯き加減だった顔を上げた。その美しい面貌を、怒りが覆っていた。今度こそ、文句の一つも言わずにはおれなかった。
自分のことはいい。しかし――。
――と、それより速く、
「おい」
と、ミケーレの声がした。それは何気ない声音のようでいて、しかし、呼びかけられたパオロが、ぎくり、として
顔を見ることすら、恐ろしい――。
パオロは唾を飲み込んだ咽喉が、ごくり、と自分で思っていたよりも大きな音を立てたのを聞いた。
「俺を何と言おうと構わん。だがな、お前さんと同じ教会に属するマリアを侮辱することは許さん。それは、背中を預けた相手に、後ろから斬られるに等しい」
淡々とした口調。マリアには、それだけに、よりミケーレが怒っているのだと分かった。自分のために、パオロに腹を立てているミケーレが有り難かった。
教会の仲間よりも、ずっと信頼出来る――。
マリアには、それが嬉しかった。
「行け。ここは、お前さんが居ていいところじゃない」
ミケーレが顎で、戸口を指した。〝出て行け〟と言っているのだ。
「わ、私にこのようなことをして、ただで済むと……」
「俺は教会の所属じゃない。お前さんの威光は利かんよ。だけどな、もしお前さんが、マリアに向けて権力を揮うなら、その時は容赦せんから、その
「な、何だと……」
パオロが睨みつけようとしたが、ミケーレを見た途端に、怒気が抜けた。誰が見ても明らかに、〝ミケーレに怯えた〟――と映っただろう。
「くっ……」
口を歪めたパオロが、逃げ出すように戸口から出て行った。悪態の一つも
「やれやれ……。面倒な奴がいるもんだ」
パオロを見送り、厄介事が増えたと言わんばかりに大きな溜息をつきながら、ミケーレが呟いた。そんなミケーレに近づきながら、
「ありがとう、ミケーレ」
と、マリアが静かに言った。
「うん?」
「私の代わりに怒ってくれて」
「ああ、いや。つい、腹を立てちまった。すまん。大人気なかったな」
ミケーレは肩を竦めて、それから、
「悪かった。これでマリアに何かとばっちりがあれば、俺の所為だ」
と、頭を垂れ、マリアに謝った。それにはマリアも慌てて、顔の前で両手を振り、
「う、ううん。気にしないで。彼もそこまではしないと思う。そんなことをすれば、自分が〝小物〟だって、言い触らすようなものだし。プライドの高い人だから、それは先ずないでしょう」
マリアはそう、パオロの人となりを冷静に分析して、言った。そんなマリアをミケーレはまじまじと見つめて、
「求婚されてた――とは驚きだ」
と、言った。優しい物言いであった。突然の言葉に、マリアは慌てて、
「なっ、何言ってんのよ!? あれは、私の見てくれだけが目当てなんだから! 顔が良ければ、誰だっていいんでしょうよ!!」
と言って、憤慨し、
「ふんだ!」
などとぼやきながら、そっぽを向いた。照れ隠しのようだ。
「いやいや。マリアを選ぶなんて、あの男、そこだけは見る目がある。カミさん選びの選択肢としちゃ、間違っちゃいないぜ?」
「んなっ……!?」
予期せぬ台詞に、マリアが振り向いて、絶句した。あうあう、と言葉が見つからないその顔は、真っ紅であった。こんなマリアは、そうそう拝めるものではない。
「教義で離婚は出来ないってのに、〝愛人〟なんてのじゃなく〝本妻〟に――ってんだから、奴なりに本気なんだろうぜ。まあ、
ミケーレは娘を心配する父親のように、まったくこの世は儘ならんもんだ――と、呟いた。ただ、顔を紅らめるばかりで、口を閉じることも出来ないでいたマリアだが、その言葉にようやく我に返って、
「それは無理な話よ。私の手は血に
と、冷徹な声音で言った。それを受けて、ミケーレも、
「そりゃあ、分かってる。だけどな、血塗れの手なら洗えばいいんだ。一度で落ちなきゃ、何度でも洗えばいい。そうさな。百年も洗えば、少しは落ちるだろうさ」
と、気の長い話を返してきた。百年――とは不老である吸血鬼らしい意見だが、それをマリアにぶつけるとは、どういう心算か。しかし、マリアも、
「百年……か。そうかもね」
と、その案を吞むかのように、ぽつりと言った。口元には自然と、微笑が浮かんでいた。
教会で孤立しがちなマリアを、教会に属さないミケーレのほうがよっぽど理解し、そして案じてくれている。そういう人が一人でもいることは、マリアにはとても喜ばしいことだったのだ。
「まあ、気長にやることだ。今さら、慌てることでもなかろう?」
「そうね。……ん?」
そんなことを言い合っている最中、ミケーレは視線を投げかけ、マリアは実際に戸口まで歩いて行った。何者かの気配があったのだ。
感じる気配は、扉の裏側。敵意は――ない。
マリアが覗き込んでみると、扉を背にして沙月が座り込んでいた。
「沙月……?」
マリアが声をかけると、沙月はようやく顔を上げたが、元気のない表情であった。どうも、具合が悪そうだ。
「こんな時間にどうしたの? 大丈夫?」
屈み込んだマリアが抱き起こすと、
「あ……」
と、小さく声を上げ、
「おはよう……ございます。あの……ミケーレ……は……?」
沙月は苦しげな声で、マリアにそう聞いた。
「いるぞ」
二人の頭上から、声が降ってきた。ミケーレはいつの間にやら、戸口まで出て来ていて、二人を見下ろしていたのであった。
「どうした、沙月。苦しいのか?」
そして、優しく沙月に声をかけた。しかし沙月は、ミケーレの顔を確認すると、また項垂れるように、顔を伏せた。
「どうだ? マリア」
ミケーレはマリアに、沙月の状態を問い質した。
「ん……。良くはないわね。特に、
と、沙月の首筋を見やるマリアは暗い顔で、そう告げた。そこには、あの二つのうじゃじゃけた傷――吸血鬼の噛み痕があった。
「教会が平気なのは、私たち少数だけよ」
それを聞いたミケーレは、
「ああ。やっぱり、そういうことか」
と、静かに頷いた。ミケーレを振り仰いで、マリアは、
「沙月の家は知っているのでしょう? 連れて帰ってあげて」
そう言って、ぐったりとしている沙月を抱きかかえ、立ち上がった。ミケーレは心情に反して、晴れやかに澄み渡った紺碧の空を見上げ、嘆息した。
「やれやれ……。結局、巻き込んじまったか」
「それについては、私に端緒があるわ」
「いや、それは違う。あの場に沙月がいたのは偶然だ。たまたまだよ」
責任を感じ、落ち込むマリアに、ミケーレが言った。
「たまたま、あの場に俺が〝怪物〟を追い込んじまって、たまたま、そこに沙月が居合わせ、たまたま、お前さんがナイフを投げたんだ。ただ、幾つも偶然が重なっただけさ。それだけだ。お前さんが責任を感じることじゃないんだよ」
「でも……」
「お前さんはどうも、何でも重く受け止め過ぎる。そんなに一人で、すべてを
その語り様は、まるで娘を諭す父親であった。マリアは黙って聞いている。
それはあなたのほうよ――と、マリアは胸の内で呟いた。
仲間からは裏切り者と蔑まれ、助けたほうからは恐れられ、忌み嫌われる――。
それなのに、〝悲しい顔は出来るだけ、見たくないから〟――って、また
すべてを一人で背負い込んで――。
一人で出来ることなんて、たかが知れてる――と
誰からも理解されず、感謝もされず、報われることもなく――。
あなたにかけられる労いの言葉は、すべて上辺だけ取り繕ったもので――。
それでも――。
そんなあなただから――。
「それに、まだ間に合うかも知れない。楽観的過ぎるとは思うがね。〝怪物〟を倒せば、沙月が元に戻る可能性だってあるんだから」
そう言って、ミケーレは背を向けて、沙月を負ぶり易いようにと姿勢を下げた。
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