第十一話 怨恨
「終わったわよ。ミケーレ」
講習が終わると沙月は、せっかくの土曜日だからどこかへ行かないか――という友人達の誘いを断り、一目散に校庭のエノキの下へとやって来た。梢を見上げ、そう声をかけた。
「お、早かったな」
と、ミケーレは梢の上からでなく、太い幹の反対側から現れた。
「あら、上にいるのかと思ってたわ。そんなとこで何してたの?」
「クラブ活動を見てた」
と、校庭を走り込む陸上部らしき生徒や、グラウンドで軽快なバットの打撃音を響かせる野球部員らを見やり、ミケーレはそう言った。まだ、土曜日の午後二時過ぎだ。運動系のクラブ活動は真っ盛りの時間である。
ミケーレは沙月に向きなおり、
「わざわざ、すまんなぁ」
と、頭を掻きながら、沙月に詫びた。
「え!? いやいやいや、謝んなら、あたしの方だから! こんな時間まで待たせちゃって……」
沙月は両手を振って、ミケーレに謝らないよう、言った。
「えっと……、じゃあ、行きますか。ちょっと遠いですけど……」
「ああ」
と、二人は連れ立って、歩き出した。のんびりと散歩を楽しむくらいのスピードで歩きながら、沙月が切り出した。
「あの……。マリアさんとは付き合い、長いんですか?」
「うん?」
「あっ、いえ、付き合いというか、知り合いというか……」
「ああ。……そうだな。もう、かなり長い付き合いになるな」
「マリアさんと仲がいいですよね。羨ましいくらい」
そう言った沙月の顔を、ミケーレはしばらく黙ったまま、見つめた。急に立ち止まったミケーレを、沙月はきょとんとした表情で振り返った。
「どうしたんです?」
「いや。仲が良さそうに見えたか?」
と、歩き出しながら、ミケーレが聞き返した。ミケーレが横に来るのを待ってから、沙月も歩き出し、
「ええ。とっても。恋……気の置けない友人みたいですよ」
と、言った。変な言い回しをしてしまった、と沙月は自分で思った。マリアのことを意識し過ぎているのかも知れない。
「そうか。でもなぁ……」
沙月の言葉を受けて、ミケーレは遠くを見つめるように、そう言った。それから、しばらくの間をおいて、
「俺は、あいつに恨まれてるからな」
と、ぽつりと言った。
本当に、独り言のように――。
沙月が一瞬、何のことを言っているのか――と思ったくらいに自然な口調で、何気ないことを洩らしたように、そう言ったのだ。
「恨む? ミケーレのことを恨んでるんですか? マリアさんが?」
「ああ」
自嘲気味な表情のミケーレを、沙月は見つめて、
「どうしてなんです?」
と、問うた。聞かずにいられなかった。あんなに楽しそうだったのに。
沙月はもう一度、聞いた。
「どうして?」
「あいつの親を、俺が殺したからさ」
前を向いたまま、ミケーレがそう言った。
「あいつの両親を、俺が殺したのさ。あいつが恨むのも当然だ。あいつを独りっきりにしたのは俺なんだ」
と、ミケーレは淡々と口にした。とんでもない内容に、沙月は言葉を失った。何て言ったらいいのか、分からなくなった。
ようやく、
「本当にミケーレが……? 何か
と、問い質した。きっと、そうした理由があるに違いない――と思いたかったのかも知れない。
だが、ミケーレは穏やかな微笑を浮かべるだけで、何も言わなかった。
言いたくないのか、言えないのか、それとも……言う
今度こそ、沙月は何も言葉を継ぐことが出来なくなった。これ以上は触れてはいけないのだ――と漂う雰囲気で感じ取れた。
その後は、二人とも黙ったままで、家路を歩いた。時おり、子供たちが数人、笑い声を上げながら、通り過ぎて行った。その様子をミケーレは優しい顔で見やっていたことにも、沙月は気が付かなかった。
さらにしばらくして、
「恨まれちゃいるが、〝仲が悪い〟ってわけじゃないんだ」
と、ミケーレが言った。俯き加減だった沙月が顔を上げた。ミケーレが穏やかに、こちらを見ていた。
「余計な心配を掛けちまったかな」
と、沙月に詫びた。
「いえ、気にしないでください。仲が悪くない――って、そうですよね。だって、二人とも、楽しそうでしたもん」
そう、沙月は嬉しそうに言った。沈んでいた気持ちが、パッと明るくなった気がした。
「そうか。なら、いい」
と、ミケーレが呟くように静かに言った。〝いい〟といった言葉がどれを指していたのかまでは、沙月には分かりかねた。
家に着くと、沙月はミケーレに、リビングに上がるように言ったが、ミケーレは断った。
女子高生が単身で生活している家に、男が上がり込むのは不味いだろうとの判断からだった。誰が見ているか分かったものではないし、周辺で変な噂が立つのも問題だ。
ここでいい――と玄関で待つミケーレに、部屋まで取りに戻っていた沙月が、持ってきたカメオを手渡した。
「このカメオ、綺麗ですね」
「なんだ。中を見たのか」
「ご、ごめんなさい。これが何か、分からなくって……」
「いや、構わんよ」
「これ、聖母マリア様ですよね。こんな奇麗なマリア様、あたし、初めて見ました」
「そうかい? 見たままに、彫っただけなんだがな」
「これをミケーレが? ……って、えっ……? 見たまま?」
「そう、見たまんま。奇麗な
「……って、聖母マリア様ですよ?」
言葉に含まれる意味を理解して、沙月は問い返した。二千年ほど前の人物を見た――と、ミケーレは言うのだから。
だが、ミケーレはさらりと言葉を継いだ。
「俺は吸血鬼だぜ。忘れたのか?」
「あ……」
沙月はそれをすっかり失念していたのだ。あんぐりと口を開ける沙月に、
「忘れてたみたいだな」
と、ミケーレが苦笑した。照れて赤面する沙月が、誤魔化すように俯いた。
「感情表現の豊かな、活発な子供のような女性だったよ。出会った頃にはもう、息子さんも成人してたんだがな。どこの馬の骨とも分からん俺にも声を掛けてくるような、優しい女性だった」
「で、でも、カメオに彫るくらいだから、その……マリア様のこと、好きだったんですか?」
と、つい聞いてしまった。
「さあ……。どうだかな」
と、答えになっていない返答をしたミケーレの顔は先ほどと同じ、淡く、儚い微笑を浮かべていた。それを見た沙月は、悟ってしまった。聞かなければ良かった――とも思った。
「……。伝えなかったんですか?」
「彼女は俺を憎んでたろうさ」
「憎む?」
また、その言葉だった。
「ああ。彼女の息子を始末したのは俺なんだ」
「え……?」
その女性の息子と言えば、それはつまり――。
だが、ミケーレが〝始末〟といったことに沙月は気が付いた。
「今、〝始末〟って言いましたよね? それって……」
「誰に噛まれたかは、わからん。磔刑に処された時点では、まだ吸血鬼になりきってなかったようだがな。その息子の〝復活〟の真相は、吸血鬼になってたからなのさ。この世に戻った彼が、彼女を襲おうとしたんでな。俺が始末した」
「でも……でも、それじゃあ、ミケーレは命の恩人じゃないですか。なのに、〝憎んでた〟って……」
「どんな
ミケーレは達観しているように、淡々と言った。
「こういったことは理屈じゃないんだ。頭で正しいと理解していても、ここが納得しないのさ」
と、左胸のあたりを親指で、トンと指しながら、ミケーレが言った。
「……その
「感謝されようと思って、やったわけじゃないからな」
ミケーレはきっぱりと言った。自分の行為に、悔いはないらしい。それがたとえ、悪名・汚名を被ることであろうと――だ。
自分だったら――と考えて、沙月は黙り込んだ。
自分だったら、感謝されたいと思うだろう。愛されたいと思うだろう。それが自然な考えだ。
でも、この人は――。
「まあ、大昔のことだ。沙月が気にすることじゃない」
気まずい思いになって黙り込んでしまった沙月に、ミケーレが気を使う必要はない――と言った。何せ、二千年ほども前のことだ。今
カメオをポケットに仕舞い込み、
「拾ってくれて、ありがとう。助かったよ。それじゃあ、な」
と、ミケーレは別れを告げた。それで沙月も気が付いた。これで〝さよなら〟だということに。
「あ、あの……」
「ああ、そうだ。まあ大丈夫だと思うが、沙月も昨夜、奴に出会っちまってるからな。もし、何かあったら、マリアに知らせればいい。俺につないでくれる」
「あ、それなら、スマホで……」
「俺は持ってないんだ。スマートフォンも携帯電話も」
と、ミケーレが両手を上げて見せた。それに関しては、まるで降参――と言っているようだった。その仕草が可笑しくて、沙月は微笑がこみ上げてきた。
その様子を見届けた後、ミケーレが言った。
「それじゃあ」
「はい。……それじゃあ、また」
これで終わり――ではないように、と『また』と続けて言った。沙月には、そう言うのが精一杯だった。
歩き出したミケーレの背を見送った後、沙月は大きな溜息と拭いきれない寂寥感とともに、家に入った。
沙月の家を後にして、しばらく歩いたミケーレはふと、立ち止まった。自分を見つめる視線を感じたのである。いや、沙月の家にいた頃から、見られているような感覚はあったのだ。だからこそ、念のため沙月に、何かあったら知らせればいい――と伝えたのである。振り返り、沙月の家の方角を眺めていたミケーレであったが、そちらには気配はない。ミケーレを追ってきたのか。
ミケーレは太陽を振り仰いだ。傾いてはいるが、午後三時を少し回ったくらいで、まだ陽は高い。〝怪物〟が動き出せる時間ではなかった。こんな時刻に活動しているミケーレのほうが例外なのだ。
再び歩き出したミケーレは、高校生と思しき男の子とすれ違った。ダウンジャケットを羽織り、ジーンズを穿いた、童顔で線の細い、どこか柔らかい印象を与える少年であった。
それだけなら、ミケーレも気に留めなかったであろうが、その少年は肩に大きな人形を乗せていたのだ。肩にちょこんと座っているその人形は、立たせれば、全高が四十センチメートルはあろうか。紅いドレスを着て、金色の髪と碧い瞳をした可愛らしい洋人形であった。
へえ、という顔をしたものの、まあ、そういう奴もいるだろう――とミケーレは思い直しながら、双方が相手を右側へ見る形ですれ違った。
まさに、その一瞬、
こんにちは――。
と、男とも女ともつかない幼い声が、頭に直接、響いたのだ。
瞬時にミケーレは刀を抜き放っていた。
いつの間に刀を手にしていたのか。それは神速の早業であった。身体を右方向に反転させるや、左足を後方に引き、十分な刀身分の間合いを、自らの身体を後退させることによって作りつつ、抜き打った。また、こうしなければ、威力を発揮しうる速度で刀身を振り切ることが出来ない。
しかし、刀は空を切った。ミケーレが振り返った時には、すでにその少年の姿はなかったのだ。すれ違った道は一直線で、ミケーレの前後に曲がれるような脇道はない。
「今のか」
ミケーレが呻くように呟いた。〝怪物〟ではなかったが、そちら側に付いた者だろう。しかし、これは相手側にも昼間に活動出来る者がいる証左と言えた。そして、それは同時に、昼夜を問わずに活動出来るミケーレだけが有利ではない――ということでもあった。
「やれやれ……。こりゃあ、考え直さんといかんな」
と、納刀したミケーレは頭を掻きながら、ぼやいた。昼間に〝怪物〟を追い詰めていく心算だったのだが、これで戦略の練り直しが必要となったからであった。
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