第十話 特別な存在
「彼は〝特別〟なのよ」
と、今朝、言った言葉をマリアは繰り返した。その言葉を口にする時のマリアが、微妙な表情であることに沙月は気付いた。
忌々しそうな――。
それでいて、どことなく、誇らしげなような――。
「特別って、どういうことなんですか?」
「そうね。彼は、吸血鬼としてのあらゆる〝禁忌〟から解き放たれた存在――と言えばいいかしらね」
「禁忌?」
「そう。言わば、吸血鬼としての特徴みたいなことから、彼は逸脱しているの。例えば、彼は鏡に映るし、影もある。泳ぐことも平気でするし……」
と、マリアが話している途中で、宿舎の窓を叩く音がした。二人が見れば、窓の外から、ミケーレが手を振っている。片手は何かを指し示している。どうやら、鍵を開けてくれ――と言っているようだ。
「……教会や十字架を何とも思わない」
マリアがげんなりとした顔で言った。窓に近付いたマリアが鍵を開け、窓を押し広げた。
「やあ、ありがとう、マリア。楽しそうだな。何の話だ。俺も交ぜてくれ」
と、窓から入るなり、そう言った。
「あなたの話よ。ミケーレ」
「俺の?」
勝手にソファーに座りながら、ミケーレが問い返した。
「ええ、そうよ。日下部さんがあなたに興味津々でね」
「えっ、あのっ……」
マリアが沙月をからかうような口調で言った。お淑やかそうに見える外見とは裏腹に、マリアは茶目っ気たっぷりな性格らしい。沙月は慌てたが、どのように説明していいか、分からなくなって、結果として口籠った。
「俺に興味……ね。――ってことは、あの話か? マリア」
ミケーレの問いかけに、マリアは黙って頷いた。
「俺が〝
と、今度は沙月に聞いた。頷きながらも沙月は、
「沙月です。あたしの名前。日下部沙月」
と名乗った。〝お嬢さん〟と言われるのが、気に入らないらしい。
「ん? ああ、そういや、まだ名前を聞いてなかったな。じゃあ、沙月ちゃんでいいか?」
「ちゃ……って。沙月でいいです。〝ちゃん〟はやめてください」
「了解だ。で、沙月は、牙でも見せれば、信じるのかな?」
面と向かって言われて、沙月はどう答えたものか、と悩んでしまった。乱杭歯を見せられても、実感として受け入れることなど出来ないだろう。所詮、吸血鬼という存在自体が絵空事のようなものなのだ。理解など出来まい。
「やれやれ。ああ、マリア。話が長くなりそうだ。彼女に飲み物でも入れてやってくれないか? 俺はカプチーノがいいな。あれ、持って来てんだろ?」
マリアが赴任先には大抵、お気に入りの愛用バリスタマシン――エスプレッソ・メーカーを持ち込むことを、ミケーレは知っており、それで淹れるコーヒーを要望したのだ。
「好きなこと言ってくれちゃって。分かったわよ。沙月は何にする?」
「えっ?」
「飲み物よ。何がいい? 大抵の物ならあるわよ」
先ほどまで、〝日下部さん〟と言っていたマリアも沙月の呼称を、〝沙月〟と変更したらしい。沙月が戸惑ったのはそこなのだが、マリアは、どんな飲み物があるのか分からないのだ――と受け取ったようだ。
「あ、じゃあ、同じので」
マリアは頷いて、台所へと消えた。残された沙月が聞いた。
「ミ……、あなたは血を吸わない……って、聞きました」
「吸わないよ」
こともなげに、ミケーレは肯定した。あまりにもあっけらかんとした態度に、沙月の方が、二の句が継げなくなった。
「俺は他の奴らとは違っていてね。普段はまったく血を必要としないんだ。だから、吸わないのさ」
「でも、それって吸血鬼じゃないんじゃ?」
「〝吸血〟ってのが、吸血鬼の定義だとするなら、そうかもな。でも、吸わないわけじゃない。牙だってあるぜ。ほら」
と、ミケーレは大口を開けて見せた。見ればなるほど、牙らしき、長い目の犬歯が上顎に窺えた。
「何、女の子を怯えさせてんのよ」
トレイに三つのカップを乗せたマリアが現れて、ミケーレを窘めた。どうぞ、とテーブルの上にカプチーノを入れたカップを並べ、中央には、手作りらしいクッキーを盛った小皿を置いた。
「沙月が信じないのさ」
カップに手を伸ばしながら、ミケーレが言う。マリアも自分の分を手に取って、一口飲んだ。
「まあ、実感が湧かないのも無理はないけど」
しばし、考えた後、
「こうしましょう」
と、いきなり、ミケーレのカップを持つ腕にナイフを突きつけた。瞬時にミケーレは左腕でカバーしたが、ナイフは左手の甲を貫通していた。見る間に血が流れ落ちていく。ミケーレが顔をしかめた。
だが、それは痛みからなのか――?
ミケーレが、流れ落ちる自らの血の滴を穢れたものでも見るような眼で見つめているのに、そして、刺し貫いたそのナイフが、昨夜、自分を襲った物であることに沙月は気が付かなかった。
ただ、突然の出来事に、まったく反応が出来なかったのだ。あわあわ、と口を開けるだけであった。
だが――。
ナイフを抜き取ると、流れ落ちていた血が瞬く間に止まった。それを見た沙月が眼を見張った。その様子を確認したマリアが、
「どう?」
と、沙月に感想を求めた。信じられない事象を目の当たりにした沙月に言葉はなかった。
「〝どう?〟――じゃない。いきなり、何すんだ」
「実証よ。〝百聞は一見に如かず〟――だわ」
ミケーレが抗議の声を上げたが、マリアは一蹴した。疑う者に信じさせるには、確かにその方が手っ取り早い。正論である。
「まったく。相変わらず、手荒いこった。曲がりなりにも、お前さんだって聖職者の端くれだろうに。……拭く物はあるか?」
傷跡は残っていないが、まだ血のこびり付いた部分を眺めて、そう要求するミケーレに、すでにマリアは黙って真っ白なハンカチを差し出していた。ミケーレがそう言うだろうことが、マリアには分かっていたのだ。その美貌を微かに、済まなそうな表情が過ぎったことに誰が気付いたか。
「綺麗だな。いいのか?」
「ええ、構わないわ。……ごめんなさい」
差し出されたのが、あまりに綺麗なハンカチだったので、ミケーレはつい聞き返していた。汚してしまうことに躊躇いを覚えたのだ。それに対して返答したマリアが、継いで謝罪の言葉も述べた。ミケーレは思いもよらなかったマリアの謝罪に、
「ああ……。いや、気にするな」
と、言った。それから、ハンカチで血を拭った。傷はまったくない。
「そう」
マリアがぽつりと呟いて、そっぽを向いた。
ミケーレに対しては、後先考えずに行動して、その仕出かした行為に後々、後悔することがマリアにはあった。心当たりも多少はあるにはあるのだが、マリア自身にも、はっきりとした理由は分からない。
そんな二人のやり取りを、傍で、沙月は何とも複雑な心境で見ていた。
いつに間にやら、蚊帳の外に置かれているようにも思えた。二人の間に割り込めない、仲間外れにされた子供の寂しさにも似た思いに囚われたのだ。
「え、えと……。昨日のあの黒い影はいったい……?」
寂寥感を拭うように、沙月はそう話題を振った。
「ああ、そうだった。あいつも吸血鬼だ。同じ吸血鬼からも〝
ミケーレがそう話すのを、マリアは隣で相槌を打つように黙って、うんうんと頷いていた。
発端は十日前、ヴァチカンで起きた――。
ある一人の枢機卿が殺されたのだ。
その枢機卿は、とある宝物庫の管理を任されており、ごく一部の者しか知らない、そこへ通じる秘密の階段のある礼拝堂で殺されているのが発見された。階段の入り口は開け放たれていた。当然、大騒ぎになり、宝物庫の点検が行われた。その結果、ある聖遺物がなくなっていることが発覚したのである。
「なくなった聖遺物ってのが、〝キリストの肝臓〟と呼ばれてる物だ。もちろん、本物ってわけじゃないが、そういう説もあるって代物だ。真偽はともかく、そいつを喰らえば、大変な力を得られる――なんて、伝説があるくらいでな。それを取り戻せ――ってのが、今回の仕事でね。相手が吸血鬼だ――ってんで、同類の俺にお鉢が回ってきたんだ。そもそも、教会には教皇ですら知らない、様々な裏の顔もあってね。こんな事件を解決するために、自前の部署もある。よく映画やなんかのお話に出てくる〝異端審問会〟なんてのもその一つだ。このマリアもそこの人間でね」
と、横のマリアをちらと見ながら、ミケーレが言った。
「教会ってところはどうも、〝奇跡〟ってものを独り占めしたがるようでな。『信仰ある自分たちだけが、様々な奇跡を起こすことが出来る』――ってわけだ。自分たち以外の、〝力〟のある者はみな〝異端〟扱いなのさ。その異端の中には、人間に害を為すものもいる。それらを始末するのが、異端審問会の仕事だ」
「マリアさんが……。じゃあ、ミケーレも?」
「俺はあくまで外部の者さ。たまに厄介な事件の時に、協力を依頼されるんだ。十字架が苦手な吸血鬼が協会の所属だったら、奇妙だろ?」
と、ミケーレは沙月に片目を瞑って見せた。沙月が初めて、〝ミケーレ〟と呼んだが、そのことに、ミケーレは触れなかった。そもそも、そんなことなど気にしていないだけかも知れなかったが。
「で、やっと追い詰めたと思ったら、こいつが邪魔をして、逃がしちまった――というわけさ」
「何よ?」
ミケーレに指差されたマリアが、不貞腐れたように言った。ちょっぴり膨らませた頬が子供のようで、可愛らしかった。
俯いて、少し考え込んでいた沙月がマリアに問うた。
「どうしてですか?」
「え?」
「マリアさんにとっても、あの黒い影の奴は捕まえなきゃいけない相手でしょう? なのに、どうして邪魔なんてしたんです?」
その問いかけにマリアの表情がみるみる沈んでいくのを、沙月は見た。何か言い難い訳でもあるのかも知れない――と沙月は思った。
「沙月。もう、午後の講習が始まる時間よ」
と、話題を無理やり変えようとするようなマリアの返答であった。沙月の質問そのものには、何も答えていない、マリアらしからぬ歯切れの悪い返答である。
が、しかしながら、その効果は
「えっ? あっ……」
暖炉の上に置かれた置時計に目をやり、沙月は慌てて立ち上がった。講習まで、あと五分もない。
「ま、また来ます。あの、コーヒーとクッキー、ご馳走様でした」
「ああ。終わったら、あの樹の下にな」
「はい。じゃあ、あとで」
出て行く沙月に、ミケーレがそう声をかけた。マリアは黙ったまま、片手を上げてよこした。
ばたばたと沙月が出て行った扉をぼんやりと眺めながら、マリアがぼそっと呟いた。
「沙月に私のこと、言わなかったのね」
「まあ……な」
ミケーレがコーヒーカップを覗きながら、こちらもぽつりと小声で言った。両手で大事そうに抱えているが、カップの中身はすでに飲み干されていた。傍から見れば、カップの余熱で暖を取っているようにも見える。
「誰だって一つや二つ、触れられたくないもんくらい、あるだろ」
「……そう」
自分の足元の影を見やりながら、マリアが呟く。その影は若干ではあるが、薄く見えた。
隣に座っているミケーレのそれよりも――。
「弱音を吐きたい時だって、あっていいさ。愚痴くらい、俺が聞いてやるよ」
それを聞いたマリアが、ハッと顔を上げた。
「カプチーノ、
ミケーレが独り言のように、先ほどマリアが入れてくれたカプチーノが
「お代わりね。わかったわ」
と、立ち上がった。先ほどまでの暗かった表情が、霧が晴れたように嬉しそうである。楽しそうでもあった。それを見たミケーレが、
「うん。やっぱり、そんな顔してるほうが、お前さんにはお似合いだ。じゃないと、せっかくの美人が台無しだ」
と、顎に手を当てながら、納得するように、そう言った。
「上手くいっても駄目よ。カッフェ以外は何も出ないわよ」
と、マリアは台所の扉へと向かった。ドアをくぐる時、音になるか、ならないかというくらいの声量で、
「……ありがとう」
と呟いたのを、ミケーレが聞き取ったかは分からない。ただ、窓の外を眺めているミケーレの顔は穏やかであり、どこか嬉しそうであった。
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