—————……





「純」



聞こえて、すぐに解る声。



もう何度も呼ばれたけど、やっぱり思い出されるのは一番初めに呼ばれた時。



さっきまで、大きくて温かい、安心する何かが近くに在った気がするけど今はもうない。


「俺、朝練行ってくるから」



「……え。だめ……」


気になるワードを拾って頭が冴えてくる。咄嗟に返した。



「だめ?」



ゆっくり瞼を押し上げた先には、寝そべり片肘をついてこちらに目を細める紅騎の姿が在った。



「あれ」


はたと我に返る。昨夜は、紅騎が無事に眠ったのを確認したら自分の寝床へ戻る手筈だったのに、今目の前の紅騎には朝日らしきキラキラが差し込んでいて眩しい。


いつの間にか、場所も入れ替わっている。


「はよ。よく眠れたかよ」


自分に続いて身体を起こした紅騎が若干恨めしそうにそう口にしたから、自然と申し訳ない思いを込めておはよう、と取り敢えず挨拶を返した。



「ボク、そっちで寝なかった……?」


「あー……。まぁ」


まぁ? 何だろうその曖昧な返事は。



「言っとくけど一切触ってないからな!?」


何だろうと思ってできた一瞬の沈黙をどう受け取ったのか紅騎は自ら両手を上げて訊いても、ましてや疑ってもいないことを弁明してきた。


「純さぁ、右向きで寝るくせあるだろ。いや最初の時とか、何回かしか見たことねぇけど昨日もそうだったから……それで、俺の方寄ってきたから俺がこっちに回ったってだけ、だから」


珍しく口籠っている。



「今日休みだし、もうちょい寝てれば」



自分のとこでな! と慌てたように付け加えられて、ボクはまずい事をしてしまったのだと悟った。



「あ、ごめん、ボク……戻るつもりで……」


冷えていく指先と心。人には立ち入るなとか言いつけておいて、自分は相手の嫌な事を平然とやってしまった。



「ごめんなさい」


謝罪を繰り返し、頭を下げた。



紅騎に休んでほしかったのに、ボク他人がいたことで余計に休めていなかったらどうしよう。



この前もそうだ。紅騎にずっと嘘を吐いているのは自分のくせに、試合で負けたことを気にしてないと言った紅騎を嘘吐きだと責めた。

邪魔になっている。自分勝手すぎて、


「純?」



紅騎の口から相部屋を解消してほしいとの申し出があっても、何も不思議じゃない。



「……。


でも、紅騎」



「でも?」


「こんな運動もできない知識もない奴に言われてもうざいだけだと思うけど、本当に、無理はしないで。具体的に言うと体育館の閉館時間を過ぎたら帰ってくるのが良いと思うし、雨の日のロードワークも風邪を引くから……。ご飯を食べる時と寝る前のスマホもよくないというからご飯くらいは」


「無理してない」


してない、と。

遮った紅騎は「足りないからやってるだけ」とまるで自分に言い聞かせるようにきっぱり口にした。



その時その下で硬く握られた拳の中には、もう済んだことだと勝手に結論づけていた、この前の『気にしてない』が確かに在った。



「朝練行ってくる」




そうだ。


そうだった。



紅騎は嫌なことも、嫌なことのまま終わらせたりしないのに。


そんなの、わかっていたのに。





・ ・ ・





その後紅騎は、朝ご飯の時間になっても昼ご飯の時間になっても戻ってこなかった。



「じゅーん、どした」


「南」


また会ったね、と朝食堂で会った南が廊下の向こうから歩いてきて立ち止まる。


「ん? まだ元気ないじゃん」


覗き込まれ、落ち着かない気持ちをどうにか落ち着かせようとぐっと奥歯を噛み締めた。


「——週明け、そっちのクラスも小テストある? 英語」


「う、ん。あるよ」


「小テストの範囲じゃなくねってくらい範囲広いよな」


「……まだ、やってなくて」


「え」


固まる南がどんな表情をしているのか見なくても分かる。


「純って理系? だよな、英語は」


「現国よりかはってくらい……」


「……」



情けない。

恥ずかしい。この一週間、期末も近いのに勉強が手に付いていないことも手に付かないからといって本命の理由の方も全く上手くいっていないことも。


「何やってんの?」


え、と顔を上げた。南は「あ、いや、責めてるとかじゃなくて。純粋に他に嵌ったことでもあるのかなーと」と側の窓を開けた。


雨が降りそうな、湿った空気が流れ込んで肌に張り付く。



「運動のこと調べたり……バスケのルールとか」


「バスケねぇ。ってことは紅騎関連?」


小さく頷く。


「だったら紅騎に訊けば良いじゃん。一番良い先生が一番近くにいるのに」


「紅騎、今忙しそうで。というかそれを控えるように言いたいのだけど何の知識もない奴に言われても聞く耳持たないのは当然だと思うから」


「成程。聞く耳持たないわけね。そういえば最近紅騎見ないもんね。

でも紅騎のそれは別に純に知識がないからってわけじゃないと思うよ、それより自分の所為で純が勉強に身が入ってないって知る方がショック大きそうだけど」



確かに湊に言われた時気にはしていたが、紅騎の所為ではない。


紅騎に知識もない奴なんて言われたこともないし、自分が勝手に納得いかなくてそうしているだけだ。



そっか。


『足りないからやってるだけ』



紅騎もきっと、同じだ。



それを無理するなと言われても、止める気なんて起きないかもしれない。



「……今朝、朝練行ってから戻ってこなくて。そのまま部活行ったんだと思うけど、朝ご飯も食べてないから」



その時、側で202号室のドアが開いて中から紅騎と同じバスケ部に所属する天音あまねが顔を出した。


「あ! ミミ! ね〜〜お願い、数学教えてよぉ。あと生物とできたら世界史もぉ」


「甘えすぎだろどれか一個にしろ」


「お菓子じゃないんだから」


瞬時に睨んだ南に対し素になる天音。背が高くて、ドア枠の上部分に頭がついてしまいそうだ。



「……あれ。天音?」



「何、純が教えてくれるの?」


「今日、部活は」


「部活? 休みだけど」



「やすみ……」



休み。じゃあ紅騎は、また自主練しているのか? 朝ご飯も、昼ご飯も食べず?



「純」


南は小さな声で呟いたボクの肩に腕を回し、支えた。暗くなりかけた目の前には小首を傾げる天音の姿が在って我に返る。


「だいじょーぶ。飯くらい何処かで買って食べてるだろ。もうすぐ、雨降ったら帰って来るよ」


「う、ん」


自分でも、呼べない。ぐちゃぐちゃで、何と云って表したらいいか分からない感情。


ある日の試合結果を経てから、何かに責められたように追われたように頑張りすぎている紅騎を、側で見ていながら止めることもできないで。


調べる中記事で読んだマイナスな単語ばかりが頭の中に浮かんで、今この瞬間にもバスケができなうなるような怪我をしているのではないかと心配で、だからといって自分は頼りになる対象ではなくて、それでも何とか、どうにかしたくて苦しい。


情けない。


もうあの時・・・、大切なものを護れない自分にはならないと決めたのに。



『無理してない』



そう、拒絶するような紅騎の表情を思い返す。



思い返して、顔を上げ、南に「ありがとう」と伝えてその場を去った。


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