「——っはぁ、は」
『無理してない』
その言葉を目の前で口にする人が居たとして、大事なのはその人が本当に無理をしていないかではなくて、その時どんな表情をしていたか、見逃さないことだと思う。
無理をさせないことができるならそうしたい。
後先のことも何も考えず寮を飛び出した時には、既に目に見えていなかった雨は降り始めていた。
数メートル進んだ先で気付いたから戻って、一本でも二本でも傘を持って出直せば良かったのに、南の言った通り大人しく寮で待っていれば何食わぬ顔で戻る紅騎と会えたかもしれないのに。
もし、紅騎が屋根のない所にいて、
一秒でも長く雨に打たれるようなことがあったら
もう二度と紅騎の痛みに寄り添うことは許されない気がして。
ただ待っているなんてできなかった。
どうしても。
菫がよく居る寮の中庭も、体育祭を行った校庭も、バスケ部が使う体育館もトレーニングルームも初め、紅騎が告白されているのを見た学校の中庭も見て回ったけどそこに姿はなく、もしかしたら擦れ違いで寮に戻ってお風呂でも入っているかも……そうだったらいいけど、と、最後に思い当たった、入寮する時に降りた最寄りのバス停前にあった気がする公園へと足を向けた。
「……」
会って、顔を見て、どうするんだ。止められるのか。
降り止まない雨と歩道脇の土の香りの中、所々に小さな水溜まりを作る濡れたコンクリートを瞳に映して、額に張り付く前髪を拭った。
雨の中、顔を上げるのは難しい。
それでも上げて一人を探した視線の先にはバスケットゴールがあった。
珍しいその前に、もっと珍しい人影。
「紅騎……」
思っていたより弱々しい声が喉を震わせた。
首元のTシャツを手繰り寄せて滴る雫を拭き、ボクよりもっと上を見上げる紅騎は、手にしていたボールを地面に弾ませるとゴール目掛けて放った。
そのボールは雨なんて関係なく素人目に見ても綺麗な弧を描いてゴールに吸い込まれていった。
初めて、見た。
……紅騎はこれを何百回、何千回見ただろう。
この努力を紅騎は足りないと悔しそうに呼ぶのか。
落ちるボールの音は雨音に紛れて聞こえない。
それを見つめる紅騎。
また、繰り返すのだろう。
「紅騎」
「————純」
振り返った紅騎は目を丸くして、驚いたような素振りを見せたけど。
すぐにその力も和らぐ。
「だよな」
呟いて、転がったボールを拾う。
「純はぜってー放っておかないよな」
分かったような、ぎりぎり聞こえる声量で口を利く。
「じゃあボクが紅騎に何を云いに来たかも分かる?」
ボクの方は声を張り上げた。
何が云いたかったか。
無理しないでとか、早く帰ってきてとか、言いたいことならたくさんある。でも、そんなことじゃなかった。
一番近くにいて、見ていて云いたいことはもっと他にあった。
「……何?」
「————る」
「は?」
面倒くさそうな声でさえ聞き逃さない距離まで迫って、肺いっっぱいに空気を吸い込んだ。
「っ紅騎が一番頑張ってる!!!!」
「……っな、
ハァ!?」
「——ッゲホ——はー、これが云いたかった。
紅騎が。一番頑張ってる」
「いや……一応今聞こえてたけど」
「そっか。でも、本当に。ボクが今まで見た誰よりも、テレビの中の人よりも、雑誌の中の人よりも、目の前の紅騎が一番頑張ってた。それを、見てるよって伝えてなかった。
紅騎が誰より努力してること、分かってたはずなのにそれをすっ飛ばして綺麗事ばかり言った。
ボクだけじゃない。誰に聞いたって紅騎はひたむきに努力を続けて実力を勝ち取るような人だし、バスケが好きだよ」
「だから、バスケが好きっつうのは」
「嘘じゃない。嘘っていうのが嘘だ、大抵の人は仕事でも、強制されてもいないのにご飯より優先するようなことを好きじゃないとは言わないよ」
人の気持ちを決め付けるのは難しいし、どうかと思う。
実際頑張っている人からしても、別に誰かに認められることが目的じゃない限り他人からの“肯定”なんて必要ないのかもしれない。だってボクらは誰かに肯定されなくてもそれをやり続けるのだから。
「……どうだろうな」
紅騎は僅かにバスケットボールを抱える腕に力を込めたようだった。
それでも、ボクは紅騎にはその頑張りを見て、知って、励まされている奴がここにいることを知っていてほしい。
絶対に知っていてほしい。
「紅騎。ボク、は、紅騎と相部屋になってから、何かを頑張ろうとする時、いつもその理由の傍に “紅騎も頑張っているから”がある。夜が遅くて朝が早くても、誰かの所為にしたり文句を言うでもなく自分の意思で前に進む紅騎は本当に格好良い」
紅騎がきっと本当は大好きなバスケの試合で勝って一緒に喜べるのは、紅騎の嬉しいとは違う。
努力が報われた嬉しそうな紅騎を見れたから嬉しいんだ。
だから、負けようが紅騎が前向きなら何とも思わない。それを応援し続けるだけ。
でももし、ほんの僅かでも前向きじゃないなら。
「自主練、終わったら一緒に帰ろ」
「いや先帰れよ。めちゃくちゃ濡れてんじゃん」
「やだ」
「……真似したな」
ふふ、と笑みが溢れる。二人ともびしょ濡れなのに変だ。何にも解決してないし。
けど、ちゃんと向き合って云いたいこと言ったら、こんなにも心が晴れるものなんだ。
「やっぱり紅騎は凄い」
見ていて真っ直ぐで、眩しい。
「何もしてないけど」
「何もしてない人なんていないよ。紅騎は頑張「っわかったから!
ヤメテ……クダサイ……」
何故か大きな片手で顔を覆って隠れてしまう紅騎。
言われた通りに止めると、それを確認した後で歩み寄ってきた。
「はぁーーぁ」
隣に並んだから、振り返って見上げると、照れているのか呆れているのか判らない表情をしていた。
「イテ」
紅騎を見上げたら、雨が目に入った。目を瞑った先で大丈夫かと心配してくれているから大丈夫だと答えてゆっくり目を開ける。
「負けました」
視界いっぱいに紅騎の正解——不貞腐れた表情が迫って、瞬きをひとつする。
「自主練は止められねーけど、確かに根詰めてた。
……体育館閉まったら大人しく帰るわ、多分」
言ったこと、覚えてたんだ。
多分というのが怪しいけど、多分、守ってくれるのだろうなと微笑ましく、歩き出した紅騎に付いて行く。
「雨の日は?」
「外練しませんー。期末前に相部屋の奴に風邪引かれたら堪んねーしな」
紅騎は恨めしくこちらを睨んだようだがボクは「スマホは?」と続ける。
「飯の時はやめる。でも寝る前くらいは許してくんね?」
「ははっ」
「何がおかしい?」
「わっちょっ……紅騎は素直で従順で、確かに“騎士様”っぽいなーって、
うわっ」
指先で濡れた額を弾いた後、言い掛けるボクの肩に腕を乗せてきた紅騎。その重さよりも、雨だというのにふわりと鼻孔をくすぐるそれの方が気になった。
紅騎はやはり、いい香りだ。
「帰るか。戻ったら風呂直行だな」
自分の所為なのにやれやれと肩を竦めているが、その件に関しては同意できずに固まりつつ、足は紅騎と並んで寮に向かい出す。
「まー早い時間の方が空いてるか」
な、とこっちに同意を求めてきた。わ、わざとか? いやそんなわけ……と疑いつつ「んー? あはは」と必死にどう回避するか思考を巡らせるも至近距離の紅騎は鼻が利く。
「何? 入んねーの?」
直球で来た。
しかし、ボクの方も咄嗟に開けた記憶の引き出しの中、とっておきがあった。
とっておき……。
記憶の中の寮長さんが、ボクに授けてくれたままを思い出しながら口にする。
「『ボク紅騎みたいな格好良い身体じゃなくて恥ずかしいから……覚悟できたら……一緒に入ろう、ぜ』」
「ぁ?」
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