背中
「そんな“言い訳”で続けてるようなことでも、俺が起きれないからって朝早くからしつこく鳴らす目覚ましに文句も言わないで一緒に起きて、自分も俺が朝練の間予習するからって付き合ってくれたり、部活の後勝手に自主練して遅くなっても何でか先に寝ないで今度は復習しながら待ってたりする相部屋の奴がいるから、苦じゃなくなってきたんだよな」
「それは、ボクが勝手に」
「言うと思った」
紅騎は少し困ったような顔をして笑う。予想されてしまったようだ。紅騎が毎日欠かすことなく、
「苦じゃなくなってきた、っつーか……救いなんだろうな、純が」
す、すくい?
身に余るお言葉を授けられ目を点にしていると「いや、癒し?」と首を捻って考え直す紅騎の声が両の耳を通過する。
「ペットとか飼ってたらこんな感じなんだろーなー、的な?」
「ペット……」
それは確かに、もしそうだとしたら、微力ながら紅騎の力になれているかもしれない。そうだと良い。
「だから、そのままでいいよ純は」
「そのまま?」
ペットっぽくってことかなと想像したら「ペットじゃなくて」と読まれた。
「今のままの純ってこと。じゃなきゃ困る」
言い切って立ち上がり、荷を肩に掛けた紅騎は「行ってくる」とだけ口にして通り過ぎて行った。
行ってらっしゃい、も 頑張って、も。
誰より強く想ったはずなのに、言えなくて。
拳だけを強く握り締めた。
紅騎が部屋を出てから数時間、折角、紅騎が良く云ってくれたのだから自分も今できる事をと机に教材を広げてみたはいいものの、呆れる程頭に入ってこなくて、結局今は硬い床に仰向けになり高く白い天井をただ見上げていた。
紅騎……あと湊たちも。今頃頑張っているのだろうか。
きっと、いいや絶対。頑張っているに違いない。
頑張れ、頑張れ、
「がんばれ……」
本人に云えなかった言葉は、独りの空間になって 今更宙に浮く。
滲む後悔より濃く、毎日既に頑張っている紅騎の姿が目の前に浮かんできて、行き場のない思いに胸が痛む。
その時、スマホの振動が床を伝ってきて飛び起きた。
何処に置いたっけと過ぎるそれを見つけて手に取る。
もしかしたら何か、誰かから試合の事かも——そんな逸る予想を打ち消す、一通の通知が画面上に照らし出される。
〈 夏休みはいつ帰って来られる予定ですか?
こちらの予定もあるから早めに知りたいです。
返信待ってます。 母 〉
母。そう締め括られた入寮以来の連絡文を読んで、下がる眉尻に気付かないまま、それでもなんとなく、もう一度読み返す。
さっきまで電気を点けなくても大丈夫だった部屋で、急にスマホの画面が眩しく感じられた。
スマホを持つ両の手は、力が隠ったような抜けたような、変な感覚。
ただドキドキと心音が速くなったのはわかっていた。
はやく、返信しないと。
文字を打ち出しては消して、読み返しては止まる。
詰まって、上げた顔を向けた先は、いつも紅騎のいるロフトだった。
それだけでどうしてか、さっき紅騎に向けた頑張れが返ってきたような気がした。
背中を押されて、〈 お元気ですか 〉と打ち出した——。
メールを返信してから自習を再開して——その間も何度も更なる返信が来るか気になったけど——大浴場が開く時間が迫って自習を終えた時も返信は来ていなかった。
出向く行動の流れには大分慣れたけれど、気持ち的にはずっと緊張を保ったままのお風呂を終えて部屋に戻ってきた時も、紅騎が戻ってきていないのは勿論、返信もなかった。
明かりの点けた部屋の中でもう今日は来ないだろうな、忙しい人だから、と納得させる言葉は暗くて。
晩ご飯の約束を潮と菫としたからその内行かなきゃなと思いつつ、紅騎のことが気になって部屋から動けずにいた。
その内、鍵の掛かったドアノブが捻られて音を立てた。
「あっ、待って今開ける」
鍵は始めの頃、きっと掛けない事の方に慣れていた紅騎が構わず掛けていいと言ってくれた。それからは明かりが点いて、先にボクがいると判る時は鍵を使っていたけど……
自分の陣地の方へ足を向けていたボクは急いでドアに駆け寄って、鍵を捻った。
ドアノブを持って引くと同時に向こうからも押されて、どんな表情をしているのか気になっていた紅騎が顔を出す。
「紅、騎」
「ん?」
見上げた紅騎はこちらを見下ろしていつもの、安心する表情を
作った。
「おかえり……」
「ただいま。鍵、だったな。ごめん、ありがと」
ドアを支えてボクが部屋に戻るのを待ってから、自分も上がった。
大きな部活のバッグを下ろして、「純飯食った?」と背中を見せたまま訊かれる。別に、いつも通りだ。
「ううん、これから」
「そっか。俺今から風呂入ってくるわ、先食ってていいから——」
「わっ」
小さく声を上げたボクに「?」と振り返った紅騎。
「こうき、ふ、服」
紅騎は言いながら着ていたTシャツを脱ぎ棄てていた。
「あぁ、悪い」
ボクの反応を見て気付き、再び着直してくれたけれど。
もしかしたら紅騎は、ボクが相部屋になってから想像以上に気を遣ってくれていたかもしれないという考えが巡ったけれど。
今はそれより何より、やっぱり、いつもとは違う気がした。
「……」
Tシャツの裾を握り締める。
こういう時友だちは、どうするのがいいのかな。
菫だったら、湊だったら、潮だったら南だったら真っ直ぐ真っ正面から訊くだろうか。
紅騎が、そのままでいいと言ってくれたボクは、
「負けた。試合」
ぽつ、と落ちた言葉は一番初めに降る雨粒みたいに、
冷たく、存在感を伴ってその先の色を濃くした。
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