「菫、前回負けたくせに懲りないじゃん」


菫 前回負けたんだ…。

ん? 前回?


「その前は俺が勝ってんだよ。前回もおまえが擽るっつー卑怯な手で奮闘した結果だろ」


「擽り」


「前々回は菫が砂掛けたんだよな」


「砂」


これが本当に来年成人を迎える高校生のする殴り合いかどうかはわからないにしても何か全体的に菫が卑怯くさいのはわかった。砂はないよ。悪役のすることだよ。


「ちげーよあれはおまえの目がでかいから」


勝手に吸い込んだんだ、と最早高校生かどうかが怪しくなってきた菫が言った。

寮長さんへ。ボクは本当にこの人に女だと話しても大丈夫だったのでしょうか。


その時、紅騎の背景で湊が部屋から出て来たのが見えた。湊はこちらに向かって来ながら「あ、純ー。純は来週の体育祭何か出んの?」と至って普通に話しかけてきた。対峙してメラメラと炎を燃やす紅騎と菫が視えていないのか。


「皆が練習してたようなものは出れないけど練習なしで参加できるものは出ると思うよ、個人競技とか。パン食い競争とか借り物競争とかあるんだっけ」


まだ詳しくは聞いてないが体育祭に関してはどうしてもスポーツ科が圧勝してしまう為、そもそもスポーツ科の活躍が期待される“魅せ場”的な行事だと聞いている。


「そりゃそうか〜って どした? 顔にスッゲェ赤い痕ついてるけど。何これ手形? 何があった」


「湊、紅騎と菫が」


「あ〜。今年はバレーで当たるんだっけ。去年も盛り上がったからなぁ、楽しみだよな」


な、と間近の菫を華麗に避けて肩に腕を回してきた湊に疑問符が浮かぶ。何の話か問おうとしたら頭上から地を這いずるような低音ボイスが落ちてきた。


「ちげぇよ…残念ながら今年は同じ・・チームなんだよボケェ…」


「そっか。それはそれで面白そーだな、この状態で。お互いトス上げられんの?」


「上げねぇよ。全俺スパイクだわ」


「え、ダイレクトってこと? 無理だろ。まーこっちに勝機が回ってくるから良いけど」


半笑いの湊にはちゃんとこの二人の状況が視えていたようだ。それでいて体育祭の話が進んでいる。


「俺が点入れまくって一般科の女子も特進科の女子もメロメロ骨抜きにしてやんよ」


チラッチラッと紅騎の方を振り返る湊に「湊もバレーボールなんだね」と頷くと「いや俺はフットサルです」と真顔で頷き返された。


「部活と同じ種目は選べねーしクラス違うから紅騎と当たる可能性あるのも嫌だし。菫にはチートだからぜってーフットサルは選ぶなって念押して、フットサル」


二人とも高身長だから優先的にバレーに持ってかれることを予想してフットサルを選んだ俺の作戦勝ちだな、既に戦いは始まっている、と豪語。ボクからすれば湊も大概大きいけれど…湊にはまたこの二人とは違う戦いが始まっているらしい。


「応援するよ」


「えー。男に応援されても嬉しくなーい。クラスの可愛い女子に俺のこと広めておいて」


「ハイ、ワカリマシタ」


「まっ体育祭当日は時間の関係で準決からになるから前日までにそこまで勝ち残れたらの話だけど」


「純は俺のこと応援して」


いつの間にか紅騎も近くまで来ていて、爽やかな笑顔で覗き込まれる。


「そしたら絶対勝つから」



「もちろん皆のこと応援するけど…」


菫を見上げる。

本当はそれより何より、仲直りしてほしい。



「ヒューすげー自信。流石騎士様、仰ることが違いますなぁ」


「騎士様?」


「一年が紅騎のことそう呼ぶんだよなー」


所謂ジト目というやつな湊の、ボクの肩に乗せられた腕をぺいっと投げ棄てる紅騎。


「ほらぁ。そういう所じゃね? これ紅騎が騎士様なら純は騎士様に守られる坊っちゃんだな」


「坊っちゃん…」


「なぁ。俺風呂行きたいんだけど」


湊からの新鮮な響きをなぞったら、ずっと桶を抱えていた菫が痺れを切らして口を開いた。


「お、そーだよ俺らも飯行こうぜ紅騎。純は? 食った?」


「俺と食った」


「そ」


「……」


「純、風呂は? これからなら行こーぜ」


「あ、いや、ボクはもう少し復習してから入ろうかな」


「復讐? そか。頑張れよ」


新人であるばかりに心優しい皆が気に掛けてくれる度心が痛いが下手くそな苦笑いを浮かべるしかない。これもまた歯痒い。




・ ・ ・




皆と別れて大浴場が閉まる時間になったのを確認してから昨日同様忍び込んだ。菫とすれ違ったりしたらどうしよう、でも菫、お風呂早そうだからそれに賭けるしかないよな…なんてドキドキしつつ。


結果、無事に部屋に戻って来れて安心したのも束の間。


事件は起きた。



「純、おかえり」


「ただいまぁ」


何事もなかったのが嬉しくてほっとして気の抜けた挨拶を返してしまった。今何も思わず反射的に返したけど、紅騎、『おかえり』って。

寮ではただいま、おかえり、が挨拶なのかな。


…なんか、いいなぁ。


シャワーを急いで浴びただけの身体がぽかぽかするのを感じながら上がると、ロフトから降りてきた紅騎が「ご機嫌だな」と微笑んだ。


「今おかえりって言われて嬉しいなと思って」


「何で?」


「何でって」


そう言われてみると、何でだろう。


「家……でも一応このやり取りはあった、けど。何だろう。今紅騎がロフトから顔出しておかえりって言ってくれたのが嬉しかったのかも。家では声だけで、用がない限り出迎えとかはなかったし」


実家にいる時は、このやり取りが“お母さん、家に居るよ。見張っているからね”に聞こえて心苦しかった。


「そっか」


しまった、最後の方ちょっと暗くなったかなと思って口籠るも紅騎はそれ以上何も聞かず、ボクが黙った後で「うちは男所帯ってのもあってかそもそもそういう挨拶? 適当だったなー」と終わりを柔らかくしてくれた。


「麦茶飲む? 水もあるよ」


「じゃあ麦茶いただきます。ありがとう」


冷蔵庫から取り出したペットボトルを受け取り、その場に腰をおろす。「紅騎は男兄弟なの?」と聞きながらキャップを捻ると水の方に口をつけながら器用に頷いた。


「そー。親父が違うんだけど兄貴が二人いて」



「…そうなんだ」


紅騎は、凄く上手に攫ってくれたのに。



ボクは上手く返せなかった。


一瞬でも何て返したら良いか、正解か考えてしまった。その一瞬の沈黙が相手を傷付けることだってあるのに。


「って、ごめんごめん。兄貴が二人いて〜だけで良かったよな。

余計なこと言ったわ」


何故か紅騎が謝っている。それが悔しくなって俯きかけた顔を上げた、その時。


珍しい時間に珍しくコンコンと規則正しいノックがされて注意が向いた。言葉なく率先してドアに近付く紅騎。悔しさが滲んでいるのか何だか嫌な予感がして、紅騎の腕に手を伸ばした。


「はい」


「紅騎くん、」


腕を掴んだのと同時にドアの向こうからの声。紅騎は「道子さんだ」と安心するように小さく振り返って口にして、ドアを開けた。


「ごめんなさいねこんな時間に」


「どうかしましたか?」


紅騎は掴まれた腕を払うこともなく問うたが道子さんの方は何かを言い辛そうにした。


「その…紅騎くんのお母様がいらしてて」




「は?」



「っ」


昨日今日と人に壁を作らない、明るく優しい所ばかり見てきた紅騎のその、たった一言は

それまでの空気感を全壊させるには十分過ぎる程重く、嫌悪に満ちていて。


嫌も憎いも恨めしいも憤りも……怯えも。混ざったものが、ぶわ、と身体を擦り抜けていった。



「いや……何で? 母親なんていません。他人です。部外者だっつって帰してください」


「事情は何となく聞いていたから遠回しにお帰りいただくようお伝えしたのだけど…

どうしても、一目だけでも会いたいって」



道子さんは紅騎のお母さんが今お手洗いに行っていてもうすぐここに来ると言い、


それに対して紅騎は道子さんに迷惑かけてごめんと謝り、わかった、後は大丈夫だと言ってドアを閉めた。



「……どっから」


閉めたドアの前にしゃがみ込んで小さく言葉を吐いた紅騎は、やはり沈黙の後で顔を上げた。



「純もごめん。俺、ちょっと行ってくるわ。先寝てて」



初めましてからずっと、真っ直ぐこちらを見て話してくれていたこの綺麗な瞳と、初めて目が合わなかった。

振り返り際の横顔じゃ、紅騎が今無理をしているってことくらいしか伝わってこない。


だから。


ボクにはいつも咄嗟の行動を起こす前に頭で考えて、躊躇してしまうっていう嫌な習性があって。

でも出来ることなら紅騎みたいに躊躇しないで誰かを安心させられるような強さが欲しくて。


立つ直前の紅騎を通り越して、部屋の明かりのスイッチを押した。



「——え」



暗闇の中、きっと小さく目を見開いた紅騎の腕を力の限り引っ張って部屋の奥へと突き進む。



「ちょ…っ何、純」



「シッ」


ボクは途中段差の角に小指をぶつけて密かに悶絶しながら、格好付かないまま自分のベッドのカーテンを開け、そこに紅騎を押し込んだ。


「痛ッ、純……! おま、ベッド入られんのあれほど嫌がって」


「いいから」


近付くヒールの音を背後に、ローテーブルに置きっぱなしにしていた防音ヘッドフォンを持って来て、外から差し込む月明かりにほんの少し照らされた紅騎に「大丈夫」と囁いて、布団と一緒に被せた。


カーテンを後ろ手で閉め、出入り口に立ち向かう。廊下でヒールの音が止んですぐ、


「紅騎ー? 久しぶり、お母さんよー」


と、女性の声がした。

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