暗がりとはいえ相手は大人の
「あっ紅騎——じゃ、ない」
紅騎のお母さんは眉間に皺を寄せて頭上のネームプレートを見上げた。「えーっと、西園寺くん?」と訊かれ、はいと頷く。彼女からはマスク越しでも伝わる仄かなお酒のにおいがした。
「紅騎は?」
部屋の中を覗かれ、それを庇って隠す。「寝てます」と答えるとすぐに「起こしてくれない?」と返ってきて思わず背伸びして頬を抓ろうかと、手が出そうになった。
「紅騎がスポーツ推薦でこの高校に入ったって聞いて。すごくない!? あの子、何かのスポーツが得意だったんだーすごーいって居ても立っても居られなくて会いに来ちゃったの、あ〜私、紅騎の母親ね。
あっ西園寺くんはあの子が何のスポーツやってるか知ってる? プロとか目指しちゃってる感じかなぁ? もしなったら」
「何のスポーツかもスポーツ選手を目指しているかどうかも知りませんが、かろうじて紅騎くんがとても努力家だということなら知ってます。でもそれはお母さんもご存知ですもんね。紅騎くんが一度寝ると朝まで何があっても起きないことも正当な理由なく人の住居に侵入すると住居侵入罪が成立することも」
ご存知ですよね、と一応マスクの下で笑みを作って言ったのだがわからなかっただろうか。
出そうになった手を行儀が悪いと律してみたもののその次に出た言葉の羅列も最後まで聞くに堪えないものだったから遮ってしまった。結局行儀が悪い。
高校二年生になった紅騎がスポーツ推薦で入学していた事をさっき、偶然聞いたかのように口にした。そのスポーツすら思い当たらない…ということは、そういうことなのだろう。
『母親なんていません』
あれだけ人懐こくて明るくて——眩しい、紅騎が。そんなことを口にしていた。その声色と背中が脳裏に焼き付いている。
紅騎がプロを目指していたら、もし叶えたらどうするのか紅騎が聞いていないにしても紅騎本人がいる部屋で言わせたくなかった。
「何?」
「…お帰りいただけますか。もう消灯時間になるので」
これだけ。絶対に通す気がないというのだけが伝わればいい。ぽかんとするお母さんを前にボクはマスクを下げて、わざわざもう一度「お帰りください」と微笑んだ。
怒りというよりは混乱が勝った表情のお母さんが最後に、「じゃあこれ紅騎に渡しといて。ここに連絡待ってるって伝えて」と差し出してきた社用の名刺を受け取り、貼り付けた笑顔のまま完全に見送ってからドアを閉め、鍵を掛けた。
「……ふー…」
『母親』
その肩書きがあれば、特に未成年のボクらは自分の意志とは関係なく、簡単に居場所に踏み入られてしまう…
ドアを背凭れに寄り掛かる。手の平の中の“社用”名刺はやっぱり一瞬躊躇してしまった後で閉まったベッドのカーテンを眺めながら握り潰し、ジャージのポケットに入れた。
すぐに明かりを点け、紅騎の元に駆け寄った。
そっと捲ったカーテンの先には、布団に包まって胡座をかく、真っ赤な顔を埋めた紅騎の姿が在った。
「紅騎? アッ」
覗き込んだ紅騎はヘッドフォンを外してしまっている。指先に引っ掛かっているのを見つけた。
「ごめ……、ごめ、ん」
つい。友だちのお母さんなのに、やってしまった。生意気な事をした、言ったと我に返って詫びた。
が、紅騎はまだ赤い顔を被った布団に埋めたまま。
それボクの布団なんだけどな…
「純、俺のこと『とても努力家』って言った……?」
「うん? 言ったよ。だって毎日時間いっぱいまで、昨日は疲れて床で寝ちゃうくらい頑張っていたみたいだし、月曜日以外は朝練もあって、休日も練習して、湊が練習試合で負けて悔しがるくらい強いんでしょ、紅騎。ボクはバスケのことはよくわからないけど…紅騎が立派な努力家だってことくらいはわかるよ」
ましてや知らなかったけどスポーツ推薦だなんて。立派すぎて眩しいくらいだ、と、指折り紅騎が努力家である所以を数えた。
紅騎は「昨日床で寝たのは別に疲れてたからって理由だけじゃねぇし……おまえ、よくそんな恥ずかしげもなく堂々と他人を褒められるな」と唇を尖らせて、
「俺一応天才って言われたりするんだけど」と付け足した。
「へぇ、努力の天才でもあるのか。本当に凄いな紅騎は」
「……そういう意味じゃ……てか、ベッド。良かったのかよ」
「良くないけど紅騎を護りたかった」
「良くないんかい。
純の方がよっぽど“騎士様”じゃん。負けたわ」
「いやいや。ボクは紅騎みたく顔も身体も性格も格好良くないから。運動神経終わってるってよく言われるから。ハッハッハ!」
大きな声で笑ったら、戻していたマスクが鼻の方までズレてふがふがした。
「何だよそれ、ずる……」
その所為で、紅騎の小さな囁きは聞こえなかった。
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