結局その後、二人を置いて医務室に行くなんてことはできなくて、そこで寮長さんに貰ったパンを分け合うのも違う気がして、気まずい空気の中、別れた。教室に戻ったボクは連れ回してしまったパンたちの中からひとつだけ取って、もそもそ食べた。
寮の部屋は朝出た時のままで、紅騎はきっと今日も部活なのだろう。昨日掛けまくった衣類は朝、顔を洗って戻ってきた時には既にちょっと不格好に畳まれていた。起き抜けの紅騎がわざわざ全部畳んでくれたらしい。
紅騎と菫、二人は、同じ部活なのかな。
洗面所の帰り道、食堂に行く時、朝ご飯食べた時……それに、昼休み。今日一日の場面場面を垣間見ただけで、二人がすごく仲の良い友だちだってことはわかった。わかった、のに。
フラフラとベッドまで歩いて行って、ほぼ荷物を下ろすのと一緒に倒れ込んだ。
『 紅騎 女嫌がるから 』
『 すごく楽しみだった 』
そう言ってくれたのに。
「…どうして女なんだろ」
登校初日。早速、躓いてしまった。
昨日初めて足を踏み入れた時は暖かいと思ったこの部屋が、今も同じ環境なのに冷たく感じる。
「洗濯しなきゃ」
決意するために口に出して、今朝訊いておいた洗濯乾燥機がある場所に向かった。
その途中、ボールが壁に当たる音が聞こえてきて下に何かあるのかなと注意が向いて。夕日が差し込む寮の中庭に菫の姿を見た気がして開いた窓の外を覗き込んだ。
「すみれ!」
思わず名前を呼んでいた。菫は気が付き、足を止めてこちらを見上げる。その足元には、サッカーボールが留められていて、菫はサッカー部だったのかと思いながら一瞬見つめ合った。
「あ」
急いで自分もそこに行っていいか、ジェスチャーした。すると菫の口が「どーぞ」と動いたように見えて、一階下まで走った。
「ごめ……っ練習してた、かな」
階段で転びそうになって、冷や汗をかいたボクは肩で息をしながら中庭に出た。
「別に身体動かしてただけだから。
おまえすげー足遅いな」
足音うるせーし、と冷ややかな目で見られて「そうなんだ」と苦笑い。全くその通りで、ボクからしたらスポーツ科の皆なんて雲の上の上の存在だ。存在するだけで凄い存在。
「何か…下駄箱反対側だったから置いてあったサンダル適当に履いてきちゃったけど大丈夫かな」
「水虫とか感染ったら大丈夫じゃないんじゃね」
「え!!」
バッと無意味に両足を広げて嫌悪したら菫が噴き出したから、また揶揄われたのかと察しつつでも本当だったら嫌だなと何となく爪先をサンダルから浮かせながら菫の元まで歩み寄る。
ボールを抱えた菫はまだ笑っていた。
「おまえ…っその前にそのサンダル、どう見てもサイズ合ってねーだろ」
寮の壁を背凭れに座った菫に続く。それはそうなんだけどと口籠るも、菫が笑っているのは素直に嬉しかった。
「その荷物なに」
「あぁ、洗濯しようと思って」
「だったら早く行った方が良いぞ。十八時くらいから混んで平気で全部埋まるから、もーすぐ」
「そうなんだ」
「おー。……。え?」
「え?」
再び見つめ合った菫の目が点になっている。
「いや、だから行ってこいよ洗濯」
「まぁ洗濯は今じゃなくても」
へへ…と笑ったが、不自然だっただろうか。話を逸そうとしたわけじゃないけど、菫はサッカー部だったんだねと続けた。
「ん」
横顔が夕日に照らされている。紅騎は、と訊こうとして考えてしまったら菫が口を開いた。
「紅騎はバスケ部。因みに湊も」
って、もー知ってた? と訊かれ、ううんと首を横に振る。
「皆大きいよね」
「あー…? まぁ、そうか? こんなもんだろ」
「菫、今日ごめん」
「何が」
「昼休みのこと。紅騎が女の子のこと良く思ってないのに、知らないからってボクが女だとか言った所為で…菫、紅騎のために知らせようとしたのに」
「あぁ。いや、あれは紅騎の許可なく話そうとした俺が悪いから。純の所為ではねーよ」
菫は、優しい。それはもうボクでも知っている。
「菫は悪くない。紅騎が悪いわけでもないけど……菫、紅騎が居ても苦手なものを伝えた方が紅騎の為になるって思って云ったんだよね。ボクは二人のことまだ全然知らないから勝手な憶測に過ぎないけど、紅騎は自分からは暗くなるとか気にして言わなそうだし…そしたらもっと紅騎を傷付けてた」
だから…と、ここでありがとうと云うのもおかしいよなと考え込むと、こちらを見ていた菫の手が伸びてきて乱暴に頭を撫でられた。
「考えすぎ。大丈夫だって。紅騎とは殴り合いの喧嘩になったこともあるけど仲良いし」
「な殴り合い!? 菫は兎も角あのお利口さんな、飼い主に忠誠を誓った大型犬みたいな紅騎が!? 殴り合い!? ふっ二人は不良……アッいや、菫は兎も角っていうのはその、違」
「するか? 殴り合い」
「誠に申し訳ございません……!」
菫が珍しいにっこり笑顔で取り出した拳、血管が浮いてて怖かった。
・ ・ ・
十九時。菫と別れて部屋に戻り、今日の授業の復習をしていると勢いよくドアが開いた。
「純!」
此処の寮生はノックという概念がある人の方が珍しいことが発覚。一応鍵はあるけど着替え、気を付けないとな…と、防音用にかけていたヘッドフォンを外して置いた。
「あれ、勉強? 飯食った?」
靴を脱ぎ掛けて止める紅騎。また髪が濡れっぱなしだ。
「お疲れさま。紅騎、また髪が…拭かないと…、ご飯なら食べたよ」
「一人で?」
「ううん、菫と」
「……」
「その事なんだけど。今——はこれから紅騎もご飯食べ行くよね、戻ってきたら少し時間貰っても良い?」
正座のまま出入り口の紅騎の方へ向き直り、訊いてから立ったら脚が痺れてふらついた。
紅騎は微妙な表情をしたまま上がり「いい、今聞く」と軽く腕を貸してくれた。
「あ、ありがとう」
改めて対峙して見上げると、やっぱり大きい。バスケ部というのも頷ける。紅騎は水を滴らせながら(?)神妙な面持ちで見下ろした後、「さんきゅな」と呟いた。
「え?」
「服。昨日大量にかかってた。夜はあんま分かんなかったけど、朝驚いたわ」
そういえば云ってなかったから、と。律儀だ。
「いや…ごめん、ボクの方こそあんなのしかなくて。
あともう一つ、昼休みの件も。ごめんなさい」
ありがとうとごめんなさいが交錯する。ボクはボクでまさか紅騎が昨日の事をわざわざ云ってくれるとは思ってなかったから拍子抜けしたけど、紅騎は紅騎で昼休みと聞いてもしっくり来てないようだった。
「あー…あれか、女。いやあれこそ俺の方が悪い。その内伝わるとは思ってたけど初っ端からそんなん聞かされても相部屋面倒な奴だって思わせると思って」
そうだったのか。
「思わないよ。ボクも苦手なものあるし、それが近くにあったら辛いのは当然だし」
言いながらこれは、紅騎にはボクが女だという事、何が何でも隠し通さなきゃならないなと密かに覚悟を決めた。
「……。はー」
沈黙の後、溜息を吐いてしゃがみ込んだ紅騎。貧血でも起こしたのかと思って寄り添った。
「純、ほんと良い奴だな。……俺、さ。昼休みみたいな事、たまにあって。正直キツく思う時あるけど“女が苦手で”とか、何か上から目線に思われるっぽくて」
「そうか。紅騎、格好良いもんな。確かにそれを贅沢だーって思う側の気持ちもよく分かる」
「え、味方じゃないんかい」
腕に伏せていた顔を恨めしそうに覗かせた紅騎に、はは、と笑みが溢れる。
紅騎の方が“良い奴”だから良く言ってくれたけど本当は、ボクは女だから紅騎に対して同性が思うように贅沢だーって思わないだけで。でも、今のはちょっと、女で良かったことかも。
だって同性だったらボクも紅騎を贅沢だと、羨ましく思っていたかもしれないから。
「純は女、へーきなんだよな」
びっくりした。『 純は女 』に一瞬肩が揺れた。
大丈夫大丈夫。偶然だ。平常心平常心。深呼吸深呼吸。
「う、ん、へーき。平気どころか大好き」
「……大好き……?」
寧ろこれは、引かれている。紅騎は「そっか、意外…」と呟いて。多分ボクは今から紅騎の中では女好きの純ということになった、
「あ!!」
「びっくりした」
「パン!!」
良かった思い出して。さっき菫との話の終盤も持って来たら良かったと後悔したばかりなのにまた忘れるところだった。といそいそ小型冷蔵庫の中に保管していたパンを引っ張り出す。
「今日のお昼に寮長さんがくれた物なんだけど、どっちが良い!?」
鬼気迫る様子に引きっぱなしの紅騎がわけもわからず「何だこの灰色のパン…怖過ぎんだけど」と灰色のパンを手に取った。
「それ“溶けた鼠のパン”」
「ハ?」
下校時に橘くんが教えてくれたパンの名前を伝え、「クソッ無性に何味かだけ気になってきたッッ」と頭を抱える紅騎残して部屋を出た。次、お隣206号室のドアをノックする。
数秒後、何故か不機嫌顔の菫が出てきた。
「ノック→開ける動作面倒だからノックせず開けろ」
「すみません…」
ノックという概念がないのではなく敢えての暗黙のルールだったのか? これからお風呂らしい菫は何故か銭湯に置いてありそうな手拭いが掛かった桶を小脇に抱えている。かわいい。
「あの、お出掛けの際にすみません。このパンだけ良ければ受け取って頂きたく。今日の昼に寮長さんから頂いた物です」
「あ? 何だこの紫色のパン。紫芋か? 要らね」
「そう言わずに。紫芋じゃないみたいだよ、“紫芋かと思ったっしょ? バーカ! 違うよ何味か気になる毒色のパンだよ”って名前らしいから」
「おちょくってんのか…?」
「イタタタタタタ」
紅騎とほぼ同じ反応を微笑ましく思う余裕もなく顔面を鷲掴みにされ、手にしたパンが震え出したところで出てきた205号室のドアが開いた。
「純 何このパン! チーズ味だったんだけど!? 鼠ってそういう!?」
どういう? その前に菫に掴まれていて紅騎の姿が見えない。あともうそろそろ足浮きそう。
「紅騎。昼、悪かった」
え〜〜〜〜!?
どういう脈絡!? このタイミングで謝る!?
「ヤダ」
ヤッ、ヤダ〜〜〜〜!?!?
まさかの展開。菫も流石にショックを受けたのかやっと指圧から解放してくれた。やっぱり浮いていたのか床に降り立つ感覚を味わうといつの間にか文字通り紅騎と菫の板挟みになっていた。
「そーかよ。じゃーやるか?」
「や、やるかってなにを? まさか菫」
「殴り合いだよ」
え〜〜〜〜!? 『殴り合いだよ』じゃないよ!!
過去の例の殴り合いももしかしてこうやって始まったの!?
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